2016年11月7日月曜日

王佐山城(香川県高松市西植田町)

王佐山城(おうさやまじょう)

●所在地 香川県高松市西植田町
●別名 上佐山城
●高さ 255m(比高190m)
●築城期 不明(
●築城者 不明(三谷氏か)
●城主 三谷氏
●遺構 郭・竪堀等
●登城日 2015年3月14日

◆解説(参考資料 HP「城郭放浪記」等)
 王佐山城は、以前紹介した十河城(香川県高松市十川東町)から西へ直線距離で約3キロほど向かった上佐山に築かれた城砦である。
【写真左】王佐山城遠望
 北東麓側からみたもの
 王佐山(上佐山)は南北を軸にした独立峰となっている。






現地の説明板

“上佐山

 上佐山は、西植田町、池田町、三谷町の町境に位置し、本峰の雄上佐と南峰の雌上佐からなり、およそ2千5,6百万年前の火山活動でできた火山台地で、黒雲母石安山岩と呼ぶ火山岩の、標高255.7mの孤立したドーム状の秀麗な山である。

 その美しい姿は、村尾篁山選の「植田十二勝」にも挙げられている。また、高松クレーター5座(日山、実相寺山、日妻山、馬山、上佐山)の一つといわれている。
【写真左】麓の墓地公園
 登城口は北麓に当たるこの場所以外にもあるようだが、この場所が一番わかりやすい。
 奥に見える山は高松クレーター5座の一つ実相寺山


 山頂は平坦で、かつての王佐山城の本丸跡といわれている。永和元年(1375)、三谷氏がここを拠点にしたと伝えられている。頂上から北西と北東に延びる屋根は急峻で、堅固な防壁が施されていたらしい。

 北に由良山城、南に神内城、南東に戸田城、北西の三谷城、東麓の池田城を見下ろし、この付近の要衝の地である。
 文明12年(1480)、寒川氏を迎え討ったのが、讃岐での武士同士の合戦(讃岐の戦国時代)の始まりといわれている。
 天正10年(1582)に土佐の長宗我部氏に敗れ、廃城となった。

    平成24年1月
      植田校区コミュニティ協議会”
【写真左】竪堀か
 登り始めてしばらくはなだらかな坂道だが、途中から傾斜がきつくなる。

 写真は険しくなった辺りで、左手に見えたもので、おそらく竪堀だろう。
 なお、この日前半は少雨だったこともあり、足元は大分不如意のまま向かった。


三谷氏

 王佐山城の城主は三谷氏といわれている。三谷氏は讃岐国寒川郡及び多度郡(現在のさぬき市・善通寺市・多度津町)を支配した讃岐国造(神櫛皇子)の末裔・植田氏の庶流といわれている。

 植田氏は、王佐山城から南東へ4キロほど向かった旧山田郡植田村(現東植田町)の戸田城及び戸田山城を根拠としていた。
 植田氏が山間部を支配していたのに対し、庶流となった三谷氏は北側に降りた平坦地であるこの西植田から池田町を譲り受けたのだろう。
【写真左】竪堀
 中間地点で見えたもので、東側に確認できた。眼下には整然と並んだ墓地が見える。






 ところで、王佐山城から北に約1キロほど向かった三谷町竹林には、三谷氏の居館跡と思われる三谷城(未登城)があり、その近くには三谷氏の墓地もあるので、当城(王佐山城)は詰城であったと考えられる。

 王佐山城の築城期ははっきりしていないが、おそらく三谷氏が当地を本拠とした永和年間(1375~78)、すなわち南北朝後期ごろで、土居構(愛媛県西条市中野日明)でも述べたように、康暦の政変が勃発する前と思われ、当時幕府管領職であった細川頼之が深くかかわっていたものと思われる。

 説明板にもあるように、讃岐国の戦国時代の始まりが、文明12年(1480)における前稿虎丸城(香川県東かがわ市与田山)主寒川氏との戦いとされている。
【写真左】郭
 8合目付近から次第に遺構が目立ってくる。
この郭も幅は大きくはないが、奥行がある。
【写真左】長い郭
 この辺りは特に規模が大きく、駐屯地として重要な場所だったと考えられる。
【写真左】9合目
 この尾根も割となだらかな形状で、郭としての役割を担ったものだろう。
【写真左】いよいよ本丸へ
 9合目までのなだらかな尾根を過ぎると、再び急登が始まるが、本丸の切崖経路にあたる。
【写真左】本丸の北側下の段
 周りに草木が生えているため分かりずらいが、この付近も帯郭状の遺構と思われる。
【写真左】本丸北側直下
 写真の奥に向かうと、東側のルートに行く。本丸はここから右の斜面を登っていく。
【写真左】本丸・その1
 本丸は思ったより大きく、長径30m×20m程度の規模
【写真左】本丸・その2
 一角には祠が祀られている。
【写真左】三角点
 「上佐山 255.7m さぬき里山会」と記した標柱が立っている。
【写真左】説明板
 冒頭で紹介した説明板が本丸一角に設置されている。
【写真左】神内城の位置
 上記説明板に紹介されている城砦で、王佐山城の南方3キロの地点に所在する。
【写真左】神内城遠望
 上記の図を頼りに南方を俯瞰したものだが、靄がかかっているため、どのあたりか判然としない。

 標高88mの小丘に、本丸・二の丸などが築かれている。
 植田氏の一族で、三谷氏・十河氏とともに三家と呼ばれ、源平屋島の戦いで功を挙げたという。
【写真左】植田城(戸田城)方面を見る。
 神内城の東方には、東植田の植田城(戸田城)がある。

 現在の三木町と境を接する位置で、惣領家・植田氏の本拠地である。
【写真左】雌上佐山
 王佐山城本丸から南西300mの地点に聳える山で、標高は193m。

 遺構の記録はないようだが、南方を扼する櫓的機能を有していたと思われる。
【写真左】本丸から由良山城及び屋島を見る。
 王佐山から北方を見ると、手前に独立峰の由良山城があり、その奥には特徴のある形をした屋島を俯瞰できる。




◎関連投稿
昼寝城(香川県さぬき市多和)

0 件のコメント:

コメントを投稿