2014年3月27日木曜日

虎倉城(岡山県岡山市北区御津虎倉)

虎倉城(こくらじょう)

●所在地 岡山県岡山市北区御津虎倉
●築城期 文明年間(1469~87)
●築城者 服部伊勢守
●城主 伊賀氏・長船越中守
●高さ 327m(比高227m)
●形態 連郭式山城
●遺構 郭・石垣・堀切・門跡・礎石・井戸・池等
●備考 金川城の出城
●指定 岡山市(御津町)指定重要文化財
●登城日 2014年3月15日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
  虎倉城は、岡山県を流れる三大河川の一つ旭川の支流宇甘(うかい)川の中流域虎倉に所在する連郭式山城である。
【写真左】虎倉城遠望
 南側の市場集落から見たもの。











 築城期・築城者など初期の記録については、下段の説明板にもあるように諸説あり、今一つ確定していないが、戦国前期には麓を流れる宇甘川が本流旭川と合流する地点に築かれた金川城(岡山県岡山市北区御津金川)の出城であったという。
【写真左】虎倉城配置図
 現地の説明板に少しトレースしたもので、常盤橋から市場集落の方へ狭い道を進んで行くと、薄暗い谷へ向かうが、その途中に車1台分の駐車スペースが確保できる(下の写真参照)。

 ここから、左図のコースを辿って向かう道が案内されている。









 現地の説明板より・その1

“御津町指定重要文化財
  虎倉城跡

 虎倉城跡は城山山頂に築かれていた中世の山城跡です。
 15世紀後半に金川城(玉松城)の出城として服部伊勢守が築いたといわれていますが、詳しいことは分かりません。

 16世紀前半に伊賀氏の居城となり、以後三代にわたり城主となりました。16世紀後半の伊賀久陸の頃が全盛で、宇喜多氏の有力武将として、備前国北西部から備中国東部を支配しました。
【写真左】登城口始点
 手前に駐車スペースがあり、そこから先ず谷を進む。
 右の檻は猪捕獲のものだろう。


 やがて、宇喜多氏と対立し、子の与三郎は虎倉城から出ました。その後、長船越中守の居城となりましたが、1588(天正16年)、一族の争いで城は焼けてしまいました。

 虎倉城跡のある城山は、急な山で天然の備えとなっています。また、主要交通路の金川と高梁を結ぶ道、現在の県道高梁・御津線を見下ろすことができる重要な所です。
 虎倉城は連郭式山城で、慰霊碑のある郭から東へ200mの山頂に本丸があります。本丸から東に二の丸、出丸が、西に三の丸があります。郭の先には堀切が設けられています。本丸は石垣で築かれ、35×25mの広さがあります。瓦片も見つかっています。

 虎倉城は重要部に瓦葺の建物が建ち、土塀が巡るしっかりした城であったのでしょう。しかし、この城は戦いの時に備えた城で、ふだんは山麓の根小屋で生活していたようです。

     御津町文化財保護委員会
     御津町教育委員会”
【写真左】分岐点
 谷筋を進んで行くと、虎倉城方向を示す標識があり、ここから九十九折状の急峻な登城道を進む。







現地の説明板より・その2

“町指定文化財  虎倉城跡(標高327m)

 築城の年代は定かでない。虎倉物語(虎倉村又兵衛)によれば、伊賀伊賀守が、赤坂郡鍋谷の城から移ったとあるが、それは備前軍記等から文明12年(1480)ごろと推定される。
 一説によれば、伊賀兵庫頭が応永のころ(1400年前後)築城。また、大永7年(1527)服部伊勢守築城という説もある。城主は伊賀勝隆 ― 久隆 ― 与三郎家久の名が知られている。
  • 天正2年(1571) 虎倉合戦毛利勢敗退
  • 天正6年(1578) 久隆病没伊賀氏離散  家臣の多くは奥津高に帰農。宇喜多家臣長船氏・石原氏入城
  • 天正10年(1582) 小寺官兵衛一時在城
  • 天正16年(1588) 長船・石原内紛焼亡
  御津町教育委員会”
【写真左】最初のピーク
 途中ガレ場など歩きにくい箇所もあるが、九十九折であるため、大分負担は少ない。
 このピークは虎倉城の北西端部の堀切がある個所で、いわば最後尾にあたる。
 ここから尾根伝いに先端に向かって本丸を目指す。


伊賀氏
 
 上掲した二つの説明板にもあるように、築城時期についても様々な説があり、築城者も複数伝承されている。

 その中でも前段で紹介されている服部某については、江戸中期に行われた聞き取り調査をもとにした「虎倉記」からのもので、服部伊勢守とされ、金川城の松田氏家臣とされているが、史料的裏付けがなく、信憑性が薄いとされる。
【写真左】供養碑のある歓喜山へ向かう。
 堀切から尾根伝いに登っていくと、歓喜山という頂部に至る。

 写真の道は近代に整備されたものだろう。幅は広いが直登で結構傾斜がある。



 伊賀氏については、前稿備前・福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)でも述べた福岡合戦の中で、松田方家臣として伊賀修理亮の名が見える。
 すなわち、文明15年(1483)の段階で、修理亮は鍋谷城(加賀郡吉備中央町下加茂:未登城)にあったとされ、その後伊賀氏は虎倉城へ移っていくことになる。
【写真左】供養碑のある歓喜山
 西からの防禦とした出丸の一部と思われるが、直径10m前後の削平地には、ご覧の石碑が建つ。
 石碑は複数あり、最初に建立されたのは天保4年で、その後昭和58年・63年にも行われている。
 そのほか、当城調査をした大正時代の経緯については、下記のように刻文されている。

“大正年間御御津郡史編纂に当たり、安井岩太郎氏案内にて片山粛二郎佐義名加津海両先生より調査せり、私も随えり
  大正拾壱年秋 郷土史家 河田熊夫”


 伊賀氏が虎倉城に移った時期は、はっきりしないが、永禄から天文初年(1521~)頃には当城主として伊賀守になっていることから、左衛門久陸・與二郎(與三郎)と代々居城していたと思われる。

 久陸の代の前までは金川城主・松田氏の重臣として備前北西部を支配していたが、松田氏が衰え始めると、そのころ急激に台頭してきた宇喜多直家(備前・亀山城(岡山県岡山市東区沼)等参照)に接近、縁戚関係を結んだ。そして、永禄11年(1568)、伊賀久陸は直家の先兵となって元の主君であった金川城の松田氏を攻略した。

 その後、伊賀氏は備中国北西部から東部にわたって次第に支配を広げ、直家の有力武将として歩み始めることになる。
【写真左】出丸
 歓喜山を過ぎると再び降りるが、その先にはご覧のような長さ200m以上はあろうかという長大な郭が続く。

 少し登り勾配だが、おそらくこの場所が主だった軍兵の駐屯場所として使われたのだろう。
 また、写真にはないが、この右側斜面の下にかなり大きな窪みが確認できた。おそらく生活用の溜池か、馬の飲み水等に使われた可能性がある。

虎倉合戦

 天正2年(1574)、毛利氏は備中を拠点として、備前攻めを本格的に開始する。毛利輝元はこのころ備中の竹の庄(現:吉備中央町竹庄)に本陣を置き、藤沢村福山城(現:吉備中央町の加茂福山城と思われる)に詰めていた直家の駐屯軍を攻略、次に狙いを定めたのが備前の北西の入り口にあたる虎倉城であった。

 同年4月13日、毛利方の馬廻衆であった児玉元兼、粟屋与十郎、神田宗四郎らが数千余騎を従い、虎倉城方面を目指しながら周辺を襲い、津高郡上加茂まで東進してきた。さらに、児玉らは伊賀方の動きがないため、このまま虎倉攻めを決断した。
【写真左】堀切
 出丸を過ぎると、三の丸が控えるが、その間にはかなり大きな堀切跡が残る。
 出丸側と堀切の傾斜は大分緩くなっているが、三の丸側(右側)とは険峻な切崖と相まって、当時はもっと鋭角に抉られていたものと思われる。


 ところが、伊賀方は、虎倉城の周囲の山に潜み、密かに毛利方の隙を狙うべく待ち伏せをしていた。敵兵の動向を確かめもせず、毛利方はそのまま虎倉城へ攻め込んだわけである。

 伊賀方の戦力は毛利方の大軍の比ではなかったため、戦略は毛利方が組んだ陣営の指揮官のみの首級をとることに徹していた。徹底したこの戦法は見事に当たり、毛利方の二人の指揮官(太田垣某、粟屋与十郎)は討死、忽ち陣形は乱れ、毛利方の大敗となった。この日の毛利勢の戦死者は130余人といわれている。
【写真左】三の丸南端部の犬走り
 堀切を抜けると、登城道は三の丸の南側にコースを変えて上に進む。
 写真の左側には三の丸の南に繋がる腰郭が来ている。



 この吉報は直ちに岡山城の宇喜多直家のもとに届けられた。この後、輝元は改めて軍評定を開き、虎倉城攻めの戦略を練り直した。その結果、先ずは虎倉城の支城を先に攻め流こととし、堤棚奥宿という伊賀氏の支城を攻略した。

 奥宿には伊賀氏の家人河田源左衛門ら50人がこの砦を守っていたが、忽ち毛利氏の猛攻によって苦戦を強いられた。そのため源左衛門は虎倉城へ急使を走らせた。しかし久陸は兵を動かさなかった。奥宿に兵を送ることは、虎倉城の分断を意味する。それが毛利氏の狙いだった。

 このため、奥宿の源左衛門は最期まで死闘を繰り返し、毛利方の兵を両脇に抱えながら滝壺に飛び込んだという。
【写真左】二の丸手前付近
 登りきると、右側に二の丸、左側に本丸が控える。
 先ずは左側の本丸に向かう。






宇喜多直家との対立

 宇喜多氏にとって、久陸は有力武将ではあったが、主君・直家は西国の梟雄といわれた人物である。
 久陸は、直家の父興家の娘を妻としていたから、久陸と直家は義兄弟でもあった。果たせるかな、主従といった信頼関係は、直家の方から破られることになる。
【写真左】本丸
 周囲には石垣で積み上げられた箇所が残る。
台形もしくは三角形の形状となっており、長径35m×短径25mの規模。



 殺伐とした下剋上の時代である。そして直家は忠義心と最も距離を置いた生き方をした。次第に所領を拡大しつつあった義兄弟・伊賀久陸に対する脅威を感じていたのだろう。直家にとって、久陸の存在は、侮れぬものとなっていき、若き日の直家自身が、主君浦上氏を裏切った姿にも見えたのかもしれない。直家は久陸の暗殺を謀るが失敗し、ついに久陸は直家と反目し、対立した。
【写真左】本丸と二の丸の間の腰郭
 二の丸と三の丸の位置については、現地の標識と『日本城郭体系・岡山県版』とでは合致していない。
 現地では本丸の西側の郭段を二の丸として標記し、『城郭体系』では、三の丸とのつなぎの腰郭としている。
 ここでは、現地の標識を順守し二の丸としておく。
 本丸は右側になるが、この腰郭との段差には石垣が積まれていたようで、現在は殆どが崩れている。

 久陸が亡くなったのは天正9年(1581)4月とされるが、別説では同7年ともいわれている。いずれもその死因ははっきりせず、急逝している。一説には直家家臣の河原某に毒を盛られたとされる。

 その後、伊賀氏は久陸の子・与三郎(家久)になって、毛利氏へ属し虎倉城を退出した。虎倉城には代わって、宇喜多氏の重臣・長船越中が入城したが、天正16年長船一族内の内訌がもとで城は焼失してしまったという。その後の経緯については、説明板の通りである。

 なお、説明板・その2にもあるように、天正10年には黒田官兵衛が当城に一時在城している。
【写真左】二の丸から下の三の丸を見る。
 下段の三の丸の東隅に井戸跡が確認できる。(下段参照)
【写真左】井戸跡
 直径約3m前後のもので、内側には石積が残る。
【写真左】三の丸
 三の丸の先端部は切崖となって、最初にみた堀切に至るが、南側には三の丸から連続する腰郭が二の丸直下まで伸びている。
【写真左】加工跡が残る石
 三の丸側の腰郭に残っているもので、切断加工した跡が明瞭に残っている。
【写真左】東端部へ進みたいが…
 再び本丸側に戻り、入口付近から先端部に伸びる出丸まで向かおうとしたが、ご覧の藪コギ。
 この先にはもう一つの二の丸や、出丸があるはずだが、ここで断念。
 

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