姉山城跡 (あねやまじょうあと )
●登城日 2009年2月25日(水)午後、曇り
●所在地 出雲市 朝山町 上朝山
●時代 中世 遺跡種別 城館跡 遺跡の現状 山林 土地保有 民有地
●指定 出雲市指定史跡
●標高 183 m
●遺構 郭 土塁
(参考:島根県遺跡データーベースより)
◆解説
現地の説明板より
“姉山城と朝山氏
姉山城主・朝山氏は、「朝山系図」によると、検非違使として、朝山郷に下向した大伴政持を祖としている。因みに政持が没したのは、嘉祥2年(849)2月7日である。
地頭職であった朝山氏は、建久3年(1192)征夷大将軍・源頼朝が、出雲八幡宮八社を新造したとき、朝山郷一社の祠官兼帯を命じられている。
【写真上】数年前から行われている山陰自動車道の工事現場の脇に立つ「史跡姉山城」の木柱案内板
この場所に建っているため、この付近が登城口だと勘違いして周辺をうろうろした。登城口はこの反対側にある西の園芸農場付近にある。
当時の朝山八幡宮の社地がどこにあったかは不詳であるが、白枝町には元宮があったとして「朝山八幡宮旧蹟地」の石碑がある。
「千家文書」によれば、朝山氏は、宝治2年(1248)出雲大社遷宮儀式次第に、国司から奉進された3頭の御神馬のうち、第一の馬を目代と並んで取る地位にあったことが記されている。
文永8年の頃(1271)の朝山氏の所領は、神門郡から楯縫郡の西郷、東郷、御津荘におよび、167町5反を占め、守護識・佐々木塩冶氏に次ぐ大きな領地であった。
姉山城は、これより(この場所より)約800メートル、標高182メートルの地にある。“
朝山氏
朝山氏に関するその後の記録としては、以前塩冶高貞の稿でも触れたように、『太平記』によると、船上山合戦の直後、出雲国守護・塩冶高貞・富士名判官(雅清)をはじめ、浅山(朝山)二郎・金持一族・大山衆徒など、出雲・伯耆・因幡3国の武士がことごとく船上山に馳せ参じたという。
また、石見からは沢(佐波)・三隅の一族、その他安芸・美作・備中・備前などの各地からも多数の武士が参上した、という記録が残っている。
その後、南北朝期にはいると、杵築大社関係の社家奉行の記録(大社町史)では、「かつての社家奉行朝山・多禰両氏が相次いで社家奉行の地位を失い、ここに鎌倉期以来の伝統を誇る「国衙在庁官人」の社家奉行が姿を消したことである。
朝山氏に関しては、正長2年(1429)9月日の朝山肥前守清綱申状(鈴鹿太郎氏所蔵文書)の中で、
「朝山郷は朝山氏重代相伝の本領として、応永元年(1394)まで知行してきたが、召し放たれて幕府御料所になった、と述べられており、朝山氏はこれ以後、室町幕府将軍直属の奉公衆として、おもに京都に拠点を置いて活躍することとなった」
とある。
本丸跡の説明板では、戦国期の朝山氏の動きは以下の通りとなっている。
“朝山氏は、主家・尼子氏のため、毛利氏と争うものの、永禄9年(1566)尼子富田本城落城により、毛利氏派遣の代官・大伴惟元によって、支配をうけることとなり、これより朝山氏は、朝山八幡宮の祠官専務となった。”
【写真左】登城口付近に立っている説明板と案内板のうち、案内板
この図では、上が南方向、下が北方向になる。山陰道のトンネルはこの姉山城の真下をくりぬいて貫通している。
このため、車は、184号線の東側にある、JA支店の駐車場に停めたが、慎重運転なら図にある寺田橋を通って、もちだ園芸農場の空き地に停めることができた。
しかし、徒歩で姉山トンネルやその周辺を歩くのもハイキング気分で悪くない。ただ、工事車両が結構通るので気をつけないといけない。
【写真左】姉山トンネル
寺田橋から少し歩くとこのトンネルに出くわす。
入口と出口付近はコンクリートだが、中の方は耶馬渓並の「洞門」状態である。車の場合は、すれ違いができないので、どちらかが待機することになる。
【写真左】姉山トンネルと登城口までの中間地点から見た姉山城遠望
位置的には当城の北西山麓付近になるが、本丸は左側の山になる。
【写真左】途上途中に見つけた井戸跡らしきもの
写真では分かりづらいが、直径3m前後のくぼみが確認できた。なお、井戸跡らしき箇所はこの他にもう少し上に行ったところにも見えた。
全体に岩の塊のような山だが、以外と保水力がありそうな感じで、相当数の杉の植林がしてある。
【写真左】登り始めて最初に見えた尾根の合流点
このあたりになると平坦地がかなり見えてくる。
なんとなく館らしき建物が建っていたのではないかと思わせるような雰囲気がある。
【写真左】姉山城本丸へ200メートル地点 登り始め地点が南西位置で、この付近まで北東方向にほぼ直線のコース、この写真の地点で左にほぼ直角に曲がって、尾根伝いになる。
この付近から人工的な地形(郭など)が見え始める。
なお、右の方向はほとんど切崖状態である。
【写真左】姉山城遠望
姉山城の南側に朝山神社がある。佐田方面に行く道の途中から左に別れた上り道があり、車で本殿付近まで行ける。
神社付近は公園となっており、運動場のような設備もある。この神社の北の奥に展望台があり、出雲市の北側ほぼ180度の眺望が満喫できる。
●登城日 2009年2月25日(水)午後、曇り
●所在地 出雲市 朝山町 上朝山
●時代 中世 遺跡種別 城館跡 遺跡の現状 山林 土地保有 民有地
●指定 出雲市指定史跡
●標高 183 m
●遺構 郭 土塁
(参考:島根県遺跡データーベースより)
◆解説
現地の説明板より
“姉山城と朝山氏
姉山城主・朝山氏は、「朝山系図」によると、検非違使として、朝山郷に下向した大伴政持を祖としている。因みに政持が没したのは、嘉祥2年(849)2月7日である。
地頭職であった朝山氏は、建久3年(1192)征夷大将軍・源頼朝が、出雲八幡宮八社を新造したとき、朝山郷一社の祠官兼帯を命じられている。
【写真上】数年前から行われている山陰自動車道の工事現場の脇に立つ「史跡姉山城」の木柱案内板
この場所に建っているため、この付近が登城口だと勘違いして周辺をうろうろした。登城口はこの反対側にある西の園芸農場付近にある。
当時の朝山八幡宮の社地がどこにあったかは不詳であるが、白枝町には元宮があったとして「朝山八幡宮旧蹟地」の石碑がある。
「千家文書」によれば、朝山氏は、宝治2年(1248)出雲大社遷宮儀式次第に、国司から奉進された3頭の御神馬のうち、第一の馬を目代と並んで取る地位にあったことが記されている。
文永8年の頃(1271)の朝山氏の所領は、神門郡から楯縫郡の西郷、東郷、御津荘におよび、167町5反を占め、守護識・佐々木塩冶氏に次ぐ大きな領地であった。
姉山城は、これより(この場所より)約800メートル、標高182メートルの地にある。“
朝山氏
朝山氏に関するその後の記録としては、以前塩冶高貞の稿でも触れたように、『太平記』によると、船上山合戦の直後、出雲国守護・塩冶高貞・富士名判官(雅清)をはじめ、浅山(朝山)二郎・金持一族・大山衆徒など、出雲・伯耆・因幡3国の武士がことごとく船上山に馳せ参じたという。
また、石見からは沢(佐波)・三隅の一族、その他安芸・美作・備中・備前などの各地からも多数の武士が参上した、という記録が残っている。
その後、南北朝期にはいると、杵築大社関係の社家奉行の記録(大社町史)では、「かつての社家奉行朝山・多禰両氏が相次いで社家奉行の地位を失い、ここに鎌倉期以来の伝統を誇る「国衙在庁官人」の社家奉行が姿を消したことである。
朝山氏に関しては、正長2年(1429)9月日の朝山肥前守清綱申状(鈴鹿太郎氏所蔵文書)の中で、
「朝山郷は朝山氏重代相伝の本領として、応永元年(1394)まで知行してきたが、召し放たれて幕府御料所になった、と述べられており、朝山氏はこれ以後、室町幕府将軍直属の奉公衆として、おもに京都に拠点を置いて活躍することとなった」
とある。
本丸跡の説明板では、戦国期の朝山氏の動きは以下の通りとなっている。
“朝山氏は、主家・尼子氏のため、毛利氏と争うものの、永禄9年(1566)尼子富田本城落城により、毛利氏派遣の代官・大伴惟元によって、支配をうけることとなり、これより朝山氏は、朝山八幡宮の祠官専務となった。”
この図では、上が南方向、下が北方向になる。山陰道のトンネルはこの姉山城の真下をくりぬいて貫通している。
このため、車は、184号線の東側にある、JA支店の駐車場に停めたが、慎重運転なら図にある寺田橋を通って、もちだ園芸農場の空き地に停めることができた。
しかし、徒歩で姉山トンネルやその周辺を歩くのもハイキング気分で悪くない。ただ、工事車両が結構通るので気をつけないといけない。
【写真左】姉山トンネル
寺田橋から少し歩くとこのトンネルに出くわす。
入口と出口付近はコンクリートだが、中の方は耶馬渓並の「洞門」状態である。車の場合は、すれ違いができないので、どちらかが待機することになる。
【写真左】姉山トンネルと登城口までの中間地点から見た姉山城遠望
位置的には当城の北西山麓付近になるが、本丸は左側の山になる。
【写真左】登城口から本丸下近くまで続く木製の階段による登城道
姉山山麓のやや北西部に谷があり、その谷を利用して登っていく道ができている。勾配はけっこうあるが、こうした木製の階段が設置してあるおかげで登りやすい。
ただ、今冬の積雪でところどころ枝木が折れたまま道をふさいでいた。また、ほとんど日差しが入らず、風も吹かない場所なので、真夏に登城するのは避けた方がよさそうだ。
姉山山麓のやや北西部に谷があり、その谷を利用して登っていく道ができている。勾配はけっこうあるが、こうした木製の階段が設置してあるおかげで登りやすい。
ただ、今冬の積雪でところどころ枝木が折れたまま道をふさいでいた。また、ほとんど日差しが入らず、風も吹かない場所なので、真夏に登城するのは避けた方がよさそうだ。
【写真左】途上途中に見つけた井戸跡らしきもの
写真では分かりづらいが、直径3m前後のくぼみが確認できた。なお、井戸跡らしき箇所はこの他にもう少し上に行ったところにも見えた。
全体に岩の塊のような山だが、以外と保水力がありそうな感じで、相当数の杉の植林がしてある。
【写真左】登り始めて最初に見えた尾根の合流点
このあたりになると平坦地がかなり見えてくる。
なんとなく館らしき建物が建っていたのではないかと思わせるような雰囲気がある。
【写真左】姉山城本丸へ200メートル地点 登り始め地点が南西位置で、この付近まで北東方向にほぼ直線のコース、この写真の地点で左にほぼ直角に曲がって、尾根伝いになる。
この付近から人工的な地形(郭など)が見え始める。
なお、右の方向はほとんど切崖状態である。
中央の丘陵上に見える左側が、塩冶氏の「半分城」で、奥に見える山が北山山系。
段数は3段から4段程度あるが、遺構の保存度は良好である。
【写真右】本丸
南西方向から見たもの。地面はきれいに管理されてあり、ベンチが一つと、説明板が設置されている。
南西方向から見たもの。地面はきれいに管理されてあり、ベンチが一つと、説明板が設置されている。
【写真左】姉山城遠望
姉山城の南側に朝山神社がある。佐田方面に行く道の途中から左に別れた上り道があり、車で本殿付近まで行ける。
神社付近は公園となっており、運動場のような設備もある。この神社の北の奥に展望台があり、出雲市の北側ほぼ180度の眺望が満喫できる。
この展望台から姉山城を見たのが左の写真である。位置的には南西方向から見る角度になるが、写真では右側の高いところが、本丸跡になる。
右の下の方に、山陰道の一部が見える。この道は完全に姉山城の真下を貫通していることになる。
右の下の方に、山陰道の一部が見える。この道は完全に姉山城の真下を貫通していることになる。
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