2012年10月30日火曜日

興禅寺と春日局(兵庫県丹波市春日町黒井)

興禅寺(こうぜんじ)春日局(かすがのつぼね)

●所在地 兵庫県丹波市春日町黒井
●山号 大梅山
●開基 荻野悪右衛門直正(黒井城主)
●宗派 曹洞宗別格地
●本尊 釈迦如来
●中興 寛永3年(1626)移築
●指定 国指定史跡
●探訪日 2012年10月14日

◆解説
 前稿黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)の南麓に建立された寺院で、江戸期に活躍した大奥の春日局(かすがのつぼね)が生まれたところとされている。
【写真左】興禅寺
 南側の総門・参道から見たもので、向背には黒井城が控える。








現地の説明板より

“春日局生誕地(興禅寺)案内

 興禅寺は、山号を大梅山といい曹洞宗の別格地で、本尊には仏師春日の作・釈迦如来を祀り、七堂伽藍がよくととのった名刹です。

 戦国時代、この寺域一帯は、背後の山城黒井城(国指定史跡)の下館でしたが、天正7年8月、明智光秀の丹波攻めで落城。その戦後処理と西丹波一円の統治のため、ここに入ったのが光秀の重臣斉藤内蔵助利三です。今でも斉藤屋敷の伝承が残り、水濠と高石垣、白のねり塀のたたずまいは、往時の景観を良く残していて国の史跡の一部となっています。

 この年の春、母お安(あん)との間に生まれたのが、お福(後の春日局)で、寺内にはお福の「産湯の井戸」や「腰掛石」など残り、幼い日の春日局をしのぶことができます。
   丹波市観光協会”
【写真左】高石垣と七間濠
 斉藤氏の屋敷跡としての雰囲気が今でも残る景観である。









斉藤内蔵助利三

 お福(春日局)の父斉藤内蔵助利三は、美濃斉藤氏の一族といわれている。ただ有名な斉藤道三とは別の系譜で、父は利賢。

 利三は明智光秀とは縁戚関係にあり、明智氏の筆頭家老として重用された。光秀の本能寺の変に際して、当初反対していたというが、最終的には主君である光秀に従った。変後山崎の戦いで敗れ、逃走するも近江堅田で捕らわれ、最期は京都六条河原で斬首となった。去年49歳。
【写真左】楼門
 楼門(山門)は、ベンガラ色に染まり、屋根は武家屋敷風の趣を感じさせる。
 






春日局(斉藤福)

 利三には男4人、女3人の子があった。お福(春日局)はその三女といわれている。テレビの『大奥』などで度々紹介され、徳川第3代将軍・家光の乳母として知られる。

 お福が生まれたのは、天正7年(1579)といわれているので、丹波黒井城落城の年である。この3年後に本能寺の変が起こり、父が斬首されるので、3歳になったばかりで父を失うことになる。

 その後、母方の親戚であった公家・三条西公国に預けられた。ここで公家としての素養を中心に、書道・歌道などを習得していく。
【写真左】お福産湯の井戸・その1
 お福が生まれて産湯を浸かったといわれる井戸。
 本堂の裏にある。






 春日局が後に江戸幕府大奥の権力者となっていく大きな転機は、稲葉正成に嫁いだことからだろう。

 正成は小早川秀秋の家臣であったが、関ヶ原の戦いでは、当初西軍方の旗色を示していた秀秋を説得し、東軍方に寝返らせたことから、家康に勝利をもたらした。
【写真左】お福産湯の井戸・その2
 今でも水が出ているようで、きれいに管理されている。
【写真左】宝篋印塔
 由来など明記されたものはなかったが、お福産湯の井戸からさらに奥に進んだ小道の脇に建立されている。

 お福と拘わりのあった武将のものだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿