鳥取城(とっとりじょう)・その1
●所在地 鳥取県鳥取市東町2●指定 国指定史跡
●別名 久松山城
●築城期 天文12年(1543)又は天文14年(1545)
●築城者 但馬山名氏又は、因幡山名氏(山名誠通)
●城主 山名誠通・武田高信・山名豊国・吉川経家・宮部継潤・池田氏等
●高さ 標高263m(比高240m)
●遺構 山上の丸(本丸・二の丸・三の丸・出郭)、山下の丸(天球丸・二の丸・三の丸・馬場・御米蔵・内堀)、石垣等
●登城日 2006年12月20日及び2012年4月2日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』『天正9年鳥取城をめぐる戦い』鳥取市博物館やまびこ館編等)
戦国期因幡国の中心となった城砦である。これまで因幡国の山城を取り上げる際、度々登場してきた城砦であり、本来ならばとっくに投稿すべきメジャーな山城であるが、なかなかアップする準備まで至らなかった。
今月は因幡の山城が続いたので、節目として当城を取り上げることにしたい。
【写真左】鳥取城遠望
南西麓を走る国道29号線付近から見たもの。
太閤ヶ平と鳥取城を結ぶコースに設置された説明板より
“史跡 鳥取城跡附太閤ヶ平
この久松山に築城された鳥取城は、戦国時代中ごろ(天文年間)に、自然地形を利用した山城として築かれたことにはじまり、以後、因幡地方の政治拠点となり、また近世においては、因幡・伯耆両国の支配拠点として明治維新まで存続していた。
このため、鳥取城跡には、中世山城的性格と近世的城郭遺構が併存しており、このことは日本城郭史上、数少ない城跡であり、学術的・歴史的にも貴重なものとして国指定史跡になっている。
【写真左】配置図
今回の登城口付近と、鳥取城・太閤ヶ平の配置図。
2006年、初回登城のときは、南西麓の山下ノ丸付近から向かったが、2回目の今年は反対側(北東麓)の円護寺側から向かった。
なお、この円護寺側には、次稿で予定している「吉川経家の墓」がある。
従って、この図は下方が北を示す。
この鳥取城の詳細な築城時期については諸説があるが、この城が因幡支配の本城となったのは、因幡国守護・山名豊国の時(1573)であった。
この頃の鳥取城の主要城郭は、山上ノ丸と、それから西方に延びる急峻な尾根を中心に設けられており、現在も斜面を削り平坦部を造りだした遺構が多く残っている。
【写真左】登城口付近
先ほどの図が掲げられている箇所で、右側の5号歩道というルートを進む。
このルートは、途中で本陣山(太閤ヶ平)にも繋がる。
近世になると、鳥取城は因幡・伯耆両国(32万石)の居城となり、これに伴って山下ノ丸が大きく拡充整備され、現在みられるような城跡の基礎が築かれた。
この鳥取城には関ヶ原の戦以後、池田長吉・長幸父子。池田光政が相次いで城主となったが、寛永9年(1632)、岡山から池田光仲が入城して以後、光仲の子孫が明治維新まで城主となっていた。
明治維新後、この城は政府の陸軍省の所管となり、明治12年に城郭すべての建物は撤去された。
【写真左】分岐点
写真左側に進むと、ひょうたん池・栗谷方面へつながり、本陣山と久松山(鳥取城)の丁度中間を進むことになる。
久松山方面は写真にあるように、ここから西に迂回していく。
本陣山方面は、この写真にはないが、すぐ手前に分岐点があり、その道を東進していく。
すでにこの辺りから秀吉方が陣した多くの陣所があるようだが、具体的にはどのあたりなのか管理人にはわからない。
なお、鳥取城は戦国時代末期、織田氏と中国地方の雄・毛利氏との対立から、二度にわたる羽柴秀吉の攻撃を受けた。天正9年(1581)、時の鳥取城城将・吉川経家は秀吉の強烈な鳥取城包囲に拠る兵糧攻めを受けた。
このため、毛利氏の援軍と兵糧の補給を阻止されたことにより苦戦し、籠城およそ4か月ののち開城した。経家は開城に伴い秀吉の助命の意向に反し、自ら切腹し城将としての責任を明らかにした。この鳥取城攻めは「鳥取城の渇え殺し」として語り継がれ、岡山の「高松城の水攻め」とともによく知られている。
昭和63年3月
文化庁
鳥取市教育委員会”
【写真左】陣所跡か
途中で郭跡らしき遺構が見えるが、特に標記もされていないため、確認できない。
この先を過ぎると、途端に急斜面を下るが、おそらく、この位置までは秀吉が攻囲していたのだろう。
築城期
説明板にもあるように、築城期については確定したものがないが、冒頭でも記したように、以前は天文14年説が主流だったが、最近の研究ではそれより少し前の天文12年(1543)ではなかったかとされている。
いずれにしても、鳥取城が築城された経緯はこれまで記してきたように、それまで布施の天神山城を本拠城としていた因幡山名氏が、但馬山名氏との抗争が激化し、当城の出城として久松山に築いたことがきっかけである。
【写真左】簡易舗装の道路と合流
さきほどのところから坂を下ると、途端にご覧のような開けた場所に出る。
右側の道路は管理用の道路のようで、円護寺側から伸びている。当然一般車は通れない。
鳥取城へはそこからまっすぐのびる尾根伝いを進む。
【写真左】分岐点
山上ノ丸(本丸)まで800mの地点で、別の道と合流する。これを右に進む。
【写真左】北側から回り込む。
すでに本丸の北麓に位置しているが、この辺りから傾斜がきつくなっており、2,3度九十九折しながら登る。
【写真左】石積み跡
【写真左】山上ノ丸(本丸側)と十神砦との分岐点
鳥取城の本丸側から北に延びる尾根の突端部には「十神砦」という遺構がある。
十神砦へは右へ100mほどで、本丸側へはここから左へ600mほどの距離となる。
【写真左】十神砦から東麓に吉川経家の墓方面を見る。
十神砦には高さ3m程度の大きな岩があり、おそらくこの岩が物見台を兼ねていたと思われる。
この岩から東麓に目を向けると、円護寺という地区があり、現在「円護寺団地」「北園ニュータウン」という団地が出来ている。
次稿で紹介する予定だが、この団地の東端には「吉川経家の墓」が祀らている。
【写真左】十神砦から秀吉方が陣した円護寺北方の山並みを見る。
円護寺の団地となっているところも、当時秀吉方が陣を構えたところがあるが、さらにその向背の山にも7,8か所の陣が構えられていたという。
【写真左】久松山ロープウエイ施設跡と郭
十神山砦から本丸に向かう途中には、以前使われていたロープウエイの駅舎跡がある。
開業が1969年で、廃止になったのはその7年後の1976年という短い期間だった。
水平長590m、傾斜長623m、高低差172m、定員41名の規模のもの。
現在、山頂側の駅舎の一部は開放されて、休憩室のような使用となっている。
この付近の登城道から、南側の尾根に設置された鉄の架台が朽ち果てた形で見える。
【写真左】出丸の前付近
山上の丸側には、本丸・二の丸・三の丸をメインに、以下西の尾根伝いに、出丸・鐘ヶ平(なる)・太鼓ヶ平・松ノ丸などの郭が続いている。
この写真は、それら反対方向の位置にある遺構で、虎口と思われる。
【写真左】郭
上記の位置を過ぎて、左手にあるもので、中央部で少し段差が認められる。
幅5m×奥行10m程度の規模。
【写真左】井戸跡
井戸跡は本丸側にもあるが、これは三の丸手前に残るもの。直径は2m程度と小規模なもの。
【写真左】山上ノ丸案内図
本丸を中心に、左上に天守櫓跡、その下の尾根に出丸があり、本丸の右側に二の丸・三の丸と図示されている。
【写真左】本丸を見る。
先ほどの位置から西側に回り込んでいくと、石積みが残る本丸跡が見えだす。
なお、この写真の左側には、山下の丸から登る道(大手道)がある。
【写真左】二の丸跡
最初に二の丸側に向かう。本丸より少し下がった位置にあり、鉄筋コンクリート製の休憩室が片隅に建つ。
この写真では右側から鳥取市内を俯瞰できる。
【写真左】二の丸から三の丸を見下ろす。
二の丸をさらに奥に進むと、4m前後の高低差を持たせた三の丸が見える。
【写真左】本丸跡・その1
東西70m×南北32mの規模を持つ。後段に示すように、天守櫓・月見櫓・車井戸などが残る。
【写真左】本丸跡・その2 車井戸
池田長吉が慶長7年(1602)から行った城内大改築の時、掘った井戸と伝えられている。
【写真左】本丸跡・その3 天守櫓跡
18m四方の規模のもので、穴蔵があったという。
石垣の高さは西側で9.6m、東側で4.3m
もっとも眺望がいい場所である。
【写真左】出丸
本丸の真下に配置されたもので、東西に長く概ね二つの区分に分けられている。
【写真左】天守櫓から北方に、雁金城・丸山城を見る。
二城とも鳥取城の支城として使われ、雁金城には芦屋城(兵庫県新美方郡温泉町浜坂)で紹介した塩冶周防守が、また丸山城には吉川元春の家人山県九左衛門を主将とし、津居山城(兵庫県豊岡市津居山)で紹介した奈佐日本助及び佐々木三郎左衛門らが守備した。
奥に見える川は日本海に注ぐ千代川で、賀露の湊が河口西口に見える。
【写真左】本丸から西方に、布施天神山城・防己尾城を見る。
西方には湖山池が見え、その東岸には因幡山名氏の本城・布施の天神山城(鳥取県鳥取市湖山町南)が見える。
また、対岸の西には毛利方の一翼を担った吉岡将監の拠る防己尾城(鳥取県鳥取市金沢)が見える。
【写真左】本丸付近より東南方向に甑山城を見る。
少し霞んでいるが、山中鹿助が拠った甑山城(鳥取県鳥取市国府町町屋)が見える。
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