2012年5月30日水曜日

宮尾城(広島県廿日市市宮島町)

宮尾城(みやおじょう)

●所在地 広島県廿日市市宮島町要害山
●別名 宮ノ尾城・要害山
●築城期 弘治元年(1555)
●築城者 毛利元就
●形態 水軍城
●遺構 郭・井戸・空堀
●高さ 標高30m
●登城日 2011年12月7日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 日本三景の一つ広島県の厳島神社がある宮島に築かれた水軍城(丘城)である。
厳島・宮尾城は毛利元就と陶晴賢が激闘を演じた「厳島合戦」の場所で、この戦いについては、今月取り上げた発喜城(広島県広島市安芸区矢野町)でも少し紹介しているが、当該合戦に至るまで、広島湾岸域において、各所で前哨戦のような戦いが繰り広げられている。

 麓には、弘治元年の「厳島合戦」の概要を示した下記説明板がある。
【写真左】宮尾城遠望
 宮島フェリーターミナル(桟橋)を降りると、すぐに正面に見える丘が宮尾城である。
 当時はてまえの広場はなく、宮尾城の麓までが海岸だったようだ。



説明板より

“毛利元就ゆかりの地 厳島合戦跡


 1551年(天文20年)中国・九州地方に権勢を誇っていた大内義隆は、その家臣陶晴賢の突然の謀反により滅亡した。義隆と盟友関係にあった毛利元就は、1553年(天文22年)晴賢に対し挙兵したが、戦力的に陶軍の方がはるかに優勢であったため、奇襲の一計を案じた。
【写真上】宮島案内図
 同図中央下付近に「要害山」とあるのが宮尾城。




 平地での戦いを不利と見た元就は、厳島に戦場を求め、1555年(弘治元年)5月、島の宮尾に城を築き、陶の2万余の大軍をおびき寄せた。

 同年9月30日、元就は3,500の兵とともに、折からの暴風雨と夜陰に乗じ、厳島神社の背後にある包ヶ浦に上陸、翌10月1日早朝、山を越え塔の岡にある陶軍の本陣を急襲した。これに加え、大鳥居側の海から元就の三男・小早川隆景の軍と、宮尾城の兵が呼応し、厳島神社周辺で大激戦となり、不意を突かれた陶軍は壊滅した。


 晴賢はわずかな兵と共に島の西部へ敗走するが、なすすべもなく山中で自刃した。これが世にいう厳島合戦である。
 この合戦に勝利した元就は、戦いで荒れた厳島神社の再建・修復に努め、中国地方統一の第一歩を踏み出したのである。”
【写真左】合戦図
 元就・隆元・元春らは包ヶ浦に上陸すると、船は廿日市に戻したという。イチかバチかの懸けで、文字通り「背水の陣」をとった。
 隆景らは正面の大鳥居側から向かったが、巧妙に「陶晴賢軍の援軍を装った船団」である。


 次に宮尾城の頂部に上がると、もう一つの説明板がある。

“毛利元就ゆかりの地 厳島合戦跡
宮尾城跡(要害山)


 1555年(弘治元年)5月、毛利元就は陶晴賢を討つために、厳島に戦場を求めここに城を築き拠点とし、島の町衆を味方に引き入れ、陶軍の広島湾進出を阻止しようと軍備を整えた。
 この城は、数個の(空白)分かれた山城であるが、海上に突出し、味方の水軍と連絡できる水軍城の特色も併せ持っていた。
【写真左】宮尾城・その1
 城跡には現在「今伊勢神社」という小規模な社が祀られている。








 同年9月、晴賢は2万余の大軍を率い厳島に上陸し、五重塔がある塔の岡付近に本陣を置いてこの城を攻撃したが、300余の城兵はよく守り持ちこたえた。元就は主力の軍を率い、包ヶ浦から上陸して、山を越え背後から陶軍の本陣を急襲し、この城兵も主力軍に呼応して陶軍を壊滅させた。”
【写真左】宮尾城・その2
 郭跡
 主だった遺構は、5段の郭と、堀切を超えた北東部に6段の郭があるが、大分公園化されているようだ。





吉見氏の援軍要請


 大内義隆の家臣・陶晴賢の謀反は説明板の通りであるが、この事件を機に大内義隆の娘婿であった石見の津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原)主・吉見正頼が、弔い合戦として挙兵、毛利元就に援軍を要請した。

 これと相前後して、晴賢は旗色を鮮明にしていなかった元就に対し、吉見氏討伐の出陣を要請した。こうなると、元就もどちらに与するか判断を否応なしに決定せざるを得ない。
 天文23年(1554)5月12日、元就は己斐・草津・桜尾及び厳島など大内氏の拠点としていた諸城を攻略、これによって陶氏との対決姿勢を鮮明にした。
【写真左】宮尾城・その3
 主郭付近
 宮尾城は北東部と南西部の郭群に分かれている。この写真はそのうち北東部側の最高所のもので、この場所が主郭部分と考えられる。



 元就が厳島を戦場と考えたのは、戦力的には陶氏の方があきらかに優位に立っていたため、まともな陸上戦では勝ち目がないと考え、あえて狭隘で動きが制約される場所として選んだといわれている。

 また、この戦に当たって、元就は晴賢側に嘘の情報や、怪文書などあらゆる手を使い、おとり作戦をたてたとされる。
【写真左】宮尾城・その4
 南西側付近で、小さなトンネルがある。









村上水軍の行動

 この戦いによる陶晴賢の敗因は、毛利氏の用意周到な作戦が功を奏したことはもちろんだが、見逃せないのは、陶晴賢が厳島における瀬戸内海水運・商取引を保障すべく「警固料」や「駄別料」といった通行税を徴収していた村上水軍の動きを停止させたことである。

 もちろん陶晴賢としては、これから戦が始まるということから、その安全を確保するためという理由もあったかもしれないが、この停止措置は、その後、村上水軍が陶軍に対し敵対する、あるいは非協力的態度をとるに至った最大の理由ともなった。
【写真左】フェリーから宮島を望む
 右下に大鳥居が見える。









 そして記録上、村上水軍が毛利氏側についたというものでは、来島通康(来島城(愛媛県今治市波止浜来島)参照)程度で、晴賢の対応次第では、他の村上水軍が陶軍に与した可能性も大きかったと思われ、陶軍の総崩れもなかったのではないだろうか。

2012年5月25日金曜日

鳴滝山城(広島県尾道市吉和町鳴滝)

鳴滝山城(なるたきやまじょう)

●所在地 広島県尾道市吉和町鳴滝
●築城期 鎌倉末期
●築城者 宮地次政
●高さ 標高322m(比高200m)
●遺構 郭・土塁
●指定 尾道市指定史跡
●登城日 2012年3月31日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 広島県の尾道市西端部にあって、西隣の三原市と接する鳴滝山(H402m)と東の谷を隔てた南東部に聳える同名の鳴滝山(H322m)に築城された山城である。
【写真左】鳴滝山城遠望・その1
 北西にある鳴滝山展望台から見たもの。









 二つの山とも眺望はよく、南方には瀬戸内のしまなみ海道の島々を一望のもとに俯瞰できる場所である。

 鳴滝山城についての記録は不明な点が多く、伝承などによると、鎌倉末期に宮地次政が築城したとされ、その後、広義・広俊と続いたが、応永30年(1423)、恒躬(つねみ)の時代に、当時から争っていた大平山城(尾道市美郷町)の城主・木頃(きごろ)経兼の奇襲にあって落城、恒躬は久山田(尾道市)の守武谷まで逃れたが敗死し、その妻・鈴御前も栗原町門田辺りで捕らわれ殺害されたという。
 なお、この鈴御前は木梨杉原氏から嫁いだとされている。
【写真左】鳴滝山城遠望・その2
 北側の林道部から見たもの。










 その後、恒躬の子明光は姻戚関係の合った因島村上氏を頼り、鳴滝山城奪回を図るが失敗に終わったという。

 また、話は遡るが、南北朝時代には備後・備中守護で九州探題に任じられた渋川義行が当城に拠っていたともいわれている。

 しかし、当時九州は後醍醐天皇の皇子の一人である懐良親王が菊池氏の強力な支援を受けて、肥後国を中心に南朝方として支配を広げ、九州探題の前任者斯波氏経の平定を許さなかったため、結局義行は九州へ赴くことなく、三原市にとどまった。このため、義行は探題職を解任され、出家後わずか28歳で夭逝することになる。
【写真左】登城口付近
 麓には「鳴滝山登山道 駐車場」という5台程度駐車できる場所が確保されている。

 もっとも標高の高い鳴滝山(H402m)まで直接向かう道も伸びているので、登山に不得手な人は、狭いながらも車で近くまで行ける。


 鳴滝山城に登城する人は、この駐車場に止めていくことになる。駐車場から登山口までは200m程度しかないので非常に便利である。


駐車場からしばらく歩くと、右に大きく旋回するが、その先の左側にご覧の案内板が見える。ここから本丸まで300mとある。
【写真左】鳴滝山城遠望
 歩き出すとすぐに本丸が見えだす。


 ただ、最近は道が大分崩落し、また以前だんだん畑だったところが荒れ原野状態になっているので、足元は注意しながら登る。
【写真左】石積み
 このあたりから遺構が確認できる。


石積みはここに来るまでも見られるが、段々畑用のものが多く、城砦遺構としての石積みはこの箇所辺りからと思われる。
【写真左】本丸・その1
 山全体が岩塊のような地質のため、こうした岩が散見される。
【写真左】本丸・その2
 本丸は南北に約20m、幅5~10m程度の規模を持つ。


 現地には標識などはなく、石祠跡のようなものが見えたが、朽ち果てた状態だった。
【写真左】腰郭
 本丸の東側には細長い帯郭状のものが残る。

当時はもう少し平坦な状態だったのだろうが、全体に崩れやすい地質のようだ。
【写真左】北側に延びる郭群
 おそらく二の丸・三の丸的機能をもった郭群と思われるが、本丸から7,8mの高低差をもった郭が北に延びている。


 階段状の道などないため、滑りながら降りていく。
【写真左】堀切
 本丸直下の位置にも窪んだ堀切らしき箇所が見えたが、この写真はさらに北に向かい、次の段に行く途中に見えたもので、堀切の遺構を残している。
【写真左】北端部
 北に延びた郭群の北端部で、この先は断崖絶壁となっている。


その先を見ると、細くなっていく尾根上にも小郭らしきものも見える。
【写真左】鳴滝山公園側の展望台
 鳴滝山の頂部はこの写真には入っていないが、南側に延びる尾根一帯は公園となっている。


 写真左の高台には展望台及びパラグライダーフライト広場がある。
【写真左】上記の展望台
【写真左】展望台から尾道・瀬戸内を見る。
 この位置からは、尾道市街をはじめ、向島・岩子島・因島・加島・百島・田島など風光明媚な景観が広がる。

2012年5月22日火曜日

鞆城(広島県福山市鞆町後地)

鞆城(ともじょう)

●所在地 広島県福山市鞆町後地
●築城期 天正年間
●築城者 渡辺氏・毛利元就
●改修者 毛利輝元・福島正則
●遺構 石垣(石塁)当
●指定 福山市指定史跡
●形態 平山城
●高さ 標高24m(比高22m)
●登城日 2012年3月14日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 前稿大可島城(広島県福山市鞆町古城跡)でも触れたように、鞆城は大可島城より少し陸地に入った丘陵に築かれた平山城である。
【写真左】鞆城近影
 登城口は数か所あるようだが、東端部にある歴史民俗資料館下の駐車場側から登った。
 上の建物は当該資料館。




現地の説明板より

“鞆城跡
  市史跡 1976年7月13日指定


 ここは鞆城の本丸跡で、丘陵を利用して壮大な二の丸・三の丸が築かれ、東端は福禅寺、北端は沼名前神社参道、南は港に面していた。


 毛利氏が築いた城を、慶長5年(1600)安芸・備後の領主となった福島正則が改修した。慶長2年(1607)の朝鮮通信使の日記い「岸上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である。」と記しており、その時、建設中であったことが知られる。
【写真左】鞆城略図
 急傾斜地崩壊危険区域用の図面だが、鞆城の大まかな配置が分かる。
 写真中央部がおそらく本丸付近だったと思われる。




 元和元年(1615)の一国一城令に先立って廃城となり、正則の後を受けて入封した水野勝成は、長子勝俊の居館を三の丸に置いた。勝俊が福山藩主となって以後は、江戸時代を通して町奉行所が置かれた。”


 鞆城は城域全体が、現在県において、「急傾斜地崩壊危険区域」とされている。このことから標高の低い平山城を、険しい切崖で要害性を高め、周辺を防備していたことが想像される。特に東西に延びた南北の斜面にそうした箇所が見られる。
【写真左】復元された石垣群













 また現地には「鞆城の石垣と刻印」について下記のような説明板が設置されている。

説明板より

“鞆城の石垣と刻印
 
 この石垣は鞆城本丸の東南隅と、それに連なる石垣の一部を復元したものである。
 鞆城は、近世初頭に城郭を整えた城であるが、早くから取り壊されたため、その縄張りに不明な点が多い。1986年(昭和61年)に実施した発掘調査により、この石垣の基底部が確認され、歴史民俗資料館の建設に伴い復元整備したものである。
【写真左】「回」と刻印された石垣














 なお、この石垣には「回」「大」「△」などの刻印が認められるが、他にも城跡内に残る石垣から◇、㊀、㊁、㋩、卍、日などが確認されている。
 刻印は城の石垣によく見かけられ石工・採石地の印呪符などの諸説があるが定説はない。


 福山市教育委員会”



築城期と築城者

鞆城の築城期については、天正4年(1576)とされ、毛利氏が将軍足利義昭を鞆に迎えた際築城したとされてきた。ただ、『日本城郭体系 第13巻』でも触れているように、前稿で紹介した大可島城が南北朝期にすでにあったことや、鞆の浦が古くから海上交通の要衝であったことも考えると、大可島城と同じく、すでに城砦としての機能をもっていたと思われる。
【写真左】歴史民俗資料館と復元された石垣
 城域の東部に当たる個所で、現在は資料館などが建っているため、当時の様子は窺い知ることはできない。


 なお、資料館そのものの位置は、おそらく本丸の東部に当たると思われ、二の丸もしくは腰郭跡だったのかもしれない。



 そして鞆城の前身といわれているのが、「鞆要害」である。
天文22年(1553)ごろ、毛利元就の命により当時備後沼隈半島一帯を支配していた山田渡辺氏が、尼子氏攻撃に備えて築いたとされる。山田渡辺氏は、以前取り上げた一乗山城(広島県福山市熊野町上山田・黒木谷)の城主である。
【写真左】一乗山城遠望
 北側から見たもの。








 一乗山城は鞆城から少し内陸部に入った熊野町上山田・黒木谷に所在するが、築城者である渡辺氏は、室町時代初期、草戸村長和荘に入り、4代目・兼のとき山田荘(現熊野町)に入っている。

 こうしたことから、鞆要害を含めたこの地域全体がすでに渡辺氏の支配に入っていたことが予想され、鞆城そのものの前身はすでにそのころ築かれていた可能性も十分考えられる。
【写真左】本丸の石塁
 資料館の西隣が本丸跡とされ、昭和50年(1975)7月の発掘調査で検出された石塁である。
【写真左】西側から本丸を見る。
 本丸から西にかけて4m前後の段差を設けた広場がある。


 公園のような施設となっているため、遺構は消失しているが、おそらく三の丸、もしくは腰郭のようなものがあったと思われる。
【写真左】鞆城から「大可島城(円福寺)」を見る。
 この場所から直線距離で約300m程度ある。


 もっとも鞆の町並みは狭い通りが多いので、実際の距離はもう少しある。

2012年5月21日月曜日

大可島城(広島県福山市鞆町古城跡)

大可島城(たいがしまじょう)

●所在地 広島県福山市鞆町古城跡
●築城期 康永元年(興国3年・1342)
●築城者 岡部出羽守
●形態 水軍城
●遺構 郭
●高さ 標高10m
●指定 福山市指定史跡
●登城日 2012年3月14日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 瀬戸内海国立公園の一つである鞆の浦は、古くから潮待ちの港として知られ、また万葉集にもうたわれた風光明媚な場所である。
 大可島城は、この鞆の浦の鞆湊入口に突出した陸繋島(りくけいとう)に築かれている。
【写真左】大可島城遠望
 北側のグリーンラインから見たもの。
 大可島城は燧灘(瀬戸内海)に突出していることがよく分かる。



 中世南北朝時代に入ると、度々当地で合戦が繰り広げられ、また戦国期に至ると、信長から追われた室町幕府15代将軍足利義昭が当地にしばらくとどまり、信長打倒の機会をうかがったという。


現地の説明板より

“大可島城跡
   市史跡 昭和39年3月31日指定


 1342(康永元)年四国伊予を拠点とする南朝方と、備後一帯に勢力をもつ北朝足利方が燧灘(ひうちなだ)で合戦となり、大可島城にこもる南朝方は全滅しました。その後、戦国時代村上水軍の一族が大可島城を拠点に、海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。


 慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在ある南林山釈迦院円福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。”
【写真左】夾明楼登り口付近
 夾明楼(きょうめいろう)というのは、円福寺(大可島城跡に建てられた寺院)にある座敷名で、江戸期頼山陽の叔父・頼杏坪が命名したといわれる。



南北朝期

 康永元年(1342)に南北両朝の合戦があり、大可島城に籠った南朝方が滅亡したという。

 意外なことに、康永元年のこのころ、畿内は比較的平穏な時を迎えている。既に後醍醐天皇や北畠顕家・新田義貞は没し、北朝すなわち室町幕府は足利直義が実権を握り、守護・国人に対し、荘園侵略、刈田狼藉などの違法を取り締まり、荘園領主などの保護に努める一方、天下泰平を祈願し、五山十刹の制度を定めたりしている。
【写真左】大可島城跡・円福寺
 円福寺という寺院になっているため、大可島城当時の遺構はほとんど残っていない。


 ただ、現地の地形を考えると築城の際、現在と同じような石積み工法が随所に用いられていたと考えられる。







 もっとも直義の絶頂期はこの短い期間だけで、その後幕府内部における高師直との対立が次第に鮮明となり、さらには5年後の貞和3年(1347)になると、南朝方の蜂起が次第に拡大し、窮地に陥っていくことになる。

 瀬戸内における南北朝の戦いは、説明板にもあるように康永元年(1342)のころがもっとも大きなものとなる。この年5月、後村上天皇は西国において南朝方の勢力を回復すべく、新田義貞の弟・脇屋義助を中四国の総帥として伊予に下した。しかし、義助は直後病に倒れ、今治国分寺に急逝した。

【写真左】伊予・世田山城遠望
 所在地 愛媛県今治市朝倉 標高339m







 南朝方が重要な拠点と定めたのは、四国伊予の世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)笠松山城(愛媛県今治市朝倉南)並びに、川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)などである。
【写真左】川之江城(仏殿城)
 所在地 愛媛県四国中央市川之江町
 南北朝期は当然ながら天守などはなく、海城だったと思われる。






 壮絶な戦いは40日余り続き、南朝方は衆寡敵せずついに落城、大館氏ら主だった面々は自害した。

 この戦いの際、最初北朝方・細川頼春らが攻め入ったのは川之江城だったが、その救援に向かったのは同じ伊予の南朝方である。船団を率いて東進するも、途中で備後の北朝方の阻止に逢い、さらには折からの突風にあい、船は瀬戸内北岸の鞆の浦に吹き寄せられた。このため、備後に潜伏していた南朝方と結び西国の拠点とすべく、大可島城を詰城として構えた。
【写真左】大可島城跡・円福寺
 城跡には円福寺の本堂が建つ。










 ところが、前記した伊予の世田山・笠松両城が落城の危機に瀕したとの報を知った伊予衆の大半が本国に帰ってしまい、大可島城に残った備後の桑原伊賀守重信一族をはじめとする南朝方は戦力が落ち、北朝方の攻撃を受け陥落した。

 この時備後南朝方として活躍したのが、写真にある桑原伊賀守一族の墓石である。
【写真左】桑原伊賀守重信一族の墓
 円福寺の階段わきに5,6基の五輪塔が祀られている。







現地の碑文より

“桑原伊賀守重信一族 墓域修復碑銘


 桑原重信一族 この地に逝きて六百有余歳墓石散逸し、墓域荒廃す。
 そもそも桑原家は代々備後国服部永谷に住し椋(左はネへん)山城主たり。元弘の頃備後一の宮桜山茲俊と共に、後醍醐帝に仕え、南朝の忠臣として歴戦し、建武中興には従五位下刑部少輔に任ぜられ、沼隈郡山南石浦城主となり、鞆城代をも兼ぬ。


 南北分るるにのぞみても、あくまで南朝に属し、遂に大可島合戦に一族と共に死す。その後裔一族各地に残り今に至る。
 先祖を偲び同族相計りて大可島城址の墓域を修復し、残存せる墓石を集めここに祀る。
 村上正名 撰文
 昭和34年8月
   桑原家同族会一同”
【写真左】大可島城から北方に鞆城を見る。
 「鞆城」は次稿で予定しているが、当城跡から北に約300mほど向かった高台にあり、現在「鞆の浦歴史民俗資料館」が建つ。



足利直冬

 大可島城が落城した康永元年から7年後の貞和5年(正平4年・1349)、当地に足利直冬が約6ヶ月在城した。これはその年4月、高師直と直義の対立が決定的となり、直義が直冬を中国探題として山陰・山陽を統括させ、備後の鞆に遣わしたことによるものである。

 その後、直冬は尊氏が放った追手を逃れ、九州へさらに西下する。九州に入った直冬のもとには、少弐頼尚をはじめ続々と呼応するものが出てきた。少弐頼尚の目的は、一色範氏を追放することが目的だった。こうして、九州には、(1)南朝方、(2)尊氏方、(3)直冬党の三勢力が分かれて激しく争うことになる。
【写真左】足利直冬終焉の地・慈恩寺
 所在地 島根県江津市都治町


 慈恩寺は以前にも取り上げたように、最期は石見のこの寺院で亡くなったといわれている。



 直冬の拠点は大宰府であったが、その後、後ろ盾としていた直義が亡くなったため、一気に勢力は低下、文和元年(1352)九州から長門へ移り、南朝方と手を結んだ。そして中国地方において再び勢力を回復、旧直義方であった山名氏らを従え、京都へ進軍し、幕府と戦ったが1355年、直冬軍は敗れ都を落ちていった。

2012年5月14日月曜日

亀寿山城(広島県福山市新市町大字新市)

亀寿山城(かめじゅやまじょう)

●所在地 広島県福山市新市町大字新市
●高さ 139m(比高120m)
●築城期 鎌倉期
●築城者 宮氏
●城主 宮下野守直信など
●形態 山城(直線状連郭式)
●郭・空堀
●備考 宮内桜山城支城
●登城日 2011年9月9日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
前稿「桜山城」の南方に築かれた山城で、芦田川により接近し、「相方(さかた)城」(2010年6月8日投稿)とは指呼の間にある。
【写真左】亀寿山城遠望
 南東麓にある寺院・安養寺から見たもの。
 登城したこの日、当院の若いご住職に縁起等を訪ねたところ、古い記録ははっきりしないが、この寺も昔は山頂のほうにあったということらしい。


 このためか、登城ルートとほぼ同一線上に霊場が設けられている。
 亀寿山城が使用されていたころ、城館と兼ねた本堂があったのかもしれない。




現地の説明板より

“亀寿山城
  (鎌倉時代末期~天文3年(1534))


 亀寿はもともと亀地であり、近世に入って亀寿と記した。
 古山陽道は御領より戸手を経てこの山麓を通り、市・三原に通じた。また、神谷川沿いに北上する街道もあり、中世までこの地は備後東部の交通の要所であった。


 街道に近く急峻な地は城を築くに適し、幾世代にもわって興亡と盛衰の歴史を残した。
 「元弘の変」(1331)では、宮内桜山城の支城として南方を防ぐ任務を果たしたほか、その後も備後東部の有力な城として攻防の中心にあった。


 天文3年(1534)9月、尼子勢の一翼を担って毛利方と対し、城をあとに広谷方面で戦い(陰徳太平記・広谷合戦)落城する。


 山頂一帯に砦が築かれ、その規模は近隣の山城を圧倒していたものと推測される。山頂部近くの現石鎚社は二の丸跡に位置し、南に本丸、西に三の丸と連なっていた。


 新市町教育委員会
 〈協力〉新市商工会青年部”
【写真左】登城道
 前記したように、霊場コースを辿っていく。
 東端部の尾根伝いから向かうが、低山の割にこの付近は傾斜があり、こまかく九十九折にされている。


南北朝期

説明板にもあるように、前稿「桜山城」の支城として使われたという。桜山茲俊が挙兵した際、当城周辺においても戦火があったものと思われる。また、築城期もこれよりさかのぼった鎌倉期ともいわれている。
【写真左】白衣観音
 登城途中に祀られている観音像で、つぎのような由来がある。


現地の説明板より


“白衣観音の由来


 明治39年3月14日、中戸手の十四の山の桑畑で農作業中に出土。それが家形石棺であった。その石棺を中戸手艮神社のそばの中戸手青年集会所に移転された。


 その後、中戸手青年集会所が取り壊され、大正のはじめごろに戸手小学校の裏庭に移転され、それ以降戸手小学校に保管された。
 石棺の主は、「咲矢子姫」で、6~7世紀頃、この地方の豪族「吉備品治国造」の妻で、若くして没せられこの石棺に埋葬された。
 この石棺の主の霊を慰めるため安住の場をこの地に選定して埋葬した。
 「咲矢子姫」の霊を弔うため、昭和56年1月10日に、その石棺の上に白衣観音像を据え、毎年10月、観音様の御命日の近い日に供養の法要を営み霊を慰めている。
 御真言
 おんしへいてい しへいてい はんたら はしに そわか
     奉賛会一同”
【写真左】登城道
 全体に岩肌の箇所が多い。


戦国期

天文3年(1534)、時の城主宮下野神直信は、毛利元就に攻められ落城、新市宮氏惣領家は滅んだ。その後は毛利氏又は有地氏などがそのまま使用したといわれる。
【写真左】分岐点
 写真中央には霊場札所としてご覧のような仏像が要所ごとに設置されている。


 左側に向かうと、二の丸跡といわれる現在の石鎚神社があり、右側尾根伝いにいくと本丸に向かう。
 最初に石鎚神社へ向かう。
【写真左】石鎚神社
 二の丸跡といわれた箇所で、幅5m前後、長さ10m前後の郭段が残る。


 なお、この神社の直ぐ脇に鳥居があり、その下を下っていくと、もう一つの登城道(参道)があるようだ。
【写真左】相方城を遠望する。
 石鎚神社側から南方に正対して見えるのが「相方城」で、その手前を芦田川が流れる。
【写真左】柱穴か
 石鎚神社から再びさきほどの尾根元に戻り、本丸に向かう途中に見えたもので、構造物のための穴と思われる。
【写真左】本丸か・その1
 尾根伝いに行くとすぐに長い郭段が現れる。
霊場コースの最終地点とあったので、本丸と思ったが、どうやら本丸はさらにこの向こうの峰側にあるようだ。


 なお、この郭は幅10~20m、長さ50m前後と大きなもので、もう一つの郭(本丸)と思われるものより規模は大きいとおもわれる。
【写真左】本丸か・その2
 この写真には見えないが、左側の下には帯郭が残っていたので、その先を行けば本丸にたどり着いたかもしれない。


 ただ、その途中は踏み跡がほとんど残っていなかったため、残念ながらそこまで踏査しなかった。
【写真左】新市の町並み
 眼下に芦田川・JR福塩線・国道486号線などが見える。