天下墓(てんかばか)
◆探訪日 2007年10月28日
◆場所 広島県安芸高田市美土里町生田
【写真上】広島県側から見たもので、この写真の左側上に説明板があり、その奥に下の祠がある。
【写真左】天下墓周辺地図
境を接する石見国(島根県)側には、石見久喜・大林銀山・岩屋鉱山などの遺跡がある。
◆解説
境を接する石見国(島根県)側には、石見久喜・大林銀山・岩屋鉱山などの遺跡がある。
前稿で足利直冬関係と思われる宝篋印塔を取り上げたが、今回も直冬のものとも、あるいは時代が下った戦国期の足利義昭の墓とも言われている「天下墓(てんかばか)」を取り上げる。
場所は、島根県邑南町と広島県安芸高田市にまたがる吉田瑞穂線(6号線)の智教寺というところにある。智教寺という建物は現在ないが、おそらくこの周辺にあったものだろう。
現地の説明板では、足利義昭の墓とあるが、その一方で足利直冬の墓とも言われている。どちらもそれなりの根拠をもっているものの、義昭についていえば、通説では彼の晩年は秀吉の庇護のもと、慶長2年(1597年)大阪で61歳の生涯を終えたとある。
直冬については、以前紹介したように、江津の慈恩寺(足利直冬・慈恩寺(島根県江津市都治町))の都治で亡くなったことになっている。
今となっては判断する決定的な史料・物件などはないので、なんともいえないが、この珍しい「天下墓」という名称から判断するに、天下を大きく動かそうとした人物を弔っていると思えば、その状況や内容を比較すると、一時的にせよ京都を自らの手で押さえた直冬のほうが、より可能性が高い。
義昭は、確かに将軍ではあったが、信長から始まって、後半は毛利の庇護をうけるという常に亡命政府の長という立場のため、自らの手で天下を奪還するという場面は持てなかった。
そうなると、直冬の最後がなぜこの国境の地で終えたかという疑問も出てくる。高畑城のある江津都治からこの国境の智教寺まで約50 キロある。幽閉された身分とはいえ、京への思慕忘れ難く、少しでもその地に近いところへと向い、最後の力尽きた場所がこの地であった、ということなのだろうか。
なお、現地の写真にある祠の前には、宝篋印塔跡と思われる上部「相輪」の上下請花の中間柱が残っている。
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