家古屋城(かこやじょう)
●所在地 島根県浜田市 旭町 今市
●遺構種別 溝 その他 郭 堀切
●登城日 2008年10月18日(土曜日)午後、晴れ
“役場庁舎前方の標高457.3mの山が、家古屋城跡で、古屋城とも誤り伝えられている。
天福元年(1233)、益田兼高の三男・福屋兼弘の築城という。子孫累代石見奥地から現広島県芸北町一帯に勢力を張り、南北朝争乱の世には、三隅・周布・都農の諸豪と共に、終始南朝方として活躍していた。
【写真左】家古屋城遠景
南側から撮ったものだが、左右の二つの山とも城郭で、島根県遺跡データベースでは、標高の少し高い(457.3m)右側を本丸跡としている。
現状は残念ながら右側の方はあまり手入れされておらず、遺構の確認に入るには普通の服装では無理がある。
地元では、左の山を「前城」、右の山を「後城」と呼ぶらしい。
永禄5年(1562)、毛利元就にそむいて滅亡したとき、福屋隆兼の主城は跡市の本明城であった。
旭町教育委員会“
【写真左】旭町支所前に設置されている説明板
この説明板の内容は、前記したごとく書かれているが、説明板と正対して見るため、冒頭の「役場前方の標高457.3mの山が…」と書かれていると、家古屋城と真反対の山を見る格好になる。
しかもその山(後段の写真参照)が、本物の家古屋城の山より形がいいものだから、当初はその山が家古屋城だと思い込んでいた。
やはり、こうしたときは必ず地図を添付した説明板にしないと、よっぽど間違った山に上るはめになる。
【写真左】前城の郭
広さは40m前後のやや変形した台形に近い形をしている。
10月も半ばを過ぎていたため、雑草は短いと思っていたが、ごらんのとおり、かなり伸びていて、地面はほとんど見えない。
ただ、この位置まで電気のケーブルパイプがつながっていて、イベント用の道具らしきものが見えたことから、案外定期的な行事をやっているかもしれない。
【写真左】前城郭に設置された石碑
「石央地域 知事と語る シマネスクふるさと金城 家古屋山」と刻んである。おそらく何らかの文化事業助成金によって作られたものと思われる。
それにしても、なんとも抽象的な表示で、何をどうしたいのか、第三者から見たら全く分からない事業・イベント?に思われた。
一山城ファンから言わせてもらえば、こういうものを設置するならば、他の山城のように、当城の歴史とか、縄張り図を設置するか、または未整備の「後城」の手入れをするなど、やってもらいたいことが多いのだが…。
【写真左】「前城」から見た「後城」遠望
下の写真にもあるように、前城の一番高い位置までは踏み込めたが、それから先のおそらくあるだろう「堀切」「郭」「本丸」へは行くことができなかった。
【写真左】前城の「郭」
このあたりになると、岩の塊と、雑木や笹竹などが繁茂していて、地面の凹凸部が見えずらい。
【写真左】前城に上がる横の坂道
【写真左】前城から見た南方向の山々
【写真左】手前の山が、最初に家古屋城と勘違いした山
ちょうど家古屋城と斜め向かいにある山で、名前は不明だが、出城の役目もしていたかもしれない。
また、この山の右奥には「小谷城」という地名もあるので、家古屋城を取り巻く砦群としての史跡が点在している可能性が高い。
●所在地 島根県浜田市 旭町 今市
●築城期 天福元年(1233)鎌倉時代中期
●築城者 福屋兼弘
●遺跡の現状 山林
●標高 457 m
●備考 別名:両子山城跡・小屋城跡・日和山城跡・三本松城跡●遺構種別 溝 その他 郭 堀切
●登城日 2008年10月18日(土曜日)午後、晴れ
◆解説
役場庁舎前の説明板より“役場庁舎前方の標高457.3mの山が、家古屋城跡で、古屋城とも誤り伝えられている。
天福元年(1233)、益田兼高の三男・福屋兼弘の築城という。子孫累代石見奥地から現広島県芸北町一帯に勢力を張り、南北朝争乱の世には、三隅・周布・都農の諸豪と共に、終始南朝方として活躍していた。
【写真左】家古屋城遠景
南側から撮ったものだが、左右の二つの山とも城郭で、島根県遺跡データベースでは、標高の少し高い(457.3m)右側を本丸跡としている。
現状は残念ながら右側の方はあまり手入れされておらず、遺構の確認に入るには普通の服装では無理がある。
地元では、左の山を「前城」、右の山を「後城」と呼ぶらしい。
戦国の時代には、大内・尼子・毛利に属して名声をあげている。
山頂に「前城」「後城」「馬場」の地名があり、全山に階段状の平地が配置されている。この城を中心に多くの支城、砦がある。ここを主城とした期間は明らかでないが、落城と修復が繰り返されており、悲話の伝承もある。
山頂に「前城」「後城」「馬場」の地名があり、全山に階段状の平地が配置されている。この城を中心に多くの支城、砦がある。ここを主城とした期間は明らかでないが、落城と修復が繰り返されており、悲話の伝承もある。
永禄5年(1562)、毛利元就にそむいて滅亡したとき、福屋隆兼の主城は跡市の本明城であった。
旭町教育委員会“
【写真左】旭町支所前に設置されている説明板
この説明板の内容は、前記したごとく書かれているが、説明板と正対して見るため、冒頭の「役場前方の標高457.3mの山が…」と書かれていると、家古屋城と真反対の山を見る格好になる。
しかもその山(後段の写真参照)が、本物の家古屋城の山より形がいいものだから、当初はその山が家古屋城だと思い込んでいた。
やはり、こうしたときは必ず地図を添付した説明板にしないと、よっぽど間違った山に上るはめになる。
【写真左】前城の郭
広さは40m前後のやや変形した台形に近い形をしている。
10月も半ばを過ぎていたため、雑草は短いと思っていたが、ごらんのとおり、かなり伸びていて、地面はほとんど見えない。
ただ、この位置まで電気のケーブルパイプがつながっていて、イベント用の道具らしきものが見えたことから、案外定期的な行事をやっているかもしれない。
【写真左】前城郭に設置された石碑
「石央地域 知事と語る シマネスクふるさと金城 家古屋山」と刻んである。おそらく何らかの文化事業助成金によって作られたものと思われる。
それにしても、なんとも抽象的な表示で、何をどうしたいのか、第三者から見たら全く分からない事業・イベント?に思われた。
一山城ファンから言わせてもらえば、こういうものを設置するならば、他の山城のように、当城の歴史とか、縄張り図を設置するか、または未整備の「後城」の手入れをするなど、やってもらいたいことが多いのだが…。
【写真左】「前城」から見た「後城」遠望
下の写真にもあるように、前城の一番高い位置までは踏み込めたが、それから先のおそらくあるだろう「堀切」「郭」「本丸」へは行くことができなかった。
【写真左】前城の「郭」
このあたりになると、岩の塊と、雑木や笹竹などが繁茂していて、地面の凹凸部が見えずらい。
【写真左】前城に上がる横の坂道
【写真左】前城から見た南方向の山々
【写真左】手前の山が、最初に家古屋城と勘違いした山
ちょうど家古屋城と斜め向かいにある山で、名前は不明だが、出城の役目もしていたかもしれない。
また、この山の右奥には「小谷城」という地名もあるので、家古屋城を取り巻く砦群としての史跡が点在している可能性が高い。
◆この城は、前稿でとりあげた「本明城」の城主・福屋氏が本明城を築城する1年前(天福元年・1233)に築城している。つまり、本城である本明城より早く築城していることになる。
これは福屋氏の本家・益田氏が、もともとこの地区の近くにある「御神本(みかもと)」の出であることから、実際には益田氏が御神本時代にすでにこのあたりに館を建てていたと思われる。
いうなれば、益田氏の祖を生んだこの旭町(浜田市)が、石見地方の中世・戦国期のスタート地点であることになる。
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