2012年9月27日木曜日

磯部屋敷跡(鳥取県鳥取市用瀬町用瀬)

磯部屋敷跡(いそべやしきあと)

●所在地 鳥取県鳥取市用瀬町用瀬
●築城期 天正8年(1580)
●廃城年 慶長5年(1600)
●城主 磯部兵部大輔
●遺構 石積み等
●登城日 2012年6月23日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 前稿景石城(鳥取県鳥取市用瀬町用瀬)の城主だった磯部氏の屋敷跡である。
【写真左】磯部屋敷跡
 数段にわたって石積みが施されている。










 所在地は、景石城の登城口から少し下った谷間にあり、道路わきに小さな看板が出ている。
【写真左】屋敷跡入口
 景石城の登城口前を走る道路を少し下って行った所にあるが、案内看板が小さいので、スピードを出していると見過ごすかもしれない。






磯部兵部大輔康氏

 磯部氏は、『因幡誌』によれば、但馬国(兵庫県)朝来郡磯部の出であるという。
 現在の朝来市山東町に磯部氏の城館が点在しているが、おそらくこの磯部氏の出と思われる。もっとも磯部氏は、元々但馬山名氏の一族であった山名上総介康煕の子で、秀吉の但馬征伐の際、軍門に降り、磯部を名乗ったといわれている。

 天正8年(1580)、秀吉の第1回目の鳥取城攻めの際、付き随って来た磯部兵部大輔康氏は、五人張りの弓を引くことができた武将だったという。五人がかりでやっと引ける程の強い弓を操ることができたというから、相当な腕力の持ち主である。
【写真左】屋敷跡・その1
 緩やかな谷間に4,5段の石積みが施されている。
 おそらくそれぞれの段に建物が建っていたものと思われる。



 前稿の説明板にもあるように、第1回目に当城の城主となった康氏は、その後、たまたま因幡・若桜鬼ヶ城跡(鳥取県若桜町)へ所用のため留守にしていたとき、山名豊国に攻められ奪還された。しかし、翌天正9年に秀吉第2回目の鳥取城攻めにおいて、鳥取城を始め因幡の諸城が攻略され、そのときの武勲が秀吉によって認められ、再び当城の城主となったという。

 その後、約20年間にわたって用瀬の城下町を整備し発展させたが、関ヶ原の戦いで西軍だったため、当地を離れ流浪の身となった。そして最期は京都で病死したという。

 現在の用瀬の街並みは、この磯部氏が20年間在城したとき、その基礎ができあがったものといわれている。
【写真左】屋敷跡・その2
 屋敷跡地は現在杉林となっており、全体に薄暗いが、もともと開けた谷間であるので、当時はかなりの棟数があったものと思われる。
【写真左】杉の木立から大手道側を見る
 屋敷跡から左側(北になるか)に、道路が見えるが、大手道側に繋がる。

 この手前にも小さな谷があるので、当時は橋のようなものが掛けられていたのかもしれない。

景石城(鳥取県鳥取市用瀬町用瀬)

景石城(かげいしじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市用瀬町用瀬
●別名 磯辺城
●高さ 標高325m(比高240m)
●構造 連郭式山城
●築城期 延文年間(1356~61)か
●築城主 用瀬氏
●城主 用瀬左衛門尉・磯辺豊直・山崎家盛
●遺構 郭・石垣・虎口・堀切・竪堀等
●登城日 2012年6月23日

解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 前稿・鵯尾城(鳥取県鳥取市玉津)の東麓を流れる千代川をさらに南にさかのぼっていくと、用瀬町(もちがせちょう)にたどり着く。この町で千代川と並行して南北に走る智頭街道(R53)と、西方の美作(岡山)恩原高原から千代川の支流佐治川と並行して走る国道482号線が合流している。
 景石城は、この両街道が合流する地点の東方に聳える三角山の北方に築かれた山城である。
【写真左】景石城遠望
 千代川を挟んで西を走る鳥取自動車道の用瀬パーキングから見たもの。 麓を流れる川は、千代川。
 景石城の向背には修験者の山として知られた三角山(みすみやま)・H508mが控える。


現地の説明板より

“景石城跡

 この城が何年頃築かれたは明らかでないが太平記に延文の頃(1360年頃)既にあったと記されている。

 その後、山名の城となったが、天正8年(1580)豊臣秀吉が鳥取城攻略の重要な拠点として磯部兵部大輔にこの城を攻めさせ、山名勢を追い払い、磯部を城主として鳥取城への備えとした。ところが、磯部が若桜鬼ヶ城に所用のため不在の折、鳥取山名に攻め落とされたが、翌天正9年、秀吉再度の鳥取城攻略により、鳥取城は落城、この際磯部は許されて再度景石城主となった。
【写真左】登城口付近
 景石城・三角山一帯は「用瀬地区生活環境保全林」として維持され、それぞれ「もみじの森」「あたごの森」などといった区分を設け、ハイキングコースのような道が設置されている。

 このため、写真にある位置もかなり上まで車で向かうことができ、4,5台は駐車できるスペースが近くにある。


 以来城下町として用瀬宿を発展させたが、関ヶ原の戦いに西軍に味方したため咎を受け、この城を去らねばならなかった。

 替って智頭八東二郡の領主となった山崎佐馬介の持ち城となった。ところが元和元年(1615)一国一城の端城御禁制の令が出され、この城は廃城となった。
 今に昔を物語るものとして、下城・馬洗場などの地名が残っており、又本丸・二の丸・物見櫓などの広場と石垣又矢竹の群生が見られる。
  平成12年4月   用瀬町教育委員会”
【写真左】登城道
 道幅は狭いが、踏み跡がしっかり残り、要所には案内標識が設置されている。

 おそらくこのルートは、当時の大手道とほぼ同じものだったと思われる。


南北朝後期

 以前にも述べたように、南北朝動乱期にあって着実に勢力を伸ばした有力守護があった。特に観応の擾乱(じょうらん)、すなわち足利尊氏と弟直義の戦いが終わったあと、因幡国においては山名時氏が伯耆・美作国と併せ領有し、隣接する南の播磨・備前国は、赤松氏が扶植していった。いわゆる守護大名としての先駆けである。
【写真左】堀切跡
 現在堀切の底部が登城道となっているので、当時の大手道はこれと直角になる左側からのコースからだったのだろう。




 ところで、因幡・山崎城(鳥取県鳥取市国府町山崎)でも述べたように、山崎城の出城として紹介した「七曲城」(国府町雨滝)や、「楠城城」(同町楠城)は、南北朝期の築城と伝承されている。

 「七曲城」は赤松円心の築城とあり、「楠城城」は楠木正成(一族)とされ、両城の築城時期は若干の時差があるが、南北朝期にすでに山陽~山陰の間で争奪戦が行われていたことをうかがわせる。
【写真左】竪堀跡
 上記堀切跡を過ぎて反対側の斜面に見えるもので、この斜面そのものも十分な切崖だが、さらにダメを押すように竪堀が設置されている。


 そして、特筆されるのは、「七曲城」が赤松円心の築城であることである。すなわち、播磨国の守護であった円心が、山名氏の領有していた因幡国の東方部に食い込んでいることである。しかも、この地区は、東隣の但馬国(当時は山名氏であるが、一時的に仁木氏が領有)にも近い。

 さて、景石城は延文の頃にはすでに築城されていたとされている。この頃、当城も上述したように、播磨守護の赤松氏が攻略している。国府町の「七曲城」は今稿の景石城より北方にあって、円心の本拠地播磨国よりさらに遠い。このことから、山名氏が因幡国守護として統治していたとはいうものの、同国の東南端部は事実上赤松氏が支配していた時期があったことがうかがえる。

 その後は山名氏が奪還し、同氏の持ち城となったという。
 戦国期の動きについては、説明板の通り。
【写真左】三の丸
 先ほどの竪堀を過ぎると次第におおきな岩が左右に現れてくる。尾根は西から東にかけて伸びていくが、次第にその幅は狭められ、傾斜もきつくなっていく。

 その途中に三の丸が造られている。最初の物見櫓を兼ねた郭で、西にむかって三角形の形状をした長径10mほどの規模のもの。


主だった遺構と地名など

 当城は西方を大手としている。また、説明板の他に、馬場谷・馬場谷奥・城の下などの地名も残っているという。

 珍しいものとしては、景石城で使われたという「格子戸8枚」が、同町鷹狩の大安興寺という寺院に残っているというが、管理人は訪れていない。
【写真左】二の丸・その1
 三の丸を過ぎてしばらく行くと、すぐに二の丸が控える。

 三の丸より少し奥行のある郭で、長径15m程度。幅はさらに狭くなる。
【写真左】二の丸・その2
 西端部から本丸方面を見たもので、登城道はここまですべて南斜面に設置されてきているが、ここから大きな九十九折の登り道となる。
【写真左】切崖
 二の丸からさらに本丸へ向かう途中の個所で、左から大きく回り込み、再び南側へコースがとってある。

 崩落した中小の石が散在しているので、このあたりから石積みがされていたのだろう。
【写真左】眼下に用瀬の町並みを見る。
 写真中央の奥の谷間に佐治川と並行する国道482号線が走り、千代川沿いの智頭街道(R53)と交わる。

 なお、千代川の支流佐治川を上っていくと、景石城の支城といわれた飯盛山城がある。
【写真左】本丸・その1 石垣
 本丸跡にはご覧のような展望台が設置されている。
 登ってくるとすぐに左手には石垣が見える。
【写真左】本丸・その2
 先ほどの石垣の左側を登ると、ご覧の本丸跡がある。

 南側から北に細長く三角形の形で伸びた郭で、奥行は15m前後か。
【写真左】本丸・その3
 隅の方に大きな岩がある。この場所にも説明板が設置されているが、ほとんど同じ内容なので省略する。
【写真左】本丸・その4 築城当時の石垣
 本丸の周囲にはこうした当時の石垣遺構が残る。

 大分ずれた箇所もあるが、苔むした石垣も味わい深い。
【写真左】北方を見る
 奥の右側に見える頂部が平たい山は霊石山(H:326m)で、源範頼の墓や、奥ノ院の鐘楼など多くの伝説が残る山で、近年はパラグライダーやハングライダーなどのフライトエリアとしても使われている。
【写真左】子持ち松砦登り口
 景石城の本丸から別のルートがあり、そこから向かうと、当城の出城として使われていた「子持ち松砦」という珍しい名称の砦に繋がる。

 この日は6月であったこともあり、草丈が伸びていたため省略した。

 なお、この砦については『城郭放浪記』氏が紹介しているので、ご覧いただきたい。まずまずの遺構があるようだ。

2012年9月25日火曜日

鵯尾城(鳥取県鳥取市玉津)

鵯尾城(ひよどりおじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市玉津
●築城期 天文年間(1532~55)頃
●築城者 武田高信
●形態 山城
●高さ 268m(比高180m)
●遺構 郭・堀切
●登城日 2012年5月12日

◆解説(参考文献『日本城郭体系14巻』等)
 鵯尾城は鳥取市を流れる千代川の西方1キロの山に築かれた武田氏の山城である。
【写真左】鵯尾城遠望
 登城口のある北東麓から見たもの。
 
 標高があまり高くないことから、周りの山に遮られ、当城を遠望できる箇所は意外と少なく、この箇所から辛うじて見える。


現地の説明板より

“鵯尾城の歴史

 玉津南西に位置する268mの峰を中心として、周辺の尾根や尾根続きの峰に郭群が認められ、空堀跡等も認められる。因幡南部と北部を結ぶ交通の要衝にあり、北東方の鳥取城と鳥取平野を一望できる。築城年代は不明、当城と鳥取城は武田高信の拠点であり、特に南因幡方面からの侵攻に備える戦略拠点であったと考えられる。
【写真左】現地案内図・鳥瞰図
 主だった遺構は、この図にもあるように、馬場・三の丸・二の丸・本丸・出丸があり、このほか尾根伝いや東斜面には大小の郭など19を数える。
 大手は現在の登城口と同じ北東側である。


 武田氏は天正元年(1573)8月、因幡へ侵入してきた尼子氏の家臣、山中鹿助のこもる甑山城(国府町)を攻撃するが敗れ、尼子氏と連携する山名豊国に鳥取城を明渡し、当城へ移ったという。

 天正2年の毛利輝元書状に「鵯尾」と書かれ、鹿野城在藩中の野村士悦は、尼子勢再侵入後の因幡の状況を報告し、鳥取城・鵯尾城が『堅固之由』と伝えている。この段階で高信の鵯尾城在城の有無は不明だが、翌3年3月には、豊国が当城を掌握し、5月には毛利氏から徳吉に検使として派遣され在藩していた山田重信の支配下に置かれ、この頃高信は当城を追われていたと推定される。
【写真左】登城口に設置されている鳥居
 この鳥居は登城途中の中腹部に設置されている鵯尾神社のもの。当社の縁起は不明だが、おそらく武田高信が亡くなった後祀られたものだろう。

 高信謀殺を企てた山名豊国は、天正6年8月、智頭の草刈伊豆守追討ちを理由に出陣し、大義寺(河原町)に本陣を置いた。当時高信は鵯尾城に居たが、豊国に合力を依頼されて当寺に赴き、豊国の家臣によって討たれたと伝えられている。
   「因幡民談記」より”
【写真左】登城口付近にある溜池
 この付近は似たような谷が多くあり、登城口の場所を突き止めるまで時間がかかった。いずれも写真にあるような溜池が点在している。

 鵯尾城に拠った武田氏の屋敷跡もこの辺りにあったものだろう。なお、この位置(登城口)から中腹にある鵯尾神社までは400mで、本丸までは1,050mの距離となる。


武田高信

 鵯尾城の城主は、武田又五郎高信である。高信の父は国信で、元は因幡守護山名氏の家臣で、若狭武田氏の傍流とされる。ちなみに、この父・武田国信と同姓同名の武田国信がいる。二人とも若狭武田氏で、非常に紛らわしいが、この武将は若狭武田氏本流で第3代当主である。こちらが活躍していたのは、永享10年(1438)から延徳2年(1490)であるか、ら室町期から戦国初期までである。
【写真左】鵯尾神社
 小規模な社(祠といったほうがいいかもしれない)が祀られている。
 登城道は北東から南西方向にほぼまっすぐのびる尾根を九十九折しながら向かうコースとなっている。
 この位置からすでに鳥取市街地が俯瞰できるが、眺望の写真はさらに上った位置で紹介する。
 ここから本丸までは650mになる。

 さて、高信の父・国信が若狭から因幡に来た時期ははっきりしないが、但馬山名氏と対立を深めた山名誠通(のぶみち)のとき家臣となった。誠通は、但馬山名氏(但馬守護)である祐豊側からの侵入を防ぐべく、因幡の所々に砦を造った。そのうちの一つが後に鳥取城となる久松山の砦である。これと相前後して、誠通は天正13年(1544)頃に、出雲の尼子晴久より偏諱を受け、「久通」と改名している。

 但馬山名氏の攻撃を単独で防ぎきる戦力がなかったこともあるが、この頃の尼子氏は、美作の高田城を攻め、また伯耆国汗入郡などにも進出していることもあって、因幡へかなりの圧力をかけていたことが知られる(天文12年(1544)、尼子晴久が鳥取山下(城下)を攻めた、とする記録が見える)。
【写真左】最初に見えた郭
 馬場跡まで4,50m手前にあった郭で、尾根を削り取り、幅10m×奥行6,7mの規模のもの。
 
 
 誠通は天文14年(1545)ごろ鳥取城を築城したといわれている。前記したように但馬山名氏(祐豊)の備えとして、特にこの砦には意を用いた。当初、当城の城番は交代制で行うこととしたが、次第に他の長臣たちはこの城の城番に退屈し、武田高信が定番するようになったという。

 高信と父国信が主君であった因幡守護山名誠通に対し、叛意(はんい)をいつの時点から持ち始めたかはっきりしないが、具体的にはこの鳥取城の定番となったことがきっかけと思われる。父国信が亡くなった後、高信はさらに露骨な動きを見せた。
【写真左】北東に鳥取城等を見る。
 先ほどの郭を過ぎると、再び同規模の郭が出てくるが、この位置から鳥取市街地がよく見える。

 左側に鳥取城があり、その奥には秀吉が陣した「太閤ヶ平」が控える。麓は鳥取の町並み。


 天文17年(1548)、但馬の山名祐豊は因幡へ奇襲作戦をかけた。この戦いで誠通は討死した(天文15年という異説もある)といわれ、その後豊定が天神山城(鳥取県鳥取市湖山町南)を継いだが、まもなく亡くなった。

 この後、因幡・但馬の両山名氏の抗争がさらに拍車をかけていくが、山名氏そのものの勢威は次第に低下、その流れを高信は見ていたのだろう、鳥取久松山の砦をさらに要害堅固にし、地元国人領主に対し、布施天神山城を攻め落とすことを要請した。
【写真左】甑山城を見る。
 先ほどの位置から右に目を転ずると、小さいながら特徴のある形をした山が見える。
 甑山城(鳥取県鳥取市国府町町屋)である。

 天平時代はこの付近に因幡国の国庁が置かれ、政治経済の中心地であった。


 当時の周囲における主だった国人領主は次の通りである。

  • 徳吉・秋里   徳吉将監・秋里玄蕃充
  • 若桜鬼ヶ城   矢部山城守
  • 日下高平の城  波多野
  • 小畑の城    小畑・久世兵庫
  • 私都城・白磯城  毛利豊元(因幡毛利氏)
  • 丹比の城   丹比孫之丞
  • 大江      伊田兄弟
  • 用瀬の諸城  佐治の余類
  • 気高の諸城  海老名七郎・田公次郎左衛門・矢田七郎左衛門・吉岡将監
  • 法美谷   毛利・梶原・岩井(山田安芸守)
  • その他
ところで、高信が鳥取城(久松山)の整備を急いでいるとき、鵯尾城には弟の武田又三郎を置いていたという。
【写真左】馬場跡
 上記の俯瞰した位置にある小郭を過ぎるとすぐに馬場跡が出てくる。

 長さ150m前後のもので、平坦部が続く。





武田氏の没落

 さて、その後因幡山名氏を布施天神山城から追い落とした武田氏ではあったが、永禄12年(1569)但馬の芦屋城(兵庫県新美方郡温泉町浜坂)の戦いにおいて、この弟又三郎は討死した。

 天正元年(1573)高信は、甑山城において山中鹿助と戦い(「たのも崩れ」)破れ、鵯尾城に奔った。3年後の天正4年になると、山名豊国によって攻められ、最期は説明板にもあるように、同年豊国の陣所であった河原の大義寺において謀殺された。
【写真左】三の丸へ向かう
 馬場跡を過ぎると、3段の小郭があり、そのあと三の丸が控える。
 3段目の郭は南側にも回り込み帯郭の形状があり、その南斜面には7,8段の連続郭が残っているが、当日はそこまで降りていない。
【写真左】三の丸
 ご覧の通り周囲は雑木があって、遺構は判然としないが、馬場跡より少し幅の広い郭である。
【写真左】二の丸・その1
 三の丸を過ぎると2m程度下り、二の丸が控える。
 幅は三の丸に比べやや狭くなる。
【写真左】二の丸・その2
 登城途中には写真にあるように、倒木や根こそぎ倒れた大木などがあり、このルートは季節によって強い風があたるのかもしれない。
【写真左】本丸へ向かう。
 二の丸から本丸までは少し距離がある。尾根の南側に直線の階段が設置してある。
 この位置から100m弱か。
【写真左】本丸・その1
 幅20m×奥行40m前後で、予想以上の広さがある。
【写真左】本丸・その2
 なお、本丸のさらに奥(南西部)にはいったん下がって出丸があるが、踏み跡が確認できなかったので向かっていない。
【写真左】本丸から日本海方面を見る。
 本丸下の樹木のため眺望が限られているが、北側は視界が確保できる。

2012年9月17日月曜日

道竹城(鳥取県岩美郡岩美町新井)

道竹城(どうちくじょう)

●所在地 鳥取県岩美郡岩美町新井
●築城期 天文年間(1532~55)末期
●築城者 三上兵庫頭
●高さ 標高149m(比高130m)
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2012年5月12日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 道竹城は因幡国(鳥取県)の東方岩美町にあって、現在のJR山陰線岩美駅の西方に築かれた山城である。

 実は登城したのは今回で2回目である。以前使っていたデジカメで遺構の写真を撮影した後、PCに入れたつもりが、操作の手違いで消えてしまっていたた。未だにその理由が分からない。その後、いずれ機会があるだろうと思いながら、数年が経っていた。したがって、今回再びの登城となった。
【写真左】道竹城遠望
 南側の国道9号線から見たもの。
現在、駟馳山トンネルを中心とした国道9号線のパイパス工事が行われており、写真に見える橋はその道路。



 さて、道竹城については、以前二上山城(鳥取県岩美町岩常)その1でも少し紹介しているが、天文年間に但馬山名氏の一族である三上兵庫頭(ひょうごのかみ)が、二上山城からこの地に移して築城したといわれている。

兵庫頭は、前記したように但馬山名氏の一族としているが、後述するように最近の研究では、彼は同氏一族ではなかったという説がある。

【写真左】二上山城遠望
 道竹城から南に登った同町岩常にある標高346mの山城で、文和年間(1352~55)に山名時氏によって築城されたとされている。
 南北朝期の因幡国を代表する典型的な山城である。




山名氏

 南北朝期、山名時氏が因幡・伯耆の守護となって以来、東隣国但馬と併せこの地域は山名氏の支配が長らく続くことになる。室町期の一時期には明徳の乱によって、山名氏は所領を減ずることになるが、この3国だけは依然として領有していく。

 そして山名氏の最盛期といわれるのが、山名宗全(持豊)の時代である。嘉吉元年(1441)、室町幕府6代将軍・足利義教が赤松満祐によって暗殺される(嘉吉の変)と、満祐追討の総大将に任命されたのが山名宗全である。この戦によって大功をあげた宗全は、その論功によって、備後・安芸・石見・備前・美作・播磨などの守護職も与えられた。

 宗全の嫡子・勝豊は、但馬から因幡に入って当国の守護職となった。そして文正元年(1466)、それまで居城としていた二上山城から鳥取市布施の天神山城(鳥取県鳥取市湖山町南)に新たに居城を築き移り住んだとされるが、勝豊は長禄3年(1459)に亡くなっているので、文正元年が史実とすれば、移り住んだのは勝豊でない可能性もある。
【写真左】天神山城遠望









三上兵庫頭豊範

 ところで、天神山城へ移ったのち、二上山城下では治安が乱れ始めた。このため、村人たちは、但馬山名氏に頼み、二上山城へ代わりの城主を戴くよう懇請した。
 その任を担ったのが、岩常の邑長小谷八郎といわれている。もともと山名氏が二上城にあったとき、家臣であったが、天神山城へ山名氏が移った後も、彼はそのまま二上山城の麓岩常村字小谷に住んでいたという。

 懇請した結果、二上山城にやってきたのは、同氏一族の一人とされる三上兵庫頭である。この話は、江戸時代から伝えられており、但馬山名系の山名東揚(東揚蔵王)が還俗して、三上兵庫豊範と名乗ったとされている。

 しかし、この三上兵庫豊範については、地元鳥取の歴史家・高橋正弘氏によると、山名一族ではなく、近江系三上氏の三上経実であるとしている。
【写真左】登城道・その1
 登城コースは今のところ2か所あり、一つは東麓の岩美中学校の北側から向かうコース。もう一つは同中学校の南側校庭の縁からたどるもの。

 前回と同じく、今回も北側から向かった。なお、この位置から登ると、左側の看板にもあるように、仙英禅師記念碑にもたどり着ける。



 さて、二上山城に入った兵庫頭豊範は、その後二上山城の険峻な構造は平時の活動では不便が多く、下流部の新井に道竹城を築いて居城としたという。その時期は、上述したように天文年間、すなわち1532~41年の間と思われる。

 但馬山名氏が因幡山名氏を滅ぼすのが、天文17年(1548)である。山名氏は宗全の死後急激に勢威が衰え、但馬においては、誠豊の時代、守護代であった垣屋氏や、太田垣氏などの傀儡と化し、因幡においては、豊時(宗全の孫)の孫・誠通が辛うじて同国を名目上支配していた。
【写真左】分岐点
 先ほどの位置から数10メートルあるくと、ご覧のピークに出る。
 左に向かうと、道竹城で右に向かうと、仙英碑に繋がる。
 先ず、右に向かった。





 しかし、享禄元年(1528)、但馬山名氏の誠豊が亡くなると、甥であった祐豊が跡を継ぎ、守護代であった垣屋・太田垣を制圧し、さらには因幡の誠通を討って、弟の豊定(兵庫頭)、棟豊を因幡守護として入封させた。

 祐豊はその後、伸長著しい毛利元就とも手を結び、戦国大名として山名氏を復活させることになる。しかし、それもつかの間で天神山城を本城としてた頃、支城の位置づけとされた久松山の鳥取城を城番としていた武田高信が離反、さらには道竹城に拠った三上豊範も高信と呼応した。
【写真左】仙英禅師之碑
 江戸幕末期、桜田門外の変で殺害された大老・井伊直助に開国の思想を説いた彦根市の清涼寺の仙英禅師は、この岩美町出身で、昭和33年この地に記念碑が建てられている。

 この場所は、北側の日本海がよく見える場所で、改変されているようだが、北の守りとしての出丸だったかもしれない。



 このため、永禄7年(1564)、当時の因幡守護だった豊定の嫡男・豊数は、道竹城を突然襲い、三上豊範は不意を突かれ同城から逃れ、二上山城に奔った。しかしその途中で討死したという。

ただ、下線を引いた箇所についても、疑問がもたれている。つまり永禄7年頃の豊数は、武田高信によって鹿野城に追いやられていることや、豊範が亡くなったのは、天文10年(1541)の道竹城合戦のときであるということなどである。
【写真左】再び南の尾根道を進む。
 先ほどの記念碑から南に細い尾根が続く。途中で小規模な郭段や、堀切らしき遺構が認められる。
【写真左】本丸北側の郭
 登城道は西側に設置されており、途中から左側に2段の郭が見える。
【写真左】本丸跡・その1
 本丸跡は予想以上に広いが、前回登城したときに比べ、下草が大分伸びており遺構の様子が分かりにくい。
 この写真は東側から西の方向を撮ったもので、写真右に見える山は、駟馳山。
【写真左】本丸跡・その2
 前回登城の時もそうだったが、南側に延びる三角形の郭付近はご覧の通り熊笹が繁茂している。
 かなりの広さがあるため、伐採・草刈りが完全にできないのだろう。
【写真左】本丸跡から北西方向に桐山城を遠望する。
 桐山城(鳥取県岩美郡岩美町浦富)でも紹介したように、桐山城は山中鹿助が拠った城であるが、道竹城とは但馬往来(国道178号線)を挟んで、わずか2.5キロと指呼の間になる。
【写真左】本丸から西に網代(あみしろ)港を見る。
 中央を流れる川は、蒲生川で道竹城の南麓を流れている。
【写真左】二上山城遠望
 道竹城が築城される前の二上山城は、道竹城の南方にあるが、おそらく写真で示した山が当城と思われる。
【写真左】北方に浦富の海岸を見る。
 近年この海岸部は、「山陰海岸ジオパーク」として脚光を浴びている。
【写真左】北側の郭
 登城途中に少し見えた箇所だが、本丸から滑るようにして降りたのがこの郭である。この郭と本丸との比高は約6,7m程度あり、中々の切崖構成である。

 郭は北側がメインとなっているが、東側にも回り込んでいるので、帯郭の形式だろう。
 
 なお、他の遺構部と思われる写真も何枚か撮っているが、どれも草と雑木で覆われたものだったので省略する。