大屋・城山城(おおや・しろやまじょう)
●所在地 兵庫県養父市大屋町夏梅・加保
●築城期 不明
●城主 不明
●高さ 標高120m(比高30m)か
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2012年8月27日
◆解説(参考資料「サイト・大杉pcへようこそ」等)
前稿小代・城山城(兵庫県美方郡香美町小代区忠宮)で紹介した藤堂高虎が、一時期拠った地域にある城砦である。
【写真左】城山城遠望・その1
対岸である北側の「あゆ公園」側から見たもので、この箇所で大きく大屋川が南から東へと流れを変え、広い河原ができている。
城山城の向背には、大屋富士が控える。
左側へ流れていく大屋川は、但馬の大河円山川と合流し日本海へ注ぐ。
【写真左】城山城と大杉城の位置図
現地の観光案内図に書き加えたもので、かなり大雑把な図だが、およその位置は確認できるのではないかと思われる。
なお、上方が南を示す。
ただこの城砦については、正式な名称が不明で、添付写真の「城山」とかかれた「ふれあいの森 城山」という看板を頼りに管理人が便宜上名づけたもので、地元では公式な名称があるのかもしれない。
また、下段に示す現地の説明板は、当該城砦の位置に設置されたものではなく、麓を蛇行して流れる大屋川の対岸にある「あゆ公園」側にあるもので、大屋地区で戦いがあったことを示す内容のものである。
【写真左】城山城遠望・その2
上記とは逆に南側から見たもので、手前の道路は県道6号線(養父宍粟線)。
戦国期は下段の写真に示すように、向背に聳える大屋富士の尾根がつながっていたものと思われ、城域も南に延びていたと考えられる。
【写真左】城山側から大屋富士側を見る。
道路も含め、奥に見える岩肌はおそらく採石のためによって削り取られていたと思われる。
【写真左】登城口付近の看板
道路側に設置されているもので、「ふれあいの森」と記され、左右には地元の方による句が掲示されている。
残念ながら、当城にはこれ以外説明板のようなものはない。
登城口はこの看板の左側(大屋川側)にある。
【写真左】堀切
川側(西側)の切崖を下に見ながら進み、小規模な郭を過ぎると、ご覧の堀切が見える。
【写真左】主郭手前の郭を見上げる。
西から北にかけては大屋川が流れているため、文字通り濠の役目をしていたものと思われる。
東側については全面にわたって険峻な切崖形状を残している。
【写真左】主郭下の郭段
登ってみると、想像していた以上に規模が大きい。東側に幅の広い帯郭が北側に向かって伸びる。
【写真左】最高所
主郭と思われる部分で、4,5m四方の規模を持つ。
【写真左】主郭北側から大屋川を見る。
黄色にみえるのは田圃だが、おそらく戦国期はこの付近までが川、もしくは河原だったのだろう。
【写真左】主郭から対岸の「おおや農村公園」を見る。
川向うには、前述したあゆ公園や、農村公園があり、すこし登っていくと、農村風のペンション施設がある。
現地の説明板より
“藤堂高虎と加保・蔵垣野の戦
藤堂高虎は弘治2年(1556)近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)に生まれた。
長じて羽柴秀吉に仕え、その後秀吉の弟・羽柴秀長の家臣となり、数々の勲功を挙げた。
前国末期、秀吉の但馬征伐には、秀長に従って出陣し戦功を挙げた。
【写真左】藤堂高虎の標石柱
平成23年に建立されたもので、大屋川を挟んで西側のあゆ公園入口付近に設置されている。
中でも小代一揆との戦いは、高虎の出世の糸口となったといわれ、後世まで語り継がれてきた。この戦いは、天正5年(1577)第一次但馬征伐において、毛利方の一揆との間に繰り広げられた戦闘で、高虎は手勢を率いて七味郡・小代谷(美方郡美方町)に攻め入った。緒戦は圧倒的有利に展開したものの、小代一揆の猛反撃に遭って敗走し、わずかな手勢を率いて、辛うじて天瀧越えで大屋谷に逃げ込んだ。このとき、加保村の土豪・栃尾加賀守祐善とその子・源左衛門が高虎をかくまった。
これを知った小代谷の土豪・小代大膳(通称小代がんどう)らが、天瀧越え大挙して攻め込み、栃尾加賀守の館を取り囲んで攻防を繰り返し、数日に及ぶ激戦の果て、蔵垣野の決戦で高虎勢は、ついに一揆の大将・小代大膳を討取り勝利した、と伝えている。
いまに古戦場・蔵垣野には「がんどう塚」という慰霊碑が建ち、激戦の跡を残している。
【写真左】山城跡か
上記の標柱側から北を見ると、ご覧のような景色が目に留まった。
現地には「権現様」「牛飼場跡」と表記されたものがあったが、管理人にはどう見ても数段の郭を構成した城砦に見える。
資料がないため判断がつかないが、今稿の城山城との関連から、支城もしくは向城として使用されたのではないだろうか。
藤堂家文書には、この戦功によって高虎は、秀吉より3,000石が加増され、合わせて3,300石の知行取りになったと記録されている。
これより高虎は、しばらく加保村栃尾方に滞在した。この間、祐善の媒酌により、美含郡中野村の豪族・一色修理大夫の息女を娶ったという。
秀吉亡き後、高虎は徳川家康に仕え、忠勤と巧みな処世術により、津藩祖として藩制の基礎を築いた。晩年には伊勢32万石余りの大名に封ぜられた。
寛永7年10月没 享年75歳。
平成6年5月 標柱・案内看板建立
平成15年3月 案内看板建替
大屋町
大屋町商工会・大屋支部
大屋町観光協会
平成23年2月 標石柱建立
藤堂高虎公ゆかりの郷委員会”
【写真左】古戦場跡(蔵垣合戦地)とされた石碑
大屋川・県道48号線沿いの蔵垣という地区に設置されている。
地元大屋町の大杉地区を紹介したHP(「大杉PCへようこそ」)には、藤堂高虎が当地で戦ったとされる史跡・城砦が掲載されている。
上掲した説明板に示されている箇所については、このHPをみていただくとよく分かるが、今稿の「城山城」のある個所から、大屋川を少しさかのぼると、蔵垣という地区があり、ここが「蔵垣合戦地」とされ、「がんどう塚」が祀られている(「がんどう塚」については場所が分からず)。
この位置から北方に見えるのが、「大杉城」「丸部城」そして「高城」の三城である。栃尾加賀守の館は、少し下った加保という地区に示されている(大杉城等については次稿で取り上げたい)。
高虎の天瀧越えまでのルート
【写真左】天瀧越えの谷・その1
現在この谷には、天滝公園・キャンプ場、並びに「レストハウス天滝」という食堂兼土産物売り場があり、この位置に駐車して「天滝」に向かうことができる。
なお、藤堂高虎が小代での戦いに敗れ、敗走したとされる「天瀧越え」という箇所は、蔵垣からさらに大屋川をさかのぼった西谷というところから、北に杉ヶ沢高原の東方の峰を越えて、八木川の上流出合(であい)に至るルートである。ここまでのルートは分かるが、高虎が小代の城山からこの出合までたどりつくまでのルートは不明である。
【写真左】その2
天滝の川は西の谷から流れ、高虎が越えた谷は、この写真にある東側の谷のようだ。
現在の道を基準に考えると、小代の城山から一旦矢田川沿いに下がり、水間口というところから県道89号線(村岡小代線)に入り、三峠を越え、南に下り村岡のハチ北口から福岡養父線(269号線)に入れば出合にたどり着く。
しかし、これではかなり大回りにもなる上に、小代一揆が支配していた地域をしばらく通ることになり、不利である。
【写真左】ハチ高原スキー場
高丸山や鉢伏山の山並み。
そこで考えられるのが、小代の城山からそのまま矢田川をさかのぼり、現在のハチ高原スキー場に出てくる「小代越え」のコースである。
「小代越え」というのは、小代側すなわち現在の香美町小代区新屋(にいや)と、養父市大久保(ハチ高原スキー場側)の間に聳える高丸山(H:1,070m)の西尾根にある峠である。
八木川の源流に近い大久保に出れば、そのまま八木川沿いに約5キロほど降ると、出合に出る。おそらく高虎はこのルートをとったのではないだろうか。
●所在地 兵庫県養父市大屋町夏梅・加保
●築城期 不明
●城主 不明
●高さ 標高120m(比高30m)か
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2012年8月27日
◆解説(参考資料「サイト・大杉pcへようこそ」等)
前稿小代・城山城(兵庫県美方郡香美町小代区忠宮)で紹介した藤堂高虎が、一時期拠った地域にある城砦である。
【写真左】城山城遠望・その1
対岸である北側の「あゆ公園」側から見たもので、この箇所で大きく大屋川が南から東へと流れを変え、広い河原ができている。
城山城の向背には、大屋富士が控える。
左側へ流れていく大屋川は、但馬の大河円山川と合流し日本海へ注ぐ。
【写真左】城山城と大杉城の位置図
現地の観光案内図に書き加えたもので、かなり大雑把な図だが、およその位置は確認できるのではないかと思われる。
なお、上方が南を示す。
ただこの城砦については、正式な名称が不明で、添付写真の「城山」とかかれた「ふれあいの森 城山」という看板を頼りに管理人が便宜上名づけたもので、地元では公式な名称があるのかもしれない。
また、下段に示す現地の説明板は、当該城砦の位置に設置されたものではなく、麓を蛇行して流れる大屋川の対岸にある「あゆ公園」側にあるもので、大屋地区で戦いがあったことを示す内容のものである。
【写真左】城山城遠望・その2
上記とは逆に南側から見たもので、手前の道路は県道6号線(養父宍粟線)。
戦国期は下段の写真に示すように、向背に聳える大屋富士の尾根がつながっていたものと思われ、城域も南に延びていたと考えられる。
【写真左】城山側から大屋富士側を見る。
道路も含め、奥に見える岩肌はおそらく採石のためによって削り取られていたと思われる。
【写真左】登城口付近の看板
道路側に設置されているもので、「ふれあいの森」と記され、左右には地元の方による句が掲示されている。
残念ながら、当城にはこれ以外説明板のようなものはない。
登城口はこの看板の左側(大屋川側)にある。
【写真左】堀切
川側(西側)の切崖を下に見ながら進み、小規模な郭を過ぎると、ご覧の堀切が見える。
【写真左】主郭手前の郭を見上げる。
西から北にかけては大屋川が流れているため、文字通り濠の役目をしていたものと思われる。
東側については全面にわたって険峻な切崖形状を残している。
【写真左】主郭下の郭段
登ってみると、想像していた以上に規模が大きい。東側に幅の広い帯郭が北側に向かって伸びる。
【写真左】最高所
主郭と思われる部分で、4,5m四方の規模を持つ。
【写真左】主郭北側から大屋川を見る。
黄色にみえるのは田圃だが、おそらく戦国期はこの付近までが川、もしくは河原だったのだろう。
【写真左】主郭から対岸の「おおや農村公園」を見る。
川向うには、前述したあゆ公園や、農村公園があり、すこし登っていくと、農村風のペンション施設がある。
現地の説明板より
“藤堂高虎と加保・蔵垣野の戦
藤堂高虎は弘治2年(1556)近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)に生まれた。
長じて羽柴秀吉に仕え、その後秀吉の弟・羽柴秀長の家臣となり、数々の勲功を挙げた。
前国末期、秀吉の但馬征伐には、秀長に従って出陣し戦功を挙げた。
【写真左】藤堂高虎の標石柱
平成23年に建立されたもので、大屋川を挟んで西側のあゆ公園入口付近に設置されている。
中でも小代一揆との戦いは、高虎の出世の糸口となったといわれ、後世まで語り継がれてきた。この戦いは、天正5年(1577)第一次但馬征伐において、毛利方の一揆との間に繰り広げられた戦闘で、高虎は手勢を率いて七味郡・小代谷(美方郡美方町)に攻め入った。緒戦は圧倒的有利に展開したものの、小代一揆の猛反撃に遭って敗走し、わずかな手勢を率いて、辛うじて天瀧越えで大屋谷に逃げ込んだ。このとき、加保村の土豪・栃尾加賀守祐善とその子・源左衛門が高虎をかくまった。
これを知った小代谷の土豪・小代大膳(通称小代がんどう)らが、天瀧越え大挙して攻め込み、栃尾加賀守の館を取り囲んで攻防を繰り返し、数日に及ぶ激戦の果て、蔵垣野の決戦で高虎勢は、ついに一揆の大将・小代大膳を討取り勝利した、と伝えている。
いまに古戦場・蔵垣野には「がんどう塚」という慰霊碑が建ち、激戦の跡を残している。
【写真左】山城跡か
上記の標柱側から北を見ると、ご覧のような景色が目に留まった。
現地には「権現様」「牛飼場跡」と表記されたものがあったが、管理人にはどう見ても数段の郭を構成した城砦に見える。
資料がないため判断がつかないが、今稿の城山城との関連から、支城もしくは向城として使用されたのではないだろうか。
藤堂家文書には、この戦功によって高虎は、秀吉より3,000石が加増され、合わせて3,300石の知行取りになったと記録されている。
これより高虎は、しばらく加保村栃尾方に滞在した。この間、祐善の媒酌により、美含郡中野村の豪族・一色修理大夫の息女を娶ったという。
秀吉亡き後、高虎は徳川家康に仕え、忠勤と巧みな処世術により、津藩祖として藩制の基礎を築いた。晩年には伊勢32万石余りの大名に封ぜられた。
寛永7年10月没 享年75歳。
平成6年5月 標柱・案内看板建立
平成15年3月 案内看板建替
大屋町
大屋町商工会・大屋支部
大屋町観光協会
平成23年2月 標石柱建立
藤堂高虎公ゆかりの郷委員会”
【写真左】古戦場跡(蔵垣合戦地)とされた石碑
大屋川・県道48号線沿いの蔵垣という地区に設置されている。
地元大屋町の大杉地区を紹介したHP(「大杉PCへようこそ」)には、藤堂高虎が当地で戦ったとされる史跡・城砦が掲載されている。
上掲した説明板に示されている箇所については、このHPをみていただくとよく分かるが、今稿の「城山城」のある個所から、大屋川を少しさかのぼると、蔵垣という地区があり、ここが「蔵垣合戦地」とされ、「がんどう塚」が祀られている(「がんどう塚」については場所が分からず)。
この位置から北方に見えるのが、「大杉城」「丸部城」そして「高城」の三城である。栃尾加賀守の館は、少し下った加保という地区に示されている(大杉城等については次稿で取り上げたい)。
高虎の天瀧越えまでのルート
【写真左】天瀧越えの谷・その1
現在この谷には、天滝公園・キャンプ場、並びに「レストハウス天滝」という食堂兼土産物売り場があり、この位置に駐車して「天滝」に向かうことができる。
なお、藤堂高虎が小代での戦いに敗れ、敗走したとされる「天瀧越え」という箇所は、蔵垣からさらに大屋川をさかのぼった西谷というところから、北に杉ヶ沢高原の東方の峰を越えて、八木川の上流出合(であい)に至るルートである。ここまでのルートは分かるが、高虎が小代の城山からこの出合までたどりつくまでのルートは不明である。
【写真左】その2
天滝の川は西の谷から流れ、高虎が越えた谷は、この写真にある東側の谷のようだ。
現在の道を基準に考えると、小代の城山から一旦矢田川沿いに下がり、水間口というところから県道89号線(村岡小代線)に入り、三峠を越え、南に下り村岡のハチ北口から福岡養父線(269号線)に入れば出合にたどり着く。
しかし、これではかなり大回りにもなる上に、小代一揆が支配していた地域をしばらく通ることになり、不利である。
【写真左】ハチ高原スキー場
高丸山や鉢伏山の山並み。
そこで考えられるのが、小代の城山からそのまま矢田川をさかのぼり、現在のハチ高原スキー場に出てくる「小代越え」のコースである。
「小代越え」というのは、小代側すなわち現在の香美町小代区新屋(にいや)と、養父市大久保(ハチ高原スキー場側)の間に聳える高丸山(H:1,070m)の西尾根にある峠である。
八木川の源流に近い大久保に出れば、そのまま八木川沿いに約5キロほど降ると、出合に出る。おそらく高虎はこのルートをとったのではないだろうか。
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