2012年5月4日金曜日

発喜城(広島県広島市安芸区矢野町)

発喜城(ほきじょう)

●所在地 広島県広島市安芸区矢野町
●形態 山城
●別名 保木城
●高さ 476m(比高380m)
●築城期 建武2年(1335)ごろ
●築城者 熊谷四郎三郎入道蓮覚か
●城主 熊谷野間氏
●備考 矢野城の詰城
●登城日 2010年11月29日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 発喜城は広島市安芸区の矢野町に聳える絵下山(593m)から北に延びる尾根筋の延長線上に聳える保喜山(476m)に築かれた山城で、これをさらに北に降ると矢野城(265m)に繋がる。
 発喜城は元々この矢野城の詰城として築かれたもので、史料によっては発喜城も矢野城に包含しているものもある。
【写真左】現地の案内図
 「二艘木・茶臼山ルート案内図」のタイトルとして周辺の位置が描かれている。


 この図では中央に△会下山、△明神山が図示され、その中央北に「保喜山」「矢野城跡」が明記されている。
 この周辺は登山・ハイキングコースとして整備されているようだ。


 本来は麓から登るべきだったが、地図などを見る限り、麓に確実な駐車場が見つからなかったため、この日(2010年11月29日)は東麓の寺屋敷集会所側から登る路を選択し、そのまま「絵下山公園」→「テレビ新広島保喜山送信所」脇を通って、「広島ホームテレビ会下山放送所」前の駐車場に車を停めた。

 ここからスタートすると、会下山側から北に降る稜線上を踏査することになり、登るのではなく、降るコースとなる。

 結局、発喜城頂部にたどり着くも、その下にある矢野城へは登城することはできなかった。
【写真左】広島ホームテレビ会下山放送所前
 ここに駐車し、写真奥のほうから向かう。








熊谷入道蓮覚

 南北朝期当地には三入荘熊谷氏の庶家・熊谷四郎三郎入道蓮覚(れんがく)が拠ったとある。

 三入荘熊谷氏については、熊谷氏土居屋敷跡(広島市安佐北区三入南1)ですでに紹介しているが、承久の変によって、熊谷直国(討死)の子・直時が武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)から当地へ新補地頭として入ってくる。

 同氏は初期には伊勢ヶ坪城(広島市安佐北区大林町)を、その後室町初期に至ると、戦略的に優れた南方の高松山へ本拠(高松城)を移すことになる。
【写真左】広島湾・広島の町並み
 ホームテレビ会下山放送所前から眼下に広島湾などが見えるが、この場所は頗る眺望がよい。





 さて、南北朝期この蓮覚は建武2年(1335)、後醍醐天皇に与して、矢野城に立て籠もり、尊氏方だった安芸武田氏と交戦することになる。

 この年、尊氏が鎌倉において、北条時行を破り、後醍醐天皇の召還に従わず鎌倉にとどまったことから、新田義貞らが鎌倉に向けて西下し、12月伊豆箱根の竹下の戦いで尊氏・義貞が激突、尊氏はこの戦いで勝利している。

 このとき、安芸武田氏は尊氏挙兵に応じ、支援のため西下しようとするが、これを宮方であった蓮覚がそれを阻んだ。

 矢野・発喜両城での戦いは激しいものとなり、寄手であった武田軍には、毛利元春・吉川実経の代理須藤景成・吉川師平・周防親家・逸見有朝及び、熊谷有直後家の尼智阿代朝倉仏阿など当国の御家人大半が馳せ参じたため、蓮覚を始め両者に多数の死傷者が出たという。
【写真左】分岐点
 放送所から北に進むが、ほとんど下り坂となる。途中に写真にあるように案内標識が建てられている。


「矢野町史蹟顕彰 保喜会」と書かれている。
 発喜城はこの写真の左側のルートを下る。



室町期

 その後当城付近の支配者が誰であったか不明だが、おそらく、安芸国守護であった武田氏の支配下にあったものと思われる。

 文安2年(1445)、後の将軍となる足利義政より当地を与えられた野間重能が保木城(発喜城)に居を構えた。重能の後裔は不運が続き、継嗣がうまくいかなかったため、養子として尾張から興勝を迎えた。矢野を本拠とした野間氏はその後、周囲の国人領主であった毛利興元・吉川元経・平賀弘保・阿曽沼弘秀・天野興次らと盟約を結びながら一族の繁栄を図った。
【写真左】郭・その1
 発喜城は南北の尾根約200m前後に、郭が10か所程度点在している。
 もっとも明確な加工段としての郭はほとんどなく、漠然と歩けば分からないだろう。


 南端部と、北側にそれぞれ堀切が配置されているが、現地では判然としない。
 この写真にある郭もさほど人為的な施工跡は見受けられないが、規模としては大きい方だ。


 その後、安芸国は大内氏が侵攻してきたきたため、同氏の傘下に入るが、北境の阿曽沼氏や西進してきた竹原小早川氏らと争い、その都度大内義興の仲裁を受けている。

 この頃、野間氏は矢野城を本拠に、四周に支城を配置構築している。野間則澄の代には、弟・能胤を北方に別城を、同じく弟・末永常陸介景盛を呉の和庄の堀城、隆実の弟・則綱を妣摺(ひずり)城、家人佐伯通景を波多見城などと多く配置している。
【写真左】保喜山頂部
 最高所にはご覧のような看板が木にかけてある。
 この位置が最高所で保喜山(城)の本丸付近と思われるが、現地にはそれを示すものは一切ない。



戦国期

 戦国期山口の大内義隆が陶晴賢に滅ぼされると、毛利元就は次第に大内氏一族から距離を保つようになる。

 当初元就も晴賢に恭順の意思を示していたものの、吉田郡山を下った広島湾岸を支配下に収めようと画策し始める。これに対し、広島湾東方の矢野に本拠を持つ野間氏は、同じ広島湾にある仁保城(仁保島城)の城主・白井氏と組み、毛利氏に対抗した。
【写真左】仁保城
 広島南区にある黄金山で、現在公園となっており、遺構はほとんどないようだ。

【写真左】本丸・その1
 地表面に加工した跡もなく、拍子抜けした光景だが、発喜城は元々矢野城の詰城であったこともあり、基本的には自然地形を要害化した城砦と考えれば納得がいく。


 白井・野間両氏はこのころ、武田氏配下として活躍していたものと思われるが、同氏が滅亡したことにより、反毛利を鮮明にし、その結果陶晴賢支援に回ったものと思われる。

 弘治元年(1555)10月、毛利元就が陶晴賢を厳島で破ったが(宮尾城(広島県廿日市市宮島町)参照)、その前段でこの仁保城の戦いが行われた(仁保城(広島県広島市南区黄金山町)参照)。これは、仁保城に拠った毛利方の香川氏(八木)が、陶方の三浦房清の攻めを駆逐した戦いである。

 その後、野間氏は最終的に毛利氏に攻められ、矢野城を明け渡した。矢野城明け渡しの際はこの発喜城も同じく、毛利氏の手に落ちたと思われる。明け渡しの際、野間氏は毛利氏と講和を結ぶことを条件としていたが、毛利氏はそれを反故にし、野間氏の主だった面々を真光寺で殺害したとされる。
【写真左】本丸・その2
 同じような光景だが、前記したように南北約200mという長い尾根を利用した郭群があることから、陣所として多くの兵を置くことができたのだろう。


 また、発喜城を過ぎて、矢野城に向かうと、途端に急坂の降り坂となる。事実上の切崖と考えてよいと思われる。

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