2014年3月14日金曜日

熊山城(岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)

熊山城(くまやまじょう)

●所在地 岡山県赤磐市奥吉原(熊山神社)
●高さ 509m
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 児島高徳等
●指定 国指定史跡
●備考 熊山神社・石積遺構・帝釈山霊仙寺
●登城日 2013年9月17日

◆解説(参考文献・下段参照)
 このところ四国の山城が続いていたので、今稿では久しぶりに備前国の山城を取り上げたい。
 もっとも今稿の熊山城は、一般的な山城というよりも、謎に包まれた石積遺構としての史蹟価値が高く、極めて特異な仏教遺跡としての認知度が高いものである。
【写真左】熊山城遠望
 南西麓を流れる吉井川の備前・福岡城付近から見たもの。









 そしてこの山城に関わった武将として有名なのは、説明板にもあるように、これまでに度々紹介してきた南北朝期の南朝方忠臣・児島高徳である。

児島高徳

 児島高徳については、これまで

児島高徳の墓(兵庫県赤穂市坂越)
院庄館(岡山県津山市院庄)
備中・福山城(岡山県総社市清音三因)
砥石城・その1(岡山県瀬戸内市邑久町豊原)

 で度々紹介してきているので、詳細は省くが説明板によれば、建武3年(1336)4月、この地で兵を挙げた場所とされている。
 この年の2月足利尊氏は、京の都で新田義貞に敗れ、一旦海路を使って鎮西(九州)に奔った。その後、尊氏・直義らは菊池武敏・阿蘇惟直と筑前国多々良浜で戦い、これを破り再び勢威を取り戻し、4月に博多を出発、都へと東上を開始した。
 児島高徳が4月に兵を挙げたのは、この尊氏の東上を阻止することだったと思われる。

上寺山の館

 ところで、高徳が熊山に向かう前にいた場所といわれているのが、上寺山館(岡山県瀬戸内市邑久町北島)である。
【写真左】上寺山餘慶寺
 所在地:瀬戸内市邑久町北島1187

 小丘陵地にあって、このまわりには現在多くの寺院・神社が建ち並ぶ。




 現在の上寺山餘慶寺(よけいじ)がある場所で、当院は中国観音霊場第2番札所・山陽花の寺霊場第16番札所でもある。

 ここから吉井川の東岸を伝って登っていくと、熊山までは約16キロ程度の距離となる。ちなみに、当院境内には、児島高徳・和田範長一族の供養塔が祀られている(下段の写真参照)。
 そして、当院は和田範長一族の居城・居館があったところとされている。当院(居城・居館)については、改めて別稿で取り上げたい。

熊山遺跡

 さて、熊山(城)だが、当山に向かうには南側からと北側からの2コースがあるようだ。この日は南方の備前市大内側(国道2号線)から向かったが、最終地点にあった駐車場のもう一つの道側には通行止めがしてあったので、北側は使えないかもしれない。
【写真左】大滝山生活環境保全林案内図
 備前市側になるが、熊山に向かう途中に森林浴の森・展望の森などと設定された「大滝山生活環境保全林」の案内図が設置されている。

 熊山方面はこの図では左上の先にある。
なお、この図には書かれていないが、登城途中の右下付近には、狐塚城(H:240m)、鬼ヶ城、伊部(いんべ)城(H:230m)など城砦も記録されている。
【写真左】上図設置付近
 この先で分岐点があり、左側の道を進むと熊山にたどり着く。







現地の説明板より・その2

“国指定史跡 熊山遺跡
   管理団体 岡山県赤磐市
   指定年月日 昭和31年9月27日

 この遺跡は、熊山山頂(508m)に在って、全国に類を見ない石積みの遺構である。ほぼ、方形の基壇の上に、割石をもって三段に築成している。第1段は南面が狭く、北面が広い台形、第2段は、南面が広く、北面が狭い台形になっている。第2段の四側面の中央に龕(がん)が設けてある。第3段は、方形であるが、中央部分に大石で竪穴の蓋がしてある。
【写真左】熊山の駐車場
 2号線から熊山に向かう途中の麓の道は狭いところが多かったが、山に向かうと整備された道となっており、さらに驚いたのがこの駐車場である。
 大変に広く、バスでも駐車できそうだ。


 石積の中央には、竪穴の石室(約2m)が作られていて、その石室に陶製の筒形(5部分に分けられる)の容器(高さ1.6m)が収められていた。この陶製の筒の中に、三彩釉の小壷と文字が書かれた皮の巻き物が収められていた、と伝えられている。

 陶製の筒形容器と三彩釉の小壷からみて、本石積遺構の築成年代は、奈良時代前期で、三段の石積の仏塔と考えられる。

 また、熊山山塊には、現在大小32基の石積の跡が確認されている。国指定の石積遺構に類似しているが、築成の目的、年代、築成者などは異なるものと思われる。”
【写真左】熊山周辺の配置図
 地の色が緑色のため少し見難いが、右方向が北を示し、駐車場は中央下のところになる。
 ここから歩いて、熊山神社・熊山石積遺構などへ向かう。


熊山神社

 駐車場からしばらく西の方向へ向かうと、分岐点があり、右にいくと「二つ井戸」があるが、今回はスルーして左側の道を進むと、最初に熊山神社がある。
【写真左】熊山神社・その1
 少し傾斜のついた坂になっている参道を進むと、鳥居の奥に本殿が見えてくる。






現地の説明板より・その1

“児島三郎高徳 挙兵の跡

 太平記に詳しく記述されているが、建武3年(1336)4月、上寺山の館から熊山に兵を挙げた時の腰掛岩と旗立岩である。
  熊山町教育委員会”
【写真左】腰掛岩と旗立岩・その1
 本殿に向かって右側にあるもので、座面2m余りのものが腰掛岩、その奥に積み上げられた岩塊が旗立岩のようだ。

【写真左】腰掛岩と旗立岩・その2
 裏から見たもの。










熊山遺跡 基壇の目的

 この特異な石積遺跡については、長い間なんの目的で作られたものか不明とされてきたが、近年になって、仏教遺跡の一つ、「仏塔」であることがほぼ確定しているという。
【写真左】熊山遺跡・その1
【写真左】熊山遺跡・その2
【写真左】熊山遺跡・その3
 裏側から見たもの。











 因みに、この保存状態のいい基壇(仏塔)のほかに、この山には大小32基も類似した基壇があったとされ、伝承ではこの山が帝釈山霊仙寺があったとされ、山そのものがそうした仏教霊場の場として使われていたと思われる。

 一般的には五重塔や三重塔といったいわゆる建築物としてのものが多いが、熊山遺跡の場合はすべて石によって積み上げていることから、かなり古いものとおもわれる。

 この熊山遺跡(基壇)を目にしたとき、すぐに思い浮かんだのが小豆島の星ヶ城・その2(香川県小豆島町大字安田字険阻山)を探訪した折にみた、東峰本丸に設置された祭祀遺構である。
【写真左】小豆島星ヶ城の祭祀遺構
 大きさは、熊山遺跡に比べると小さい。また、石積も整然と並んだものではなく、石も不揃いなものが多いようだ。



 こちらの方は熊山遺跡のように四角張ったものでなく、中央東部や四隅の突起部分の頂部は円形のもので、形は大分違うものだが、古代のものとすれば、仏塔と祭祀というそれぞれ目的は違うものの、どちらも当時の人々が具象化した祈りのシンボルとして造られたものだろう。

★注記
 
 サイト『城郭放浪記』氏より、この祭祀遺構について下記のような御教示をいただいた。


“ 石塔はミャンマー様式の仏塔であるパゴダをモチーフにしたものだそうで、同書によれば「山小屋を住居にしていた某宗教の信者らが、山頂部を鉢巻状に囲んでいた石塁の石を無断で運搬し建造したものという。」とあり、近代に造られたもののようです。”

 改めてお礼申上げます。


【写真左】石積階段
 石積基壇(仏塔)は削平された先端部(東側)にあるが、その北側には入口と思われる石積の階段がある。

 この階段を上がると下段に示した鐘楼跡の礎石が配されている。
【写真左】五輪塔
 おそらくこの平坦地には寺院が建っていたものと思われるが、周囲にはこうした五輪塔や宝篋印塔などが分散して残っている。
【写真左】宝篋印塔
 この宝篋印塔は正応5年(1292)建立されたとされ、当山にいた僧顕空の供養塔とされている。






 熊山に残るこうした古代から中世にかけて仏教遺跡や、児島高徳らが挙兵したような城砦遺構などを目にするとき、数百年に亘って、霊仙寺を主体としながら、当山はその目的・用途をその都度変えながら続いてきたものと思われる。
【写真左】展望台から南方を俯瞰する。
 熊山は北方の眺望は期待できないが、南方は麓を流れる吉井川を中心に瀬戸内市や岡山市などが俯瞰できる。

 写真にはいずれ投稿予定をしている「備前・福岡城」や、宇喜多直家が在城した乙子城(岡山県岡山市乙子)などが見える。

 奥には児島半島が見えるが、おそらく右側の一番高い山が以前紹介した常山城(岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川)と思われる。
【写真左】小豆島を見る。
 さらに目を東に転ずると、小豆島が見え、上段にも紹介している星ヶ城・その1(香川県小豆島町大字安田字険阻山)の星ヶ城山が見える。
【写真左】屋島を見る。
 小豆島を介して西に目を移すと、遥か彼方の四国・讃岐の特徴ある屋島の山容が見える。
【写真左】岡山市街地
 右を見ると岡山市街地が見える。








 


黒田官兵衛と鐘

 ところで、戦国期、備中高松城攻めで有名な水攻めの際、黒田官兵衛が当山の霊仙寺跡の釣鐘を持ち出し、船の上からこの鐘をたたいて気勢をあげたという。
【写真左】釣鐘があったとされる鐘楼跡の礎石











 高松攻めのあと、この鐘は金山寺(写真参照)の仲介で、雪舟が幼少時代過ごしたといわれる宝福寺(写真参照)が持ち帰り、今に伝えているという。
【写真左】金山寺の山門(仁王門)
 所在地 岡山市北区金山寺
 山号 銘金山
 宗派 天台宗
 創建 天平勝宝元年(749年)(伝)
 写真の山門は、岡山市重要文化財で、探訪したこの日(2011年8月16日)は改修工事が行われていた。
【写真左】宝福寺・その1
 所在地 岡山県総社市井尻野1968
山門付近

 探訪日 2014年2月24日

 残念ながら釣鐘の写真は撮っていないが、他のサイトなどを見る限り船に乗せて叩いていたということから小ぶりな釣鐘のようだ。
【写真左】宝福寺・その2
 探訪日 2006年11月21日

 紅葉の時期は観光客で賑わう。







◎参考文献
 『日本城郭体系第13巻』、「熊山と児島高徳、黒田官兵衛のかかわり」(熊山遺跡群調査・研究会 岡野進、その他。

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