2012年5月21日月曜日

大可島城(広島県福山市鞆町古城跡)

大可島城(たいがしまじょう)

●所在地 広島県福山市鞆町古城跡
●築城期 康永元年(興国3年・1342)
●築城者 岡部出羽守
●形態 水軍城
●遺構 郭
●高さ 標高10m
●指定 福山市指定史跡
●登城日 2012年3月14日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 瀬戸内海国立公園の一つである鞆の浦は、古くから潮待ちの港として知られ、また万葉集にもうたわれた風光明媚な場所である。
 大可島城は、この鞆の浦の鞆湊入口に突出した陸繋島(りくけいとう)に築かれている。
【写真左】大可島城遠望
 北側のグリーンラインから見たもの。
 大可島城は燧灘(瀬戸内海)に突出していることがよく分かる。



 中世南北朝時代に入ると、度々当地で合戦が繰り広げられ、また戦国期に至ると、信長から追われた室町幕府15代将軍足利義昭が当地にしばらくとどまり、信長打倒の機会をうかがったという。


現地の説明板より

“大可島城跡
   市史跡 昭和39年3月31日指定


 1342(康永元)年四国伊予を拠点とする南朝方と、備後一帯に勢力をもつ北朝足利方が燧灘(ひうちなだ)で合戦となり、大可島城にこもる南朝方は全滅しました。その後、戦国時代村上水軍の一族が大可島城を拠点に、海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。


 慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在ある南林山釈迦院円福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。”
【写真左】夾明楼登り口付近
 夾明楼(きょうめいろう)というのは、円福寺(大可島城跡に建てられた寺院)にある座敷名で、江戸期頼山陽の叔父・頼杏坪が命名したといわれる。



南北朝期

 康永元年(1342)に南北両朝の合戦があり、大可島城に籠った南朝方が滅亡したという。

 意外なことに、康永元年のこのころ、畿内は比較的平穏な時を迎えている。既に後醍醐天皇や北畠顕家・新田義貞は没し、北朝すなわち室町幕府は足利直義が実権を握り、守護・国人に対し、荘園侵略、刈田狼藉などの違法を取り締まり、荘園領主などの保護に努める一方、天下泰平を祈願し、五山十刹の制度を定めたりしている。
【写真左】大可島城跡・円福寺
 円福寺という寺院になっているため、大可島城当時の遺構はほとんど残っていない。


 ただ、現地の地形を考えると築城の際、現在と同じような石積み工法が随所に用いられていたと考えられる。







 もっとも直義の絶頂期はこの短い期間だけで、その後幕府内部における高師直との対立が次第に鮮明となり、さらには5年後の貞和3年(1347)になると、南朝方の蜂起が次第に拡大し、窮地に陥っていくことになる。

 瀬戸内における南北朝の戦いは、説明板にもあるように康永元年(1342)のころがもっとも大きなものとなる。この年5月、後村上天皇は西国において南朝方の勢力を回復すべく、新田義貞の弟・脇屋義助を中四国の総帥として伊予に下した。しかし、義助は直後病に倒れ、今治国分寺に急逝した。

【写真左】伊予・世田山城遠望
 所在地 愛媛県今治市朝倉 標高339m







 南朝方が重要な拠点と定めたのは、四国伊予の世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)笠松山城(愛媛県今治市朝倉南)並びに、川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)などである。
【写真左】川之江城(仏殿城)
 所在地 愛媛県四国中央市川之江町
 南北朝期は当然ながら天守などはなく、海城だったと思われる。






 壮絶な戦いは40日余り続き、南朝方は衆寡敵せずついに落城、大館氏ら主だった面々は自害した。

 この戦いの際、最初北朝方・細川頼春らが攻め入ったのは川之江城だったが、その救援に向かったのは同じ伊予の南朝方である。船団を率いて東進するも、途中で備後の北朝方の阻止に逢い、さらには折からの突風にあい、船は瀬戸内北岸の鞆の浦に吹き寄せられた。このため、備後に潜伏していた南朝方と結び西国の拠点とすべく、大可島城を詰城として構えた。
【写真左】大可島城跡・円福寺
 城跡には円福寺の本堂が建つ。










 ところが、前記した伊予の世田山・笠松両城が落城の危機に瀕したとの報を知った伊予衆の大半が本国に帰ってしまい、大可島城に残った備後の桑原伊賀守重信一族をはじめとする南朝方は戦力が落ち、北朝方の攻撃を受け陥落した。

 この時備後南朝方として活躍したのが、写真にある桑原伊賀守一族の墓石である。
【写真左】桑原伊賀守重信一族の墓
 円福寺の階段わきに5,6基の五輪塔が祀られている。







現地の碑文より

“桑原伊賀守重信一族 墓域修復碑銘


 桑原重信一族 この地に逝きて六百有余歳墓石散逸し、墓域荒廃す。
 そもそも桑原家は代々備後国服部永谷に住し椋(左はネへん)山城主たり。元弘の頃備後一の宮桜山茲俊と共に、後醍醐帝に仕え、南朝の忠臣として歴戦し、建武中興には従五位下刑部少輔に任ぜられ、沼隈郡山南石浦城主となり、鞆城代をも兼ぬ。


 南北分るるにのぞみても、あくまで南朝に属し、遂に大可島合戦に一族と共に死す。その後裔一族各地に残り今に至る。
 先祖を偲び同族相計りて大可島城址の墓域を修復し、残存せる墓石を集めここに祀る。
 村上正名 撰文
 昭和34年8月
   桑原家同族会一同”
【写真左】大可島城から北方に鞆城を見る。
 「鞆城」は次稿で予定しているが、当城跡から北に約300mほど向かった高台にあり、現在「鞆の浦歴史民俗資料館」が建つ。



足利直冬

 大可島城が落城した康永元年から7年後の貞和5年(正平4年・1349)、当地に足利直冬が約6ヶ月在城した。これはその年4月、高師直と直義の対立が決定的となり、直義が直冬を中国探題として山陰・山陽を統括させ、備後の鞆に遣わしたことによるものである。

 その後、直冬は尊氏が放った追手を逃れ、九州へさらに西下する。九州に入った直冬のもとには、少弐頼尚をはじめ続々と呼応するものが出てきた。少弐頼尚の目的は、一色範氏を追放することが目的だった。こうして、九州には、(1)南朝方、(2)尊氏方、(3)直冬党の三勢力が分かれて激しく争うことになる。
【写真左】足利直冬終焉の地・慈恩寺
 所在地 島根県江津市都治町


 慈恩寺は以前にも取り上げたように、最期は石見のこの寺院で亡くなったといわれている。



 直冬の拠点は大宰府であったが、その後、後ろ盾としていた直義が亡くなったため、一気に勢力は低下、文和元年(1352)九州から長門へ移り、南朝方と手を結んだ。そして中国地方において再び勢力を回復、旧直義方であった山名氏らを従え、京都へ進軍し、幕府と戦ったが1355年、直冬軍は敗れ都を落ちていった。

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