2012年11月9日金曜日

比熊山城(広島県三次市三次町上里)

比熊山城(ひぐまやまじょう)

●所在地 広島県三次市三次町上里
●別名 日隈山城・比隈山城・飛熊山城
●築城期 天正19年(1591)
●築城者 三吉新兵衛尉広高
●高さ 標高332m(比高170m)
●遺構 郭(千畳敷)、土塁、石垣、井戸、虎口等
●登城日 2012年5月29日、及び6月6日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『ものがたり 三次の歴史 三次地方史研究会編』等)
 前々稿比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)・その1でも述べたように、天正年間に三吉氏がそれまでの居城としていた畠敷比叡尾山城から上里の日隈山に築いた山城である。
【写真左】比熊山城遠望
 南方の尾関山城(公園)から見たもの(2010年12月10日撮影)







現地の説明板より

“比熊山城跡
 代々、畠敷町の比叡尾山を居城としていた三吉氏ですが、戦国時代の天正年間(1573~92)になるとこの比熊山に築城します。

 比叡尾山城を廃墟した理由は解りませんが、おそらく畠敷町の五日市が三次町に移ったので、河川交通の発達などから将来的に三次の地を城下町として機能を整備する必要があったのでしょう。
【写真左】比熊山城略測図
 日隈山頂部の地形を巧みに利用し、郭などの形状は四角形のものが多い。

 明らかに近世城郭(織豊期)の形態に近いものである。


 頂上の標高331mの城跡は戦時中に畑に転用されていたとはいえ、全山に郭・土塁・井戸・竪堀の構えを残しています。特に千畳敷と呼ばれる本丸に相当する郭は90m×50mの広さで、東端には高さ3m、幅5m、長さ30mの基壇も残り、相当な建物があったことを想像させます。

 現在は鳳源寺境内から山道が登っていますが、本来の大手道はさらに西の谷にあり、登り切った所には両側を土塁で囲んだ枡形と呼ばれる郭が設けられ正面玄関としての役割を果たしていました。

 三吉氏は関ヶ原の合戦で豊臣方に味方した毛利氏の武将であったため、改易となり三次の地を去ります。築城からわずかの年月でしたが、当時の築城技術を知るうえで当城は大変貴重な史跡です。
  三次市教育委員会”
【写真左】比熊山城登城道案内図
 南麓にある鳳源寺境内に設置されているもので、「比熊山もののけ登山道案内図」という標題がついている。



比熊山

 標高330m余りのこの山は、元々日隈山(ひぐまやま)と呼ばれていた。天正19年(1591)、すなわち三吉氏がそれまで居城としていた比叡尾山城から、この比熊山を本拠城とした年であるが、当時の城主三吉広高が、比叡尾山の「比」の字をとって、「比隅山」と改め、その後江戸時代の三次初代藩主となった浅野長治のとき、山の形が熊がうずくまっていると見えることから、現在の比熊山となったという。
【写真左】登城口付近
 上の写真にもあるように、南麓部の浅野家菩提寺・鳳源寺の西側墓地を抜けて、一旦東側に回り込むとご覧の箇所に出てくる。
 ここから九十九折を何度も繰り返して向かうコースが設定されている。

 


比叡尾山城から比熊山城へ移城した時期

 ところで、比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)・その1でも記したように、三吉氏が最初の居城であった比叡尾山城から、比熊山城へ移ったのは天正19年(1591)とされている。当然ながら、移る先の城普請はその前から開始されていなければならない。

 説明板にもあるように、普請開始は天正年間とされている。つまり天正元年(1573)から開始され、19年後の天正19年(1591)にやっと移ることになる。
【写真左】たたり石
 上段の写真でも記したように、比熊山城への登城道は、別名「もののけ登山道」とされている。
 この石は、「神籠石(こうごいし)」といわれ神様が宿る石として崇拝され、転じて触るとたたりがあると言い伝えられている。

 江戸時代の寛延2年(1749)、三次藩々士稲生武太夫(幼名・平太郎)が体験した妖怪物語『稲生もののけ物語』の中に出てくる石という。


 これだけ普請が長引いたのは、おそらく丁度この頃から始まった尼子再興軍・山中鹿助らを先鋒とした織田方の因幡攻めがあったためだろう。その後、毛利氏が秀吉と和睦してからは、長宗我部元親討伐(四国征伐)、島津義久討伐(九州征伐)、北条氏討伐などが続いているので、三吉氏自身も新城普請に集中できなくなったと思われる。

なお、以前紹介した比熊山城の南麓にある尾関山城(広島県三次市三吉町)は、元々当城の出城として造られている。おそらく、比熊山城の普請とほぼ同時期に築城されたものと思われる。
【写真左】土壇(基壇)・その1
 本丸の東側に設置されたもので、当城でもっともはっきりと残る遺構である。
 30m×5m、高さ3mの規模を持つ。
【写真左】土壇(基壇)・その2
 ご覧の通り当城跡は全域にわたって桧(杉か)が植林されている。
 このため、遺構写真としては解りやすい箇所があまり撮れないのが残念だが、現地に行くとそれなりの醍醐味を味わえる。



毛利氏の防長移封

 比熊山城に移ってから9年後の慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦によって西軍方だった毛利氏は、敗戦の結果防長移封となった。完成していなかった比熊山城はこの段階で廃城となり、城主三吉広高は毛利氏に随従することなく、浪人となった。

 その後、広島藩主となった浅野長晟(ながあきら)に迎えられ、寛永11年(1634)に没した。広高の墓所は比熊山城の南麓西江寺に葬られたというが、管理人は未だ訪れていない。

 当院には広高以外に、福島正則の家臣で尾関山城の城主であった尾関正勝の墓もあるという。浅野氏の菩提寺である鳳源寺は何度か探訪したが、この寺院については最近まで知らなかった。鳳源寺の直ぐ近くにあるようなので、機会があれば探訪したい。(後段追記参照)
【写真左】本丸から西にかけての郭
 本丸から西に延びる郭は、本丸とほぼ同じ規模だが、ここから角度を変えて北に郭が続く。
【写真左】北の郭群・その1
 中央の郭は60m×45mと大きいが、ご覧の通り本丸側に比べて未完成。
【写真左】北の郭群・その2
 北の郭群の東端部に当たり、この付近で1m程度の段がある。
 この位置からさらに北に下る道があったので向かう。
【写真左】林道
 降りるとご覧の道が北郭群の麓まで伸びていた。さらにその脇には看板が設置され、次のように標示されている。


“長伐期施業モデル林

面積 1.00HA
樹種 ひのき  林齢 41年

本数(1ha当たり) 施工前 1,467本 施工後1,175本
材質(1ha当たり) 施工前561㎥ 施工後477㎥

平成3年9月 三次農林事務所 三次市”

この林道はおそらく戦時中(昭和)当城を畑に転用していたとき、物資運搬用に設置されたものだろうが、戦国期も別のルート(搦め手)としての役割もあったのかもしれない。
【写真左】比熊山城の一角から三次の街並みを見る。
 全山植林のため、ほとんど俯瞰する場所はないが、1か所だけ展望できる箇所がある。
 中央部に巴橋と三江線の鉄橋が見える。




《追記》

三吉氏関係史跡

 日を改めた2012年12月2日、三吉氏関係の寺院・墓所を訪ねたので追加報告しておきたい。
 


【写真左】三次市史跡案内図
 比熊山城・尾崎山城付近を紹介した同市の「ふれあいマップ」という案内図があり、そこに三吉氏の関係史跡が表示されている。

 少し文字が小さいため判読できるかわからないが、左上段部に「西江寺」という寺院が表示され、当院墓所に、三吉広高と尾関正勝の墓が建立されている。
【写真左】西江寺入口
 上図でも分かるように、この付近には寺院をはじめ神社などが多く建っている。
【写真左】尾関正勝の墓
 「積山城主尾関石見守殿墓」と刻銘された石柱が傍に建っている。
 尾関山城は別名「積山城」とも言われている。

 なお、もう一人の三吉広高の墓も捜したが、新しい五輪塔はあったものの、表記されたものもなく、結局わからなかった。

 余談ながら、この日雨混じりの決していい天気ではなかったが、西江寺墓所内で、先祖を訪ねて東京から参拝に来られたご家族に会った。

 詳しい話は聞けなかったが、江戸期の三次藩初期に藩主(浅野家か)の妻として当院を支援した人が自分たちの先祖だという。そして、その墓を探しているところだが、おそらくここだろうと指を指していた場所が、当院累代の住職の墓所だった。その妻は後に出家したということなのだろうか。

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