大杉城(おおすぎじょう)
●所在地 兵庫県養父市大屋町大杉
●築城年 不明(南北朝期とも)
●築城者 不明
●城主 不明(栃尾氏か)
●高さ 標高250m(比高100m)
●遺構 郭・堀
●登城日 2012年10月13日
◆解説(参考資料「サイト・大杉pcへようこそ」等)
前稿大屋・城山城(兵庫県養父市大屋町夏梅・加保)で紹介した山城である。
所在地は、前稿の城山城のある位置から大屋川を2キロ余りさかのぼった大杉という地区にある。大杉城を含め、西隣の尾根には丸部城があり、その尾根を登っていくと高城という城砦もある。これら3城は併せて、南麓の蔵垣・大杉の地区を扼する機能をもった城砦群と考えられる。
【写真左】大杉城遠望
真正面に見えるのが大杉城で、その左に丸部城があり、さらにその向背の山は、高城。
大杉城の南斜面は最近だろうか、かなりの規模で崩落があったようだ。
なお、この写真の右側の谷から上っていくが、途中で大福寺という古刹がある。
【写真左】大杉城配置図
秀吉の中国攻め
天正年間、織田信長は石山本願寺制圧に多くの時間を費やすことになった。それは、中国の覇者・毛利輝元らが彼ら一向一揆を支援していたためである。このため、天正5年(1577)信長は、羽柴秀吉に中国攻めを命じた。秀吉が中国討伐のため、京都を出発したのが同年10月23日といわれている。
【写真左】二宮神社・大福寺への道
大屋川にそそぐ小さな川の峡谷にあって、東側の斜面を登っていく。
藤堂高虎と小代一揆との戦い
藤堂高虎が秀吉の実弟秀長に仕えたのは、この年の前年(天正4年)で、高虎21歳のときである。小代に攻め入った高虎ではあったが、次第に戦況は不利になり、天瀧越えして大屋の谷(西谷)に逃げ込んだ。高虎をかくまったのが、地元加保村の土豪・栃尾加賀守祐善・源左衛門父子であった。
【写真左】二宮神社
大屋地区には、当社をはじめ加保に一宮神社、筏(いかだ)に三宮神社がそれぞれ祀られている。
二宮神社のある大杉地区には、県指定民俗文化財・文化庁選択芸能の指定を受けた「大杉ざんざこ踊り」という伝統芸能が残っており、毎年8月16日、当社に奉納されるという。
この踊りは江戸期に氏子繁栄のために始まったといわれている(現地の説明板より)。
敗走する高虎軍を追ったのが、小代谷の土豪・小代大膳(通称:がんどう)らで、栃尾加賀守の館を取り囲み、攻防を繰り返した。当時栃尾加賀守の館は、加保の法華寺付近といわれている。ただ、後段で示すように、これとは別に、加保より下流の大屋川南岸の夏梅(なつめ)に、加賀守の城砦といわれている栃尾城(現在の蓮華寺)があったことが知られ、居館を複数所有していた可能性がある。そしてこの栃尾城から、前稿の「大屋・城山城」まではわずか1キロほどしか離れていない。
【写真左】大福寺本堂
二宮神社の上の段に建立されているもので、無住のようだ。
この左側の斜面はすでに大杉城の東麓に当たり、中世にはおそらくこの辺りも大杉城の城域として郭段のようなものがあったのかもしれない。
この場所からさらに左側に向かい、再び階段を登ると、大杉城に向かう。
さて、加賀守の館の攻囲に防戦した高虎は、その後、大屋川南岸の蔵垣野において小代一揆側と最期の攻防を行い、一揆の大将・小代大膳(がんどう)を討ち果たし、その戦功によって秀吉より3,000石が加増された。そのご、高虎は当地にしばらく留まり、祐善の媒酌によって、美含郡中野村の豪族・一色修理大夫の息女を娶った。
【写真左】本堂上の堂
この建物も含め、大福寺等の縁起は分からないが、寺坊の一つかもしれない。
【写真左】大杉城登城口付近
中央の雑草の後に看板が設置してあるが、この辺りから急峻な斜面になっており、案内板はあるものの、道としてはほとんど整備されていない。
植林された杉に捕まらないととても上には進めない。この傾斜を見て管理人は、登城を断念した。
【写真左】大杉城の南斜面
冒頭の写真でも分かるように、ご覧の傾斜である。
なお、当城の遺構については、サイト「大杉pcへようこそ」に詳細写真が掲載されているのでご覧いただきたい。
栃尾城・蓮華寺
ところで、大杉城のある大杉から大屋川を下った二宮神社のある夏梅(なつめ)には、近畿楽寿観音33か所霊場の第8番である「赤堂観音 蓮華寺」がある。
当院は元々城郭とされた「栃尾城」の跡地に創建されたといわれている。
藤堂高虎をかくまった栃尾加賀守の館は加保にあったとされているが、「栃尾城」という名前から考えると、加賀守の居城、もしくは拠城とも推察される。
【写真左】蓮華寺西方の県道6号線沿いに建つ蓮華寺の看板
ここから東に100m前後進むと当院に至る。
【写真左】蓮華寺入口付近
詳細な写真は撮っていないが、当院にのこる石垣は、栃尾城時代のものがあるという。
【写真左】赤堂観音堂
元々三重塔だったらしいが、寛永年間に楼閣二階建てとして改築したという。
【写真左】宝篋印塔
境内にはこの宝篋印塔の他に、2,3の五輪塔も祀られている。おそらく栃尾氏一族のものだろう。
【写真左】蓮華寺から城山城を見る。
当院から西方に前稿の「城山城」が俯瞰できる。
●所在地 兵庫県養父市大屋町大杉
●築城年 不明(南北朝期とも)
●築城者 不明
●城主 不明(栃尾氏か)
●高さ 標高250m(比高100m)
●遺構 郭・堀
●登城日 2012年10月13日
◆解説(参考資料「サイト・大杉pcへようこそ」等)
前稿大屋・城山城(兵庫県養父市大屋町夏梅・加保)で紹介した山城である。
所在地は、前稿の城山城のある位置から大屋川を2キロ余りさかのぼった大杉という地区にある。大杉城を含め、西隣の尾根には丸部城があり、その尾根を登っていくと高城という城砦もある。これら3城は併せて、南麓の蔵垣・大杉の地区を扼する機能をもった城砦群と考えられる。
【写真左】大杉城遠望
真正面に見えるのが大杉城で、その左に丸部城があり、さらにその向背の山は、高城。
大杉城の南斜面は最近だろうか、かなりの規模で崩落があったようだ。
なお、この写真の右側の谷から上っていくが、途中で大福寺という古刹がある。
【写真左】大杉城配置図
秀吉の中国攻め
天正年間、織田信長は石山本願寺制圧に多くの時間を費やすことになった。それは、中国の覇者・毛利輝元らが彼ら一向一揆を支援していたためである。このため、天正5年(1577)信長は、羽柴秀吉に中国攻めを命じた。秀吉が中国討伐のため、京都を出発したのが同年10月23日といわれている。
【写真左】二宮神社・大福寺への道
大屋川にそそぐ小さな川の峡谷にあって、東側の斜面を登っていく。
藤堂高虎と小代一揆との戦い
藤堂高虎が秀吉の実弟秀長に仕えたのは、この年の前年(天正4年)で、高虎21歳のときである。小代に攻め入った高虎ではあったが、次第に戦況は不利になり、天瀧越えして大屋の谷(西谷)に逃げ込んだ。高虎をかくまったのが、地元加保村の土豪・栃尾加賀守祐善・源左衛門父子であった。
【写真左】二宮神社
大屋地区には、当社をはじめ加保に一宮神社、筏(いかだ)に三宮神社がそれぞれ祀られている。
二宮神社のある大杉地区には、県指定民俗文化財・文化庁選択芸能の指定を受けた「大杉ざんざこ踊り」という伝統芸能が残っており、毎年8月16日、当社に奉納されるという。
この踊りは江戸期に氏子繁栄のために始まったといわれている(現地の説明板より)。
敗走する高虎軍を追ったのが、小代谷の土豪・小代大膳(通称:がんどう)らで、栃尾加賀守の館を取り囲み、攻防を繰り返した。当時栃尾加賀守の館は、加保の法華寺付近といわれている。ただ、後段で示すように、これとは別に、加保より下流の大屋川南岸の夏梅(なつめ)に、加賀守の城砦といわれている栃尾城(現在の蓮華寺)があったことが知られ、居館を複数所有していた可能性がある。そしてこの栃尾城から、前稿の「大屋・城山城」まではわずか1キロほどしか離れていない。
【写真左】大福寺本堂
二宮神社の上の段に建立されているもので、無住のようだ。
この左側の斜面はすでに大杉城の東麓に当たり、中世にはおそらくこの辺りも大杉城の城域として郭段のようなものがあったのかもしれない。
この場所からさらに左側に向かい、再び階段を登ると、大杉城に向かう。
さて、加賀守の館の攻囲に防戦した高虎は、その後、大屋川南岸の蔵垣野において小代一揆側と最期の攻防を行い、一揆の大将・小代大膳(がんどう)を討ち果たし、その戦功によって秀吉より3,000石が加増された。そのご、高虎は当地にしばらく留まり、祐善の媒酌によって、美含郡中野村の豪族・一色修理大夫の息女を娶った。
【写真左】本堂上の堂
この建物も含め、大福寺等の縁起は分からないが、寺坊の一つかもしれない。
【写真左】大杉城登城口付近
中央の雑草の後に看板が設置してあるが、この辺りから急峻な斜面になっており、案内板はあるものの、道としてはほとんど整備されていない。
植林された杉に捕まらないととても上には進めない。この傾斜を見て管理人は、登城を断念した。
【写真左】大杉城の南斜面
冒頭の写真でも分かるように、ご覧の傾斜である。
なお、当城の遺構については、サイト「大杉pcへようこそ」に詳細写真が掲載されているのでご覧いただきたい。
栃尾城・蓮華寺
ところで、大杉城のある大杉から大屋川を下った二宮神社のある夏梅(なつめ)には、近畿楽寿観音33か所霊場の第8番である「赤堂観音 蓮華寺」がある。
当院は元々城郭とされた「栃尾城」の跡地に創建されたといわれている。
藤堂高虎をかくまった栃尾加賀守の館は加保にあったとされているが、「栃尾城」という名前から考えると、加賀守の居城、もしくは拠城とも推察される。
【写真左】蓮華寺西方の県道6号線沿いに建つ蓮華寺の看板
ここから東に100m前後進むと当院に至る。
【写真左】蓮華寺入口付近
詳細な写真は撮っていないが、当院にのこる石垣は、栃尾城時代のものがあるという。
【写真左】赤堂観音堂
元々三重塔だったらしいが、寛永年間に楼閣二階建てとして改築したという。
【写真左】宝篋印塔
境内にはこの宝篋印塔の他に、2,3の五輪塔も祀られている。おそらく栃尾氏一族のものだろう。
【写真左】蓮華寺から城山城を見る。
当院から西方に前稿の「城山城」が俯瞰できる。
0 件のコメント:
コメントを投稿