黒田城(くろだじょう)
●所在地 兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 赤松氏か
●城主 黒田氏
●高さ 稲荷神社本殿付近40m前後、主郭付近(350m前後)
●遺構 郭等
●備考 稲荷神社(清綱稲荷大明神)
●登城日 2012年10月14日
◆解説(参考資料「サイト:播磨黒田氏 黒田官兵衛」「北はりま田園空間博物館編 まるごとガイド」等)
兵庫県のほぼ中央部には、西脇市と多可町という町がある。この二つの自治体を併せて「北はりま地域」という。旧国名でいえば、丹波・但馬国が接し、二つの河川である加古川・杉原川が隣国を繋ぎ、播磨灘(瀬戸内)に注ぐ。
当地を含めた播磨国には、「風土記」としては完成本の『出雲風土記』に及ばないものの、『肥前国風土記』などと同じく、一級の史料として『播磨國風土記』が残る。これによれば、今稿の黒田城がある黒田地区は、土が黒いことを以て「黒田庄」と為した、とされている。
【写真左】黒田城位置口付近
JR加古川線の本黒田駅から東に約1キロほど向かった地区にある。
黒田城は下段に示すように、この写真の左側の尾根を中心として築かれている。
播磨黒田氏と黒田官兵衛
さて、この黒田庄は戦国武将で名軍師といわれた黒田官兵衛(孝高・如水)の生地ともいわれている。彼の本貫地としては、今のところ三説あり、断定はできないが、地元の郷土史「黒田庄町史」には、黒田部落所有の古文書の中に、黒田官兵衛孝高の系図の写し1巻が伝えられているとし、この地が最も信憑性が高いとされている。
【写真左】黒田城(稲荷神社)を遠望する。
手前の田圃あたりに構居があったとされ、黒田城の主郭(本丸)は、稲荷神社の奥の尾根筋を向かった位置にあった。
なお、向背の妙見山を中心とした山並みを越えると、隣の丹波国に入る。
また、「播磨黒田氏 黒田官兵衛(以下『播磨黒田氏』とする)」というサイトでは、官兵衛の先祖から始まり、同氏が活躍した記録、史跡などが詳細にわたって調査されたもので、同氏の全容を知ることができる。
官兵衛の出自については、今のところ近江佐々木流黒田氏と、播磨黒田氏の2説が主流を占めている。詳細はサイト『播磨黒田氏』に記されているが、管理人も同サイトで述べているように、官兵衛も当地、すなわち播磨の出である可能性が高いと思われる。そしてこの黒田氏の始祖は、赤松円光であるという。
【写真左】稲荷神社が祀られている山
黒田城のいわば出城のような役目を負った城砦で、今回の登城はこの稲荷神社が祀られている頂部までの探訪である。
赤松円光は、赤松円心の実弟である。円心についてはこれまで、駒山城(兵庫県赤穂郡上郡町井上)などでも紹介しているが、かれの主だった活躍の地は、駒山城や白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松) を中心とした赤穂郡上郡地域、すなわち西播磨である。そして、円光が活躍した場所は北東部にかけたこの北播磨地域である。
黒田氏を名乗ったのは、円光の子・重光である。かれは黒田庄に入って黒田氏を名乗った。以上のことから、播磨黒田氏は赤松氏の庶流ということになる。
さて、官兵衛は当ブログでは中津城(大分県中津市二ノ丁)で取り上げているが、晩年太宰府天満宮内に草庵を構え、隠居生活を送り、慶長9年(1604)、京都伏見の藩邸で死去した。享年59歳。
名だたる戦国武将の中でも、強烈な個性を持ち、しかも文化人であった。管理人が興味をそそられる武将の一人でもある。
【写真左】稲荷神社参道始点
参道に入る前の地点には小さな川が横断している。濠の役目もしていたのかもしれない。
黒田城
黒田城はこの黒田庄超黒田に所在する丘城であるが、現在当地には稲荷神社が祀られている。サイト『播磨黒田氏』によれば、黒田城はこの稲荷神社を含め、ここから後方の天狗山(H:485m)までの尾根続きに、三の郭・二の郭、そして主郭が築かれていたという。そして、この東西のラインの南北には、それぞれ出郭が数か所築かれていた。
稲荷神社の西麓、すなわち現在の水田地帯には、構居跡があった。平時住まいをするところであるが、この田圃には旧字名で「構」というところがあったことから、この位置を比定している。官兵衛はこの構居(屋敷)で生まれたという。
【写真左】参道の鳥居
麓から連続する鳥居を潜っていく。尾根筋にそってまっすぐのびる道で、鳥居の間隔は次第に拡がっていく。
【写真左】頂部・本殿付近・その1
いわゆる主郭部となる個所で、多少の傾斜はあるもののほぼフラットな削平地で、20m四方の規模となっている。
いわゆる郭としての機能があったものと思われる。
【写真左】頂部・本殿付近・その2
東側の切崖
細尾根のため東側はかなり険峻なものとなっている。
なお、この東側後方には堀切があったとされているが、現在管理用の道路が敷設されているため、はっきりしない。
【写真左】稲荷神社
祀られているのは、正一位清綱稲荷大明神で、小規模ながら熱心な地元の氏子の皆さんによってきれいに管理されているようだ。
【写真左】主郭から黒田庄の町並みを見る。
北(右)から東にかけて加古川が流れ、播磨灘に注ぐ。
◎関連投稿
妻鹿・国府山城(兵庫県姫路市妻鹿町甲山)
馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)
志方城(兵庫県加古川市志方町志方町720)
篠ノ丸城(兵庫県宍粟市山崎町横須)
廣峯神社(兵庫県姫路市広嶺山52)
●所在地 兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 赤松氏か
●城主 黒田氏
●高さ 稲荷神社本殿付近40m前後、主郭付近(350m前後)
●遺構 郭等
●備考 稲荷神社(清綱稲荷大明神)
●登城日 2012年10月14日
◆解説(参考資料「サイト:播磨黒田氏 黒田官兵衛」「北はりま田園空間博物館編 まるごとガイド」等)
兵庫県のほぼ中央部には、西脇市と多可町という町がある。この二つの自治体を併せて「北はりま地域」という。旧国名でいえば、丹波・但馬国が接し、二つの河川である加古川・杉原川が隣国を繋ぎ、播磨灘(瀬戸内)に注ぐ。
当地を含めた播磨国には、「風土記」としては完成本の『出雲風土記』に及ばないものの、『肥前国風土記』などと同じく、一級の史料として『播磨國風土記』が残る。これによれば、今稿の黒田城がある黒田地区は、土が黒いことを以て「黒田庄」と為した、とされている。
【写真左】黒田城位置口付近
JR加古川線の本黒田駅から東に約1キロほど向かった地区にある。
黒田城は下段に示すように、この写真の左側の尾根を中心として築かれている。
播磨黒田氏と黒田官兵衛
さて、この黒田庄は戦国武将で名軍師といわれた黒田官兵衛(孝高・如水)の生地ともいわれている。彼の本貫地としては、今のところ三説あり、断定はできないが、地元の郷土史「黒田庄町史」には、黒田部落所有の古文書の中に、黒田官兵衛孝高の系図の写し1巻が伝えられているとし、この地が最も信憑性が高いとされている。
【写真左】黒田城(稲荷神社)を遠望する。
手前の田圃あたりに構居があったとされ、黒田城の主郭(本丸)は、稲荷神社の奥の尾根筋を向かった位置にあった。
なお、向背の妙見山を中心とした山並みを越えると、隣の丹波国に入る。
また、「播磨黒田氏 黒田官兵衛(以下『播磨黒田氏』とする)」というサイトでは、官兵衛の先祖から始まり、同氏が活躍した記録、史跡などが詳細にわたって調査されたもので、同氏の全容を知ることができる。
官兵衛の出自については、今のところ近江佐々木流黒田氏と、播磨黒田氏の2説が主流を占めている。詳細はサイト『播磨黒田氏』に記されているが、管理人も同サイトで述べているように、官兵衛も当地、すなわち播磨の出である可能性が高いと思われる。そしてこの黒田氏の始祖は、赤松円光であるという。
【写真左】稲荷神社が祀られている山
黒田城のいわば出城のような役目を負った城砦で、今回の登城はこの稲荷神社が祀られている頂部までの探訪である。
赤松円光は、赤松円心の実弟である。円心についてはこれまで、駒山城(兵庫県赤穂郡上郡町井上)などでも紹介しているが、かれの主だった活躍の地は、駒山城や白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松) を中心とした赤穂郡上郡地域、すなわち西播磨である。そして、円光が活躍した場所は北東部にかけたこの北播磨地域である。
黒田氏を名乗ったのは、円光の子・重光である。かれは黒田庄に入って黒田氏を名乗った。以上のことから、播磨黒田氏は赤松氏の庶流ということになる。
さて、官兵衛は当ブログでは中津城(大分県中津市二ノ丁)で取り上げているが、晩年太宰府天満宮内に草庵を構え、隠居生活を送り、慶長9年(1604)、京都伏見の藩邸で死去した。享年59歳。
名だたる戦国武将の中でも、強烈な個性を持ち、しかも文化人であった。管理人が興味をそそられる武将の一人でもある。
【写真左】稲荷神社参道始点
参道に入る前の地点には小さな川が横断している。濠の役目もしていたのかもしれない。
黒田城
黒田城はこの黒田庄超黒田に所在する丘城であるが、現在当地には稲荷神社が祀られている。サイト『播磨黒田氏』によれば、黒田城はこの稲荷神社を含め、ここから後方の天狗山(H:485m)までの尾根続きに、三の郭・二の郭、そして主郭が築かれていたという。そして、この東西のラインの南北には、それぞれ出郭が数か所築かれていた。
稲荷神社の西麓、すなわち現在の水田地帯には、構居跡があった。平時住まいをするところであるが、この田圃には旧字名で「構」というところがあったことから、この位置を比定している。官兵衛はこの構居(屋敷)で生まれたという。
【写真左】参道の鳥居
麓から連続する鳥居を潜っていく。尾根筋にそってまっすぐのびる道で、鳥居の間隔は次第に拡がっていく。
【写真左】頂部・本殿付近・その1
いわゆる主郭部となる個所で、多少の傾斜はあるもののほぼフラットな削平地で、20m四方の規模となっている。
いわゆる郭としての機能があったものと思われる。
【写真左】頂部・本殿付近・その2
東側の切崖
細尾根のため東側はかなり険峻なものとなっている。
なお、この東側後方には堀切があったとされているが、現在管理用の道路が敷設されているため、はっきりしない。
【写真左】稲荷神社
祀られているのは、正一位清綱稲荷大明神で、小規模ながら熱心な地元の氏子の皆さんによってきれいに管理されているようだ。
【写真左】主郭から黒田庄の町並みを見る。
北(右)から東にかけて加古川が流れ、播磨灘に注ぐ。
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馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)
志方城(兵庫県加古川市志方町志方町720)
篠ノ丸城(兵庫県宍粟市山崎町横須)
廣峯神社(兵庫県姫路市広嶺山52)
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