2012年5月10日木曜日

狐城と千人塚(広島県三次市布野町下布野)

狐城(きつねじょう)と千人塚(せんにんづか)

●所在地 広島県三次市布野町下布野
●高さ 240m(比高40m)
●遺構 郭・井戸等
●築城期 不明(戦国期か)
●築城者 不明
●城主 槇原藤五左衛門
●備考 大城山城・姫ヶ嶽城
●登城日 2012年3月10日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『サイト「城郭放浪記」』等)
管理人が安芸・備後の山城探訪する際、常に利用している国道の一つが、出雲と広島を結ぶ国道54号線である。

 狐城はこの国道54号線沿いに築かれた山城で、後背に控える姫ヶ嶽城と同じく、さらに後ろに控える大城山城の出城として築かれたとされる。
【写真左】狐城遠望
 東方から見たもので、ご覧のとおり小丘の城砦である。
 この写真には見えないが、左側に布野川の支流・姫ヶ滝川を挟んで姫ヶ嶽城・大城山城が控える。

布野合戦

天文10年(1541)11月、山陰の謀聖・尼子経久は80有余の人生を終えた。経久夭逝を知った山口の大内義隆は、翌天文11年正月早々、石見の諸将を従え、出雲国攻略にゆっくりと向かった。

経久亡き後、家督を継いだ孫の晴久は、経久の菩提供養も早々に領国の防備・維持に奔走しなければならなかった。大内義隆自身が月山富田城に迫ったのは、それから1年もたった天文12年1月のことである。そして、その年3月に至ると、あとから義隆につき従ってきた毛利元就が合流、月山富田城菅谷口にて激しい戦いが始まった。
【写真左】1段目の郭
 登城口は、西側から南にぐるっと蛇行する姫ヶ滝川と並行して走る道の南西麓にあり、階段が設置されているのですぐわかる。


狐城は細い尾根小丘に築かれた城砦で、小規模ではあるが、3段からなる郭段などの施工精度は高い。
 写真は、最初の段に設置された社。

5月、義隆に属していた吉川興経・三刀屋久扶らが寝返り、戦況は一気に尼子方優勢となり、ついには大内軍は大敗退を余儀なくされた。

晴久は大内氏の敗戦を契機に、逆に備後に打って出た。その年(天文12年)6月には備後木梨(尾道市)の鷲尾山城を落とし、7月に至ると石見に侵攻、石見銀山を攻略し、翌天文13年3月には再び備後田総で、元就・隆元と激突した。

それから4か月後の7月、晴久は約7千の兵を率いて備後の三吉城(比叡尾山城)の三吉広隆攻略に向かった。その報を知った毛利元就は、すぐさま福原貞俊と児玉就忠に一千余騎をつけ、救援に向かわせた。
【写真左】1段目から2段目の郭にかけられた階段部
 木製の階段で、大分古くなってはいるが、頑丈そうな造りとなっている。
 この写真の右側は断崖絶壁で、麓には「急傾斜崩落危険区域」とかかれた看板もあった。

福原・児玉両将は尼子方に先んじ、布野の下布野で阻止せんと陣を構えた。折悪く戦いの日は深い霧が立ち込め、毛利方にとって苦戦を強いられ二度にわたって敗戦した。

「吉田物語」という史料では、このことを「布野(府野)くずれ」と記している。

しかし、尼子方はこの先勝に油断し、そこを三吉広隆はわずか500の兵で奇襲をかけ、尼子方を打ち破った。これが後に「布野合戦」と呼ばれた。
【写真左】2段目の郭
 奥に見える郭が最高所のもので、高低差は3~4m程度ある。
【写真左】最高所の郭
 主郭に相当する箇所で、南側から北の方向を撮ったもの。
 長径15m、短径10m程度の規模。


 向に見える山との間には現在国道54号線から西に向かう(姫ヶ滝方面)道が走っている。
【写真左】北東端から東麓を見る。
 最高所から北東に向かって細く尾根が伸びている。写真の中央部横断している道が国道54号線で、右に行くと三次市に繋がり、左側に行くと飯南町(島根県)に向かう。


左側手前の道は、先ほど記した姫ヶ滝方面へつながる道だが、おそらくこの道は近年造られたものと思われ、戦国期狐城は左側の尾根と繋がっていたものと思われる。
【写真左】狐城から後背の「姫ヶ嶽城」「大城山城」方面を見る。
 狐城と二城の間には姫ヶ滝川が流れ、狐城が独立した配置となっている。
【写真左】2段目の郭から南麓を見る。
 南麓部は切り立った崖となり、その下に民家が並んでいる。
 中央に見える川が姫ヶ滝川で、左側に向かうと布野川に合流する。


 対岸に民家があり、その上に段々畑がみえるが、この尾根筋を西に進むと姫ヶ嶽城に繋がる。





千人塚(毛利尼子古戦場)

布野合戦の主戦場となったのは、布野町下布野付近で、現在布野川と並行して走る東方の旧出雲街道沿いの市立布野中学校から南方200mの地点(保健福祉センター西隣)に、「千人塚(毛利尼子古戦場)」が残る。

冒頭で紹介した内容と重複するが、現地にある説明板も紹介しておく。

“毛利尼子古戦場


 天文13年(1544)7月、山陰の尼子勢7千余騎と山陽の毛利勢1千余騎がこの一帯で戦う。
 旧地名にちなみこの戦いを「山崎合戦」という。
 戦略にたけた毛利勢も、当地特有の深い霧に阻まれ二度に亘って敗退した。これを吉田物語には「府野くずれ」と書き残されている。


 しかし、翌日には尼子勢が勝ちにおごって油断しているところを、毛利勢比叡尾山城主三吉広隆の5百騎による奇襲攻撃に敗れ、赤名峠をこえて帰国した。この丘は合戦で討死した両軍の勇士を埋葬したところで千人塚という。
 また、川向う北西二粁の丘は、尼子晴久が本陣をかまえ、弓を松にかけたところから弓掛松の由来がある。
  三次市
  三次広域商工会青年部布野支部”

【写真左】千人塚
 写真左側には一般の墓地があり、その南側一帯の丘陵区域が当該地となっているが、上の方には「史跡の丘」という古い看板も設置してあったので、公園としての利用も考えられているようだ。

合戦のあと、大城山城・姫ヶ嶽城は、毛利方の北方の守りとして重きをなし、先端部にあたるこの狐城などはおそらく物見台としての役割をになったものと思われる。

なお、姫ヶ嶽城及び大城山城も麓から見ることはできるが、登城口がはっきりしないため、現在のところ未登城である。
【写真左】千人塚遠望
 手前に見える道は、「旧出雲街道」で、現在の国道54号線より300m前後東方を走る。
【写真左】千人塚から南西方向に狐城等を遠望する。
 手前の樹木で少し視界が悪いが、この位置から狐城等も遠望できる。

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