2012年11月28日水曜日

小馬木八幡宮砦(島根県仁多郡奥出雲町小森)

小馬木八幡宮砦(こまきはちまんぐうとりで)

●所在地 島根県仁多郡奥出雲町小森 五十田
●築城期 不明(室町期か)
●築城者 馬来氏
●城主 馬来氏
●形態 城館跡(砦)
●比高 30m前後
●備考 小馬木八幡宮境内地内、小林城関連砦
●登城日 2008年8月25日

◆解説
 前稿小林城(島根県仁多郡奥出雲町小馬木城山)に続いて、馬来氏関連史跡として、近くにある小馬木八幡砦を取り上げたい。

 実は当砦跡を探訪したのは、4年も前の2008年であったが、馬来氏に関する情報が不明であったため、しばらく保留していた城砦である。
【写真左】小馬木八幡宮砦遠望
 東から見たもので、この写真は2012年11月27日撮影のもの。









 残念ながら当砦については『日本城郭体系第14巻』には記載されていないが、島根県遺跡データベースには登録されている。

 同砦はその名称からも分かるように、現在八幡宮として社が建つ。場所は、小林城からさらに南に登った小森という地区にあり、東の川東と南の中原という地区の分岐点にあたる。

【写真左】鳥居
 










また、東側から流れてきた小森川と小馬木川が合流する位置で、独立した小丘に立つ城砦である。おそらくこの両川が濠の役目をしていたものと思われる。
 
 この場所から東にむかうと、大馬木に至りさらにそこから2、3キロほど南に向かったところに馬来氏の居城・夕景城がある。

 さて、当砦は神社となっていることもあり、遺構などは改変されたようだが、地取りから考えて、重要な場所であったことが推測できる。

 規模は南北200m余×東西50mの規模を持ち、最高所は比高30m前後。
【写真左】本殿前の門
 この門の脇にはは、「天保7年 丙申3月 人夫四カ村氏子中」と刻銘された石碑が埋め込まれている。

 天保7年(1836)は出雲地方及び石見津和野藩内が大洪水に見舞われ、気候不順で大凶作となり、出雲部では減穀138,600余石となり、米一升が250文という高騰した年である。

 おそらく二度とこうした災害が起こらぬよう祈願し、遷宮したものと思われる。
【写真左】本殿
【写真左】切崖
 丘城的城砦であったこともあり、比高がさほどない割には東西の崖は険峻な造りとなっている。
【写真左】夕景城遠望
 小馬木八幡宮からも夕景城が望める。
 右の奥に見える山は、広島県との境界に聳える吾妻山。






安養寺

 小林城の稿でも少し触れているが、小林城から少し北に向かったところに安養寺がある。
 日蓮宗開祖日蓮の法孫日尊上人が諸国行脚のとき、当地に創建したといわれる寺院で、当院3世の住職・日源は、のちに本山要法寺6世貫主となり、日源上人と名乗った。
【写真左】安養寺・その1












 氏綱は、日源の教えに信服入信し、それまであった郡内の4カ寺の仏像を焼き捨て、領民すべてを日蓮宗に改宗させた(サイト「奥出雲町の歴史」(出典:地元郷土史家高橋一郎氏著書参照)。

 次稿で予定している、夕景城の東麓にある古刹で、昨今銀杏で有名になった「金言寺」もその一つである。
【写真左】安養寺・その2
 本堂

2012年11月27日火曜日

小林城(島根県仁多郡奥出雲町小馬木城山)

小林城(こばやしじょう)

●所在地 島根県仁多郡奥出雲町小馬木城山
●別名 弓幡城
●築城期 天正8年(1580)
●築城者 馬来道綱
●高さ 標高300m前後(比高30m)
●形態 城館跡(丘城)
●遺構 郭、腰郭
●備考 削平等により大半消滅

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 小林城は、出雲尼子十旗の一つとされる奥出雲の夕景城(ゆうげじょう)の城主であった馬来氏の城館跡である。
 所在地は、以前紹介した三沢城(みさわじょう)その1・島根県奥出雲町仁多三沢からさらに南に向った小馬木の小林という地区にある。
【写真左】小林城
 東麓には25号線(県道か)が南北に走っている。









 現地の説明板より

“小林城跡
 小林城は馬来氏5代道綱により1579年(天正7年)築城され、翌年夕景城より下城して別名弓幡城と呼ばれ、弓矢の達人が多く、この上にある弓場には矢竹が点在している。

 馬来氏(馬木氏)は戦国時代、尼子十旗のひとつに数えられた出雲国仁多郡夕景城主であり、その出自は、清和源氏新田義重流山名氏の分かれといわれている。
【写真左】小林城の案内板
 道路脇に設置されている。この左側には地元の小林地区の集会所がある。

 なお、この道を奥に進みしばらくして、左(東)に向かうと大馬木へつながり、さらに奥に向かうと馬来氏本拠城である「夕景城」が見えてくる。


 この城址周辺には、北側に日蓮の法孫が西国行脚の最初に創建したという由緒ある安養寺、東側には馬来氏の墓が奉られる瑠璃院寺跡、南側には本城夕景城があった夕景山が聳えている。
 また、出雲私史によると尼子経久の生母は、この地馬木の出身であると謳われている。”
【写真左】登城口付近
 史料によれば、削平などによって大半消滅したとされているが、若干の郭段跡らしきものが残る。
 





山名氏と馬来氏

 説明板では、清和源氏新田義重流山名氏の分流が同氏であるとされている。『日本城郭体系第14巻』では、馬木の出自のもう一つとして、建武年間(1334~38)、備中国の信原十郎朝貞がこの地を地頭職として相伝したという伝承もあるが、これについては疑念があるという。

 前者の山名氏分流説というのは、山名師氏師義)の子氏綱(のち満綱)が、足利将軍義満から戦功によってこの地を給せられ、摂津国馬来郷から来住し、馬来氏を名乗ったとされている。
【写真左】弓場跡
 現地には説明板以外遺構を標記したものとしてこの「弓場跡」のみ設置されている。







 ただ、この山名氏綱(満綱、後に馬来満綱)については、いまのところ山名氏系図などには史料として残っていない。

 これは、山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)で紹介したように、強大な支配地を領した師氏の父・時氏が11人もの子を持ったことから、その後の末孫に至る全体の系譜が完全に整理把握できなかったことも理由の一つかもしれない。
【写真左】弓場跡付近から北側を見る。
 東側から登る道を挟んで北側には段が見える。
 当城跡には数か所の墓地が造成されており、これらが遺構を消失させているかもしれないが、郭段の跡とも見える。


康暦の政変と明徳の乱
 
 さて、前段で示したように、山名(馬来)満綱が、将軍足利義満から戦功によってこの地を給せられたとある。この戦功とはおそらく「康暦(こうりゃく)の政変」によるものだろう。

 康暦元年・天授5年(1379)、室町幕府の管領で幼い義満を養育してきた細川頼之が、反頼之を掲げる幕府内の諸将が義満に対し、頼之の排斥・討伐を請い、頼之は出家して讃岐に奔った事件である。
【写真左】さらに上の段
 ここにも墓地があり、その奥は大きなU字を描いた窪みが残る。









 この変後、幕府はそれまでの守護職配置を大幅に変更した。このとき、出雲国では隠岐国と併せ、それまで守護職であった京極(佐々木)高秀(佐々木道誉の息子)に替わり、山名義幸が任ぜられ、その後弟の満幸が跡を継ぐことになる。

 満幸のときは、2国の他に丹後・伯耆と併せ4国の守護職となった。

 出雲国横田荘内の一部である馬来郷も当然ながら山名氏が支配下に置くことになり、このとき後の馬来氏祖となる山名氏綱(満綱)が補任されたものだろう。
【写真左】土塁跡か
 右側が墓地で、左側が少し下がった郭段のような箇所残る。
 鋭角に切り立つ土壇として残っている。





 ところで、これより先立つ天授2年・永和2年(1376)、義幸・満幸の父師義が亡くなったあと、山名氏惣領をめぐって満幸にとって不満の人事が行われた。

 すなわち、師義の跡を長兄の義幸が継ぐことを許されず、叔父の時義が継ぐことになった。さらには、時義がなくなると、そのまま時義の子・時煕が同氏惣領として跡を継いだ。

 こうした人事は将軍義満がその主導権を握っているが、その裏では大内氏をはじめとする反山名派などが画策していたといわれる。
【写真左】祠
 北側の削平された箇所に祠二基が祀られている。
 馬来氏を祀ったものだろうか。






 元中8年・明徳2年(1391)11月8日、山名満幸が後円融上皇領横田荘を濫妨したとして、将軍義満は守護職であった満幸に対し、やめさせるようにしたという(「明徳記」)。

 出雲守護職であっても上皇領にまでは手を出せないはずだが、満幸の不満がこうした行動に走らせたわけである。そして、翌月の19日、ついに山名氏清・満幸らの謀反の報が、幕府に伝わった。4日後の23日、山名氏家は京都を出奔、年も押し詰まった30日(12月)、大内義弘・細川頼之らは、山名軍を破り、氏清は戦死、満幸・氏幸は敗走した。これが世にいう明徳の乱である。
【写真左】北側から見る。
 ご覧のように、北側には公園が設置されている。
 この場所もおそらく館跡だったと思われるが、遺構は消失している。





 明けて元中9年・明徳3年(1392)1月10日、京都を追われ出雲に帰還した山名満幸らに対し、幕府は三刀屋の諏訪部一族(三刀屋じゃ山(みとやじゃやま)城 その2等参照)に対し、討伐を命じた(「三刀屋文書」)。

 この年の3月、義満は既に出雲守護職を予定していた佐々木高詮(たかあきに、出雲・隠岐の本領・新恩地を領地させている。そして、出雲国内の動乱の最中のこの年、閏10月5日、南朝の後亀山天皇は、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り、ここに南北朝の合一が成立した。

 この頃満幸らは事実上守護職を解任され、本貫地であった出雲国内においては幕府軍側から追われる立場となった。
 明徳4年(1393)2月5日、満幸は幕府から討伐を命じられていた諏訪部氏の居城三刀屋城を攻め、城主・諏訪部菊松丸は退却した。しかし、3月7日、古志(現出雲市古志町)高陣において、諏訪部詮扶・扶久・信扶らが善戦、満幸はおそらくこの戦いのあと、剃髪して九州へ逃れたと思われる。
【写真左】三刀屋城
 奥出雲町の西隣雲南市三刀屋町に築かれている。








 しかし、当地で捕らわれ京都まで護送されたのち、斬首された。そして、この年(応永2年・1395)3月20日、足利義満は、満幸討伐の功績によって、改めて佐々木高詮に対し、(出雲国・隠岐国守護職、及び闕所分を宛行った(「佐々木文書」)。

馬来氏の動き

 ところで、馬来氏を名乗った山名氏満(満綱)はどのような動きであっただろうか。サイト「奥出雲町の歴史」(出典:地元郷土史家高橋一郎氏著書等)によると、明徳の乱の最中、出雲月山富田城において山名方に加わり、城下吉田村で討死したという。

 しかし、その後も当地を治め続けていったことを考えると、新しく守護職となった京極(佐々木)高詮に当地(馬来郷)を治めることを許されたものと思われる。
【写真左】安養寺側から小林城を遠望する。
 小林城から北に少し下ったところにある安養寺は、日蓮の法孫日尊が西国弘通に創建した寺院。
 満綱はこの日尊に帰依し、当地の布教にも務めた。



 なお、次稿では馬来氏の初期の本拠城・夕景城(遠望写真のみ)を含め、他の関係史跡を取り上げたい。

2012年11月23日金曜日

蟹ヶ迫城(島根県江津市渡津町長田)

蟹ヶ迫城(かにがさこじょう)

●所在地 島根県江津市渡津町長田
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 山根修理進
●高さ 64m(比高60m)
●遺構 郭等
●登城日 2011年6月8日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』「サイト「城郭放浪記」等)
 随分前の昨年(2011年)登城していた山城で、写真をとっておきながらすっかり忘れていた山城である。それほど印象に残っていないというと、当城には失礼にあたるが、特徴のある遺構もあまりない小規模な山城である。
【写真左】本丸跡
 地蔵二体が祀られている。











所在地は、以前取り上げた江の川河口に近い亀山城(島根県江津市江津町本町)の対岸にある室上山に築城された城砦である。現在、その脇を国道9号線バイパスが走っている。

 「日本城郭体系第14巻』では、当山の標高が246mと記されているが、現地に立つととてもそこまで高くなく、江の川の川面からせいぜい5,60m余りの小丘である。

 築城期、築城者などは不明だが、城主として山根修理進の名が残る。山根氏がいつの時代のものか、このあたりも判然としない。
【写真左】郭跡か
 登城道は国道9号線側の北から登る道と、江の川側から向かう道の二つがあるようだ。

 当城は既に「城郭放浪記」氏が登城しているが、同氏の写真で見ると、西側(江の川側)には、「蟹ヶ迫城登山口」という案内板が設置してあるようだ。

 この日は、前者の方から向かった。

途中で、このような墓地がある。無縁仏となった墓石も点在している。平坦な場所となっているが、この辺りも郭があったかもしれない。
【写真左】(追加写真)
江の川側の西麓にある登城口
 12月18日撮影




 所在地が、前述した亀山城と江の川を挟んでほぼ正面にあたることから、亀山城と関係した山城、もしくは海城であったかもしれない。

 ちなみに、当城には竜にまつわる伝承があるというのだが、詳細は分からない。西麓に江の川という大河が流れていることから、霧が発生しやすいため、霧に囲まれた当城がまるで龍にぐるりと囲まれたように見えたから、そんな伝説が生まれたのかもしれない。
【写真左】登城途中、西方に江の川と国道9号線を見る。
 中央の川が江の川で、右の日本海へ注ぐ。
【写真左】江の川河口
 北方を見ると、すぐに日本海が見える。中央に見える工場は、日本製紙ケミカルの江津工場。
【写真左】主郭側の段に向かう階段
 この位置に来るまで帯郭跡らしき遺構が散見されるが、登城道を修復したような跡が多く、明瞭でない。
【写真左】主郭・その1
 城砦規模としては小規模ながら、主郭の規模は予想以上に広く、20m四方はあるだろうか。
主郭・その2
 中央部には地蔵二体が祀られている。
主郭・その3
 南の方へ進んでみる。奥行は結構ある。30m近くあるかもしれない。
【写真左】亀山城を見る。
 江の川を挟んで対岸の亀山城を見る。
当城とほぼ正対する位置にあることが分かる。

 このことから、前述したように亀山城の支城あるいは、向城として築かれた可能性もある。

2012年11月20日火曜日

檜ヶ仙城(島根県出雲市多久町)

檜ヶ仙城(ひがせんじょう)

●所在地 島根県出雲市多久町
●別名 桧ヶ仙城(ひのきがせんじょう)、城床山
●高さ 標高333m(比高250m)
●築城期 大永年間(1521~28)
●築城者 東郷三河守忠光か
●城主 東郷三河忠光・多久弾正義敷・毛利氏
●遺構 井戸・郭・帯郭・土塁・堀切
●登城日 2012年2月29日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 地元・出雲にありながら、なかなか登城するタイミングを逸していた山城である。所在地は宍道湖の北方に連なる連山の一つで、通称「ひのきがせん」と呼ばれている山に築かれている。
 また、檜ヶ仙城の南東には、出雲風土記にうたわれた「神名樋山(かんなびやま)」の一つ大船山(おおふなさん:H:327m)が佇んでいる。
【写真左】檜ヶ仙城遠望
 南西麓から見たもの。

 見る角度によって随分と違う山容だが、この方向からは形がよく、地元では「檜山富士」とも呼ばれている。



東郷氏

 現地には当城を紹介するような説明板などは全くないが、『出雲国稽古知今図説』によると、大永年間に東郷三河(参河)守忠光が拠った、と記されている。この東郷忠光なる武将については、詳細は不明である。

 ただ、檜ヶ仙城から南麓に下ったところに、東郷町という地区があり、そこには「東郷地頭瀬館跡」という郭・土塁を遺構としていた場所があった(現在は殆ど改変され事実上消滅している)。

 このことから、東郷氏は地頭職として当地に補任された可能性が高い。ただこの地頭が、鎌倉開幕期のものか、それとも承久の乱後のいわゆる新補地頭のものか判断がつかない。いずれにせよ、東郷忠光の祖は鎌倉期であったことが推察される。
【写真左】登城口付近
 登城ルートは、東麓から向かうものと、西側からのものと2か所ある。今回は東側の別所谷という所から向かった。




 ちなみに、この付近で地頭職として補任されていた一族が二つある。一つは、東郷町の西方万田町にある「万田地頭瀬館」というものである。おそらく、この万田(氏)も、東郷氏と同じころ補任されたのではないかと考えられる。

 また、もう一つの一族としては、東郷町の東方で現在の松江市寄りの小境町には、以前取り上げた霜北城(島根県出雲市小境町)があり、鎌倉期には地頭・小境二郎が当地・小境保を治めていた。

 いずれにしても、東郷氏が当城及び当地を支配していた時期は、鎌倉期から大永年間までの約300年間と考えられる。
【写真左】登城道
 南に延びる尾根筋に向かって西進すると、西側からの道と合流する。そのあと尾根筋を辿りながら北進していく。

 九十九折の箇所は少なく、ひたすら尾根筋を向かうため、次第に傾斜がきつくなっていく。



多久(多久和)氏

 さて、戦国期の永禄年間(1558~70)には、多久弾正正敷(たくだんじょうまさしき)が当城に拠って、毛利氏の攻撃を受けたという。

 鎌倉期から大永年間まで檜ヶ仙城主であった東郷氏が、このあと多久氏に代わっていることになるが、その経緯ははっきりしない。しかし、東郷氏が檜ヶ仙城主として活躍していた南北朝期、すでにこの付近で多久氏の名を見ることができる。

 以前にも記したように、正平5年(観応元年・1350)は出雲国における南北朝動乱の節目となった年でもある。
【写真左】南方に宍道湖を見る。
 檜ヶ仙城は残念ながら眺望はあまり期待できない。

 この箇所は登城途中に見えたもので、霞んでいるものの、宍道湖南岸の大平山城(大平山城跡・その1(島根県松江市宍道町上来待小林)、丸倉山城などが見える。



 この年6月21日、光厳上皇は、石見国にあった足利直冬追討の院宣を発し、高師泰が石見に向かった。
 7月20日、直冬は出雲の鰐淵寺に祈祷を命じ、8月19日、小境一部地頭・伊藤次郎義明の子・小境元智は、直冬方として旗揚げ、小境に隣接する領主・多久中太郎入道らと共に、白潟橋(松江市白潟町)において終日武家方と交戦した(「鰐淵寺文書」「萩閥66」)。

 このことからも分かるように、多久氏が南北朝期すでに当地で活躍していることが知られる。
【写真左】南方の最初の郭段
 ほぼ直登コースで、次第にきつくなるが、最初の郭段までの直近(50m前後か)は、管理人にとってハードなものになった。このためか、途中に堀切などはない。

 ここで、檜ヶ仙城の遺構概要を簡単に示すと次の通りである。

 檜ヶ仙城は、Y字の尾根の稜線をそのまま利用し、これら三方に曲輪群が構成されている。

 三方が交わる位置に主郭(南北26m×東西36m)を置き、登ってきた南稜線(南の段)には6郭、右の稜線(北の段)には4郭、左の稜線(西の段)には8郭(8番目は飛び地)の構成となっている。
 なお、東西稜線の間の谷には井戸跡が2か所確認されている。
【写真左】主郭手前の郭
 南稜線の6番目に当たる郭で、主だった遺構にはこのような、コーンスタンドが設置してあり、№63と記してある。

 当城を紹介するような表示板などは見当たらなかったが、何か別にこの番号を記した資料などがあるのかもしれない。



檜ヶ仙城と多久和城

さて、戦国期の永禄年間(1558~70)になると、当城にはその多久氏の末孫と思われる多久弾正義敷が拠ったとある。出典元である『出雲国稽古知今図説』では、多久弾正が拠った期間は、最後の年を1570年、すなわち元亀元年としている。そして、その後毛利氏の拠城となり、翌元亀2年(1572)、尼子再興軍の挙兵に対応するため、当城を改修・修復しているとされる。
【写真左】「登山口」と記された主郭の入口付近
 相当体力を消耗した先に、「登山口」という表示がある。
 どういう理由でこのような表示をここに設置したのか不明だが、実際はこの位置が主郭の入口に当たる。
 このまま主郭の左側(西側)を先に進む。
【写真左】主郭
 現地の情況はご覧の通り木立と篠が生え、全体の見通しはよくない。
 このまま西側の尾根を進む。
 



多久氏については、以前多久和城(たくわじょう)その1(島根県雲南市三刀屋町多久和)及び、多久和城 その2 多久(和)氏などでも開陳したように、雲南市三刀屋町にあった「多久和城」とのかかわりが強い。

 また、多久氏と、多久和氏という姓名については、これまでも管理人としては出自を同じくするものだと考えているが、明確な証左史料を持っているわけではない。ただ、今稿の檜ヶ仙城主・多久氏と、三刀屋の多久和城主・多久和氏との関係が明らかになれば、おのずとそれらについても解明できるのではないかと思われる。
【写真左】西の段・一の段
 主郭を過ぎて最初の段(郭)で、細長く、幅6m×長さ20m余りの規模。
 全体に西の段は東側(右)に高さ1m程度の土塁が残る。

 この土塁は、大平山城と同じく毛利氏が後に修復したとき造成されたものかもしれない。

 
 さて、出雲国における尼子氏と毛利氏の抗争において、これまで関係してきた主だった城砦をとりあげているが、今稿の檜ヶ仙城についてはこの時期(戦国期)に関する資料が極めて少ない。

 そして、尼子氏の本拠城月山富田城を中心に支えた10か所の支城、すなわち「尼子十旗(あまごじっき)」の中にも含まれていない。位置的には宍道湖北岸であったこともあり、南方から攻め入ることが多かった毛利氏に対して、当城の役割がさほど重要なものでなかったことも考えられる。

 ただ、山城としての要害性・規模などは、決して「尼子十旗」のそれらと比肩して劣るものではないことを附記しておきたい。
【写真左】西の段・三の段
 西の段の稜線上には、北端部までで6か所の段が数えられる。残りの7の段は4の段の真下にあって、そこから100mほど西の稜線を下がった所に8の段が控えている。

 この三の段は規模は小さいものの、土塁が明瞭に残る。
【写真左】西の段・四の段
 当城の最高所に当たる位置で、長さ42.5m×幅7~17mの規模を持つ。

 この先には五の段・六の段が控え、そのまま尾根伝いに降りる道があったというが、現在はほとんど消滅している。この尾根筋を降りていくと、三浦の港に繋がる。
【写真左】四の段から西方を見る。
 四の段付近は近年伐採整備されたようで、ご覧の眺望が広がる。

 以前にも述べたように、戦国期はこの斐伊川は左側の宍道湖に流下せず、反対の右側(出雲大社側の日本海)へ流れていた。そして平田城の麓は、東西に長く伸びた宍道湖が迫っていた。
【写真左】四の段から南方を見る。
 斐川平野を挟んでほぼ真南に、尼子十旗の一つ高瀬城が見える。

 なお、反対側である北の眺望は枯れ枝の間から日本海が見えるが、良好とはいえない。
【写真左】北の段に向かう。
 西の段から再び主郭に戻り、北の段に向かう。

 最初に出てくる一の段は、主郭から約5m程度低くなっており、規模は幅5m×長さ10m程度。
【写真左】北の段
 一の段から三の段までほぼ一直線につながり、次第に尾根幅は狭くなっていく。
【写真左】井戸跡があったとされる谷
 北の段と西の段の間にある谷には、2か所の井戸があったとされる。

 少し降りてみたが、残雪や土砂の影響で確認できなかった。
【写真左】北の段・四の段
 北の段の最高所で、三の段を過ぎると一旦鞍部となり、再び登ると四の段が控える。

 規模は比較的大きなもので、主郭の半分の大きさはある。

 ここからさらに先は下っていき、次の堀切が控える。
【写真左】北の段・堀切
 当城の遺構の中で、今のところ唯一のものとされている。

 なお、この堀切を下ってさらに北に向かうと小伊津に繋がるが、この下手でかつて「鉄釜」が出土したといわれる。

2012年11月18日日曜日

須々万沼城(山口県周南市須々万本郷字要害)

須々万沼城(すすまぬまじょう)

●所在地 山口県周南市須々万本郷字要害
●別名 遠徳山城・要害山
●形態 沼城
●築城期 室町時代
●築城者 不明
●城主 山崎伊豆守興盛など
●規模 東西150m、南北100m、
●遺構 土塁など
●備考 保福寺
●登城日 2012年6月29日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 須々万城は、前稿鞍掛山城(山口県岩国市玖珂町字谷津)でとりあげた元就による防長制圧の第2弾となった戦いの場所でもある。
【写真左】須々万沼城遠望
南側から見たもの。










現地の説明板より

“沼城址
 毛利元就の防長制圧において、最大の激戦となったところが、ここ沼城の戦いです。
 天文24年(1555)10月1日、安芸の厳島の戦いにおいて陶晴賢を破った元就は、破竹の勢いで周防の国に入り、岩国の永興寺を本陣として、防長二州の制圧にとりかかりました。

 弘治2年(1556)4月19日、元就の嫡子隆元は、兵約50騎を率いて岩国を出発し、翌20日須々万に到着、沼城攻撃を開始しました。
 しかし、沼城に集結した大内陣営の勢力は、毛利方の予想をはるかに上回るものがあり、その上、城は三方を沼沢に囲まれた要塞堅固な城塞であったため、退去を余儀なくされました。

 その後、9月22日に再び、隆元が大軍を率いて来攻しましたが、沼に悩まされて進めず、両軍の全面衝突には至りませんでした。
【写真左】須々万沼城・その1
 保福寺山門付近
慈光山 保福寺(ほふくじ)
 当院の縁起については下段に示す。




 このため、翌弘治3年(1557)2月27日、元就自らが総大将となり、将兵1万余騎を率いて岩国を出発し、翌々29日から総攻撃に取り掛かりました。総攻撃にあたっては、沼に編み竹を投げ入れ、この上に莚を敷いて押し渡り、城中に攻め入ったため、城内は大混乱となりました。


【写真左】「沼城・城主の菩提寺  曹洞宗 保福寺」と書かれた看板
 境内前に大きな当院の看板が設置してある。






 城主山崎伊豆守興盛は、陣頭指揮で必死に抵抗をしましたが、やがて力尽き、江良弾正忠賢宣は、城を出て降参し、伊豆守父子は自刃し、3月3日落城いたしました。この戦いで籠城していた男女1,500人余は討たれたともいわれています。

 なお、須々万地区には、沼城の戦いを物語る哀話として「沼を渉る女」の伝説があります。

   恋ふ人は沼の彼方よ  濡れぬれて
     わたるわれをば  とかめ給ふな

 これは、新婚間もなく離別を余儀なくされた、伊豆守の息子右京進隆次の妻が、夫を慕う姿を伝えたものです。
     周南市
     都濃観光協会”
【写真左】本堂西側付近
 本堂を中心に西側から北側にかけて高くなっており、この位置で比高6,7m前後ある。
 写真右の屋根は保福寺の建物。



須々万の地勢

 須々万と書いて「すすま」という。前稿の鞍掛山城登城を終えて、国道376号線を西に進んで行くに従って違和感を感じたのが、須々万本郷あたりから付近を流れる川の上下(かみしも)の区別が分からなくなったことである。

 須々万沼城のある本郷地区は中山間地にありながら、非常に平坦な盆地である。中心部を流れる須々万川は、東進して狭い谷間を蛇行しながら北方に造成されたダム湖・菅野湖に注いでいる。そして驚いたことに、このダム湖から流下する水は、そのまま一旦北に向かって流れ、東方の安芸灘に注ぐ岩国市の錦川に合流する。
【写真左】屋敷跡付近
 上の写真の位置からさらに4,5m程度高くなった段で、現在ここからぐるっと保福寺を取り囲むような道が設置してある。






 須々万本郷から南に10キロ余り下がれば、すぐに周防灘に繋がる。山を一つ越えた西方の富田川などはこれに従っている。

 須々万を源流とする水系が、これほど大回りして東進するこの独特の地勢は、四国の四万十川のそれに似ている。

 そして、特に須々万本郷はこのためか、落差のない盆地として、中世には湿地帯のような地域だったことが想像される。
【写真左】沼城主之墓と石碑
 上の写真の位置から少し北側に進むと、近年建立されたような石碑などが建立されている。





山代一揆

 ところで、沼城での戦いを取り上げる前に、実は毛利氏にとって鎮圧すべき地域があった。前述した須々万川が注ぐ錦川には、これとは別に北に向かって大きな支流が何本か流れてきている。

 このうち、生見(いきみ)川を中心とする現在の美和町周辺と、さらに北に向かい石見国吉賀(島根県)と堺を接する宇佐川を中心とする錦町周辺にそれぞれの一揆が組織されていた。これらを総称して「山代一揆」と呼んだ。この一揆は前者は「五ヶ」という5か所の郷でまとまり、後者は「八ヶ」という8ヶ所の郷でまとまっていた。
【写真左】北西側から振り返る。
 この位置で、下の段と上の段が合流している。









 そしてそれぞれが重層的連合組織を作り、リーダーは「刀禰(とね)」がその任務をつかさどった。

 刀禰とは、古代から中世にかけて、日本各地にあった役職で、官人的な職務や、神社での神職、あるいは船頭や河湊の取り締まりを担う者など、さまざまな形態があったが、この周防の錦川沿いにあった山代の刀禰は、おそらく元は川の利水・治水等々を中心として統轄する権限を有していたものだろう。
【写真左】屋敷跡
 西側の段を過ぎると畑地となっている。
 民有地の畑地のようだが、この畑と段との間にすこし高まりの跡が残る。

 館を防御する土塁のようなものがあったのかもしれない。
 


 ところで、山代一揆のそれぞれの郷は、刀禰を中心として小規模ながら本拠として根城(生見の高盛城、本郷の成君寺城など)を持っていた。

 もともと「五ヶ」と「八ヶ」には領有境界、河川の漁業権などをめぐってしばしば小競り合いがあった。これに目を付けた毛利氏は、巧みに対立をあおり山代一揆の平定を行った。

 なお、このあと当地は防長征服が一段落した後の永禄3年(1560)、毛利氏は検地をおこない、刀禰による自治組織を解体させ、新しい支配秩序を敷くことになる。
【写真左】再び北側に廻る。
 保福寺を取り囲む段の高さはほぼ一定であるが、ご覧の通り法面は角度があり、当時のものか不明だが、切崖状である。




須々万の戦い

 さて、山代一揆の平定後、毛利氏はさらに西進し、須々万本郷の沼城せめに向かった。

 当時、沼城には、城将の山崎興盛をはじめ、大内義長から派遣されていた江良賢宣(かたのぶ)、付近の一揆衆、そして前述した山代一揆の生き残りである「八ヶ」の神田丹後守をはじめとするものなど、総勢1万余騎が立て籠もっていた。
 用意周到、練達な毛利氏にしては予想以上に手間取った戦いとなり、その結果3度目の戦いで勝利することになる。
【写真左】北側の地蔵群
 現在はこのような地蔵が整然と並んでいる。









 説明板では、第1回目の攻撃は弘治2年(1556)4月19日、毛利隆元が攻め入ったとあるが、別の史料では小早川隆景が攻め入ったとする記録もある。

 これによると、隆景に随従していた者の中には、陶氏一族であった右田隆康の遺児鶴千代がいた。この日の戦いは、沼城側の強大な抵抗にあい退却に追い込まれた。

 そして翌日の20日、今度は沼城にたどり着いた毛利隆元が攻め入っている。ただ、説明板には隆元の軍が、僅か「50騎」と記されているが、これは明らかな誤記で、実際には5,000騎の兵で戦っている。

 この2度目の戦いも劣勢に陥り、危うく坂元祐・粟屋元通率いる三分一式部丞(阿賀郷の有力農民一族)・神田蔵人丞(元山代一揆の総大将の息子)らに援けられた。
【写真左】ぐるっと一周して山門付近に戻る。
右側には「煤間小学開校の地」とあり、「明治25年(1892)校名を「沼城」と改称。

昭和54年(1979)須々万本郷514番地に新築移転」と刻まれた石碑が建つ。




 2度とも沼城側の強力な抵抗にあったため、毛利氏は作戦を練り直し、沼地に対応するため、各兵には、編み竹と、薦(莚)を所持させ、一部には鉄砲も所有させたという。

 そして年が明けた弘治3年(1557)2月、御大元就自身が着陣、総指揮をとって沼城を攻めたてた。この結果、同年3月3日、沼城はここに陥落した。
 
 一説によると、沼城陥落の報を知った陶晴賢の息子長房は、周防・若山城(山口県周防市福川)にて自刃したという。この結果、大内義長は高嶺城を捨て、さらに長門の勝山城に逃れていくことになる。
【写真左】灯篭
 参道脇に灯篭が設置され、「施主 沼城主 山崎一族」を銘打ってある。


【写真左】保福寺本堂
現地の説明板より


縁起

 保福寺は、保禅寺と福聚寺が明治6年に合併して成立しました。

 保禅寺は創建年代不明ですが、はじめ兼元にあって慈光山林慶庵と称しました。その後現在地に移り寺号を保禅寺と改めました。飛龍八幡宮の元文2(1737)年の棟札によると宮坊林慶庵とあり、同社の社坊であったことが分かります。
 福聚寺は、寛永年間(17世紀前半)に龍文寺18世鉄岑珠鷹が、和奈古に開いた寺院とされています。

 保福寺所蔵の絹本着色釈迦十六善神図は、文亀3年(1503)に勝屋貴為が須々万八幡宮(後・飛龍八幡宮)に寄進した画幅で、十六体の護法善神が精緻な筆使いで描かれています。

 また、紙本墨書大般若波羅密多経は毛利元就が八幡宮に献納したものと伝えられています。
 ともに昭和52年に市指定文化財(絵画、典籍)に指定されました。
   周南市教育委員会”