2012年10月3日水曜日

鳥取城・その2 吉川経家の墓(鳥取県鳥取市円護寺)

鳥取城・その2

吉川経家の墓(きっかわつねいえのはか)


●所在地 鳥取県鳥取市円護寺
●探訪日 2006年12月20日、2007年1月及び2012年4月2日

◆解説
 前稿で紹介した吉川経家の墓を取り上げる。
 所在地は、2回目に登城したときの入口付近にあたる円護寺という地区で、新興団地が立ち並んだ一番奥に祀られている。
【写真左】吉川経家の墓所・その1
 団地の外周を回る道路の中側に霊廟・公園のような造りで祀られている。(2007年撮影)




現地の説明板より

“吉川経家公墓所

 吉川経家公は、天正9年(1581)の羽柴秀吉による鳥取城攻略に備え、中国地方の雄毛利氏から鳥取城将として派遣されてきたものである。
 羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦であった。

 この戦いは、天下統一をめざして中国地方を征討しようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で、展開された。
 織田信長への服属の意を示した鳥取城主山名豊国の方針を不満とした森下道誉・中村春続らの因幡国方衆は、豊国を追放して、毛利氏に鳥取守城のための城将派遣を要請した。天正9年3月18日、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として鳥取城に入った。

 同年7月12日、信長の派遣した部将羽柴秀吉は鳥取に到着し、鳥取城背後の東北の山頂(現在の太閤ヶ平)に本陣を置き、前面の袋川沿いに各陣を布いて、2万余の軍勢により兵糧を絶つ鳥取城包囲作戦を展開した。
【写真左】吉川経家の墓所・その2
 1mほど高くなった壇を設け、7,8m四方の柵で囲まれた中に五輪塔が祀られている。(2007年撮影)



 これを迎え撃つ鳥取城の兵力は、芸州毛利氏よりの加番衆400と因幡国方衆1000余であった。毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後3か月過ぎるころには、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という状況となった。

 ついに10月25日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹した。時に35歳であった。死の前日、10月24日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記している。織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていたのである。
 この五輪塔は、その吉川経家主従の墓と伝えられているものである。

 平成5年3月
      鳥取市教育委員会”
【写真左】吉川経家の墓
 おそらく右側の大きなものが経家の墓だろう。
(2012年撮影)







吉川経家

 当城がもっとも激しく、凄惨な戦いが繰り広げられたのは、説明板にもあるように、天正9年の鳥取城の渇え殺し」である。

鵯尾城」(2012年9月25日投稿)でも記したように、鳥取城を一時期支配していた武田高信が、次第に劣勢となると、山名豊国に誓紙を差出し、自ら鳥取城を明渡し、鵯尾城に移った。豊国が鳥取城に入城したのは天正元年(1573)の冬といわれている。名実ともに鳥取城主になった豊国ではあったが、すでにそこのころから西国の雄・毛利氏が東進してきており、さらには、東方から織田方羽柴秀吉が但馬を越えて因幡に進出しようとしていた。

 豊国としては、毛利・織田(秀吉)のいずれかに降る選択を余儀なくされた。家老たちは織田に戦いを挑むことを主張したが、豊国は逆に織田(秀吉)に与することを選んだ。このため、森下道誉・中村春続ら家老たちは、豊国を鳥取城から追放した。そして、毛利方の吉川元春に対し、新たな城主を鳥取城に迎えるよう請うた。
 この結果、元春が城番として派遣させたのは、石見福光城の城主吉川経安の嫡男・経家である。
【写真左】福光城遠望
 石見温泉津にあって、別名「不言(ものいわず)城」ともいう。








石見福光城は、以前紹介した福光城(島根県大田市温泉津町福波谷山)である。当稿でも紹介したように、別名「不言(ものいわず)城」といい、経家の父経安が、永禄2年(1559)の川本温湯城(温湯城・その3(島根県邑智郡川本町河本谷))攻めで功があった時、元就よりこの土地と城を与えられていた。ただ、この所領安堵については、経安・経家側にとって決して満足のいくものではなかったようで、度々本家(元春側)に加増等について、要望していたようである。

 ちなみに、この石見吉川氏については、嘉暦3年(1328)の経茂を初代とし、温泉津町井田津淵の殿村城(高越城)を本拠とし、経安で9代を数えていた。従って、順当ならば、経家は石見吉川氏の10代目として当地を引き継ぐ予定であった。
【写真左】経家の墓所から鳥取城を見る。
 こちら(北側)からは石垣などは見えない。








 天正9年(1581)2月、吉川元春から命を受けた経家は、家督を幼い元服前の嫡男亀寿丸(のちの経実)に相続させ、因幡鳥取城に向けて石見を経った。

 ところで、この命を受けるにあたっては、前記した石見吉川家の所領安堵の改善をその条件としていた節がある。

 そして、経家自身旅立つ前から、鳥取城の戦況についてはある程度把握していたようで、自らの死を覚悟していた。つまり「負け戦さ」を承知の上で向かったわけである。

 経家が入城して200日余、籠城してから100日、多数の餓死者を出し、同年10月25日、経家は鳥取城を明渡した。その日の朝、親族らに認めた数通の遺書を残し、自刃した。

0 件のコメント:

コメントを投稿