2012年11月17日土曜日

鞍掛山城(山口県岩国市玖珂町字谷津)

鞍掛山城(くらかけやまじょう)

●所在地 山口県岩国市玖珂町字谷津
●築城期 不明(戦国期か)
●築城者 不明(杉氏か)
●城主 杉隆泰
●高さ 標高240m(比高180m)
●遺構 本丸・二の丸・三の丸、郭等
●登城日 2012年6月29日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 久しぶりに周防国(山口県)の山城を取り上げる。
 鞍掛山城は、大内氏の家臣杉治部大夫隆泰の居城といわれている。所在地は、岩国市玖珂の町の北方に聳える鞍掛山(H:240m)の頂部に築城されている。
山陽新幹線や山陽自動車道を眼下にすることができる。
【写真左】鞍掛山城遠望
 鞍掛山城のほぼ真下を山陽新幹線が走っている。また南麓には玖珂中学校を始め、玖珂の町並みが広がる。



現地の説明板より

“史跡 鞍掛合戦古戦場

 鞍掛山(240m)は戦国時代の古戦場である。
 弘治元年(1555)10月1日、安芸国の大名毛利元就は厳島の合戦で陶晴賢を滅ぼし、防長二国に進攻してきた最初の合戦が鞍掛合戦であった。

 大内氏の奉行三家老の雄、玖珂盆地の領主であった食邑(しょくゆう)3万石鞍掛城主治部大輔(たゆう)杉隆泰は、部下2,600を率い、11月9日より毛利軍7,000を迎え討ち、壮絶なる戦いを挑んだが、多勢に無勢遂に14日(10月27日説もある)部下の将兵1,370余と共にこの鞍掛山頂の砦をまくらに討死、落城した。

 城主杉隆泰、父入道宗珊(そうさん)の墓は祥運寺にあり、部下将兵は山麓に三基の千人塚として合葬されている。
   岩国市”
【写真左】鞍掛山周辺案内図
 西側から登る取付道路「鞍掛線」という林道のような道があり、そこを進むと駐車場兼「林間広場」という箇所にたどり着く。

 ここから歩いて317mという短いルートで簡単に登城できる。
 なお、東から登る道も整備されているが、これは歩道で、650mの距離がある。

鞍掛・杉氏

 鞍掛城主であった杉氏については、応永6年(1399)、室町足利将軍家と大内氏から当地(周防玖珂)を拝領した一族である、とされている。この年は「応永の乱」が起こった年である。そして当事者は、幕府方第3代将軍足利義満と、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6か国の守護職であった大内義弘である。
【写真左】駐車場側の登城口付近
 駐車場付近にはベンチ・便所なども設置されている。

 中央の階段を登っていく。
 ほとんどハイキング気分で登れるが、この日は非常に蒸し暑く、風がほとんどなかった。




 杉氏が玖珂の土地を拝領したのが応永の乱以後なのか、それ以前なのかはっきりしないが、別の史料によると、応永の乱の頃、すでに大内義弘の家臣として活躍している。したがって、鞍掛・杉氏が大内氏に仕えた時期もこれよりさかのぼった時期と考えられる。

杉隆泰

 鞍掛城主であった杉隆泰は、大内義隆に仕え天文19年(1550)、従五位下に叙し、以後治部大夫と称する。玖珂という支配地の関係もあったのだろう、義隆の重臣であった周防・若山城(山口県周防市福川)の城主陶晴賢に属していた。
【写真左】登城道
 始点から終点の本丸まで傾斜部には、こうした階段が設置されている。

 上に行くにしたがって傾斜がきつくなり、短いコースながら蒸し暑さと無風のため、息が荒くなる。











 晴賢が毛利氏によって厳島で敗死すると、大内義隆の跡を継いだ義長は高嶺城(山口県山口市上宇野令)から長門勝山城・勝山御殿(山口県下関市田倉)へ逃れた。

 一旦毛利氏に属した杉隆泰ではあったが、このことを悔い、密かに元就の動向を義長に伝えていた。こうした動きを察知したのが、鞍掛山城の北方に聳える蓮華山城主・椙杜隆康である。
【写真左】蓮華山城遠望
 鞍掛城の北方に聳える山城で、標高576m。したがって、鞍掛山城より2倍以上の高さを誇る。

 鞍掛山城を完全に見下ろす位置にあるため、隆泰方の動きが手に取るように分かったのではないだろうか。




 椙杜隆康は、隆泰の異心を元就にいち早く通報、毛利氏はこの年(弘治元年・1555)11月9日、7,000余騎の兵をもって鞍掛山城を取り囲んだ。5日後の14日、遂に鞍掛山城は落城、城主隆泰は、小方隆忠によって討ち取られ、他の兵も同じく城を枕に討死した。

 当日は鞍掛山城のみの登城で、周辺の関係史跡は探訪していないが、鞍掛山東麓・谷津原という箇所に隆泰の館があったという。また、隆泰の墓は当時谷津の祥雲寺という寺院にあったが、後に宇野口の小字丈六に移したという。またその祥雲寺も現在玖珂小字本郷に移っているという。
【写真左】本丸跡・その1
 約4aほどの大きさで、現在ご覧の展望台などが設置されている。
【写真左】本丸跡・その2
 公園のように整備されたせいか、遺構がほとんど確認できない。
【写真左】二の丸・その1
 本丸跡から北に尾根伝いに向かうと、堀切のような鞍部を過ぎると二の丸に繋がる。
【写真左】二の丸・その2
 二の丸の最高所にご覧の石碑が建立されている。
「古戦場鞍懸城址」と刻銘されている。
【写真左】本丸跡から玖珂の町並みを見る。

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