2012年11月27日火曜日

小林城(島根県仁多郡奥出雲町小馬木城山)

小林城(こばやしじょう)

●所在地 島根県仁多郡奥出雲町小馬木城山
●別名 弓幡城
●築城期 天正8年(1580)
●築城者 馬来道綱
●高さ 標高300m前後(比高30m)
●形態 城館跡(丘城)
●遺構 郭、腰郭
●備考 削平等により大半消滅

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 小林城は、出雲尼子十旗の一つとされる奥出雲の夕景城(ゆうげじょう)の城主であった馬来氏の城館跡である。
 所在地は、以前紹介した三沢城(みさわじょう)その1・島根県奥出雲町仁多三沢からさらに南に向った小馬木の小林という地区にある。
【写真左】小林城
 東麓には25号線(県道か)が南北に走っている。









 現地の説明板より

“小林城跡
 小林城は馬来氏5代道綱により1579年(天正7年)築城され、翌年夕景城より下城して別名弓幡城と呼ばれ、弓矢の達人が多く、この上にある弓場には矢竹が点在している。

 馬来氏(馬木氏)は戦国時代、尼子十旗のひとつに数えられた出雲国仁多郡夕景城主であり、その出自は、清和源氏新田義重流山名氏の分かれといわれている。
【写真左】小林城の案内板
 道路脇に設置されている。この左側には地元の小林地区の集会所がある。

 なお、この道を奥に進みしばらくして、左(東)に向かうと大馬木へつながり、さらに奥に向かうと馬来氏本拠城である「夕景城」が見えてくる。


 この城址周辺には、北側に日蓮の法孫が西国行脚の最初に創建したという由緒ある安養寺、東側には馬来氏の墓が奉られる瑠璃院寺跡、南側には本城夕景城があった夕景山が聳えている。
 また、出雲私史によると尼子経久の生母は、この地馬木の出身であると謳われている。”
【写真左】登城口付近
 史料によれば、削平などによって大半消滅したとされているが、若干の郭段跡らしきものが残る。
 





山名氏と馬来氏

 説明板では、清和源氏新田義重流山名氏の分流が同氏であるとされている。『日本城郭体系第14巻』では、馬木の出自のもう一つとして、建武年間(1334~38)、備中国の信原十郎朝貞がこの地を地頭職として相伝したという伝承もあるが、これについては疑念があるという。

 前者の山名氏分流説というのは、山名師氏師義)の子氏綱(のち満綱)が、足利将軍義満から戦功によってこの地を給せられ、摂津国馬来郷から来住し、馬来氏を名乗ったとされている。
【写真左】弓場跡
 現地には説明板以外遺構を標記したものとしてこの「弓場跡」のみ設置されている。







 ただ、この山名氏綱(満綱、後に馬来満綱)については、いまのところ山名氏系図などには史料として残っていない。

 これは、山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)で紹介したように、強大な支配地を領した師氏の父・時氏が11人もの子を持ったことから、その後の末孫に至る全体の系譜が完全に整理把握できなかったことも理由の一つかもしれない。
【写真左】弓場跡付近から北側を見る。
 東側から登る道を挟んで北側には段が見える。
 当城跡には数か所の墓地が造成されており、これらが遺構を消失させているかもしれないが、郭段の跡とも見える。


康暦の政変と明徳の乱
 
 さて、前段で示したように、山名(馬来)満綱が、将軍足利義満から戦功によってこの地を給せられたとある。この戦功とはおそらく「康暦(こうりゃく)の政変」によるものだろう。

 康暦元年・天授5年(1379)、室町幕府の管領で幼い義満を養育してきた細川頼之が、反頼之を掲げる幕府内の諸将が義満に対し、頼之の排斥・討伐を請い、頼之は出家して讃岐に奔った事件である。
【写真左】さらに上の段
 ここにも墓地があり、その奥は大きなU字を描いた窪みが残る。









 この変後、幕府はそれまでの守護職配置を大幅に変更した。このとき、出雲国では隠岐国と併せ、それまで守護職であった京極(佐々木)高秀(佐々木道誉の息子)に替わり、山名義幸が任ぜられ、その後弟の満幸が跡を継ぐことになる。

 満幸のときは、2国の他に丹後・伯耆と併せ4国の守護職となった。

 出雲国横田荘内の一部である馬来郷も当然ながら山名氏が支配下に置くことになり、このとき後の馬来氏祖となる山名氏綱(満綱)が補任されたものだろう。
【写真左】土塁跡か
 右側が墓地で、左側が少し下がった郭段のような箇所残る。
 鋭角に切り立つ土壇として残っている。





 ところで、これより先立つ天授2年・永和2年(1376)、義幸・満幸の父師義が亡くなったあと、山名氏惣領をめぐって満幸にとって不満の人事が行われた。

 すなわち、師義の跡を長兄の義幸が継ぐことを許されず、叔父の時義が継ぐことになった。さらには、時義がなくなると、そのまま時義の子・時煕が同氏惣領として跡を継いだ。

 こうした人事は将軍義満がその主導権を握っているが、その裏では大内氏をはじめとする反山名派などが画策していたといわれる。
【写真左】祠
 北側の削平された箇所に祠二基が祀られている。
 馬来氏を祀ったものだろうか。






 元中8年・明徳2年(1391)11月8日、山名満幸が後円融上皇領横田荘を濫妨したとして、将軍義満は守護職であった満幸に対し、やめさせるようにしたという(「明徳記」)。

 出雲守護職であっても上皇領にまでは手を出せないはずだが、満幸の不満がこうした行動に走らせたわけである。そして、翌月の19日、ついに山名氏清・満幸らの謀反の報が、幕府に伝わった。4日後の23日、山名氏家は京都を出奔、年も押し詰まった30日(12月)、大内義弘・細川頼之らは、山名軍を破り、氏清は戦死、満幸・氏幸は敗走した。これが世にいう明徳の乱である。
【写真左】北側から見る。
 ご覧のように、北側には公園が設置されている。
 この場所もおそらく館跡だったと思われるが、遺構は消失している。





 明けて元中9年・明徳3年(1392)1月10日、京都を追われ出雲に帰還した山名満幸らに対し、幕府は三刀屋の諏訪部一族(三刀屋じゃ山(みとやじゃやま)城 その2等参照)に対し、討伐を命じた(「三刀屋文書」)。

 この年の3月、義満は既に出雲守護職を予定していた佐々木高詮(たかあきに、出雲・隠岐の本領・新恩地を領地させている。そして、出雲国内の動乱の最中のこの年、閏10月5日、南朝の後亀山天皇は、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り、ここに南北朝の合一が成立した。

 この頃満幸らは事実上守護職を解任され、本貫地であった出雲国内においては幕府軍側から追われる立場となった。
 明徳4年(1393)2月5日、満幸は幕府から討伐を命じられていた諏訪部氏の居城三刀屋城を攻め、城主・諏訪部菊松丸は退却した。しかし、3月7日、古志(現出雲市古志町)高陣において、諏訪部詮扶・扶久・信扶らが善戦、満幸はおそらくこの戦いのあと、剃髪して九州へ逃れたと思われる。
【写真左】三刀屋城
 奥出雲町の西隣雲南市三刀屋町に築かれている。








 しかし、当地で捕らわれ京都まで護送されたのち、斬首された。そして、この年(応永2年・1395)3月20日、足利義満は、満幸討伐の功績によって、改めて佐々木高詮に対し、(出雲国・隠岐国守護職、及び闕所分を宛行った(「佐々木文書」)。

馬来氏の動き

 ところで、馬来氏を名乗った山名氏満(満綱)はどのような動きであっただろうか。サイト「奥出雲町の歴史」(出典:地元郷土史家高橋一郎氏著書等)によると、明徳の乱の最中、出雲月山富田城において山名方に加わり、城下吉田村で討死したという。

 しかし、その後も当地を治め続けていったことを考えると、新しく守護職となった京極(佐々木)高詮に当地(馬来郷)を治めることを許されたものと思われる。
【写真左】安養寺側から小林城を遠望する。
 小林城から北に少し下ったところにある安養寺は、日蓮の法孫日尊が西国弘通に創建した寺院。
 満綱はこの日尊に帰依し、当地の布教にも務めた。



 なお、次稿では馬来氏の初期の本拠城・夕景城(遠望写真のみ)を含め、他の関係史跡を取り上げたい。

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