2017年11月29日水曜日

豊前・平田城(大分県中津市耶馬渓町大字平田字町丈)

豊前・平田城(ぶぜん・ひらたじょう)

●所在地 大分県中津市耶馬渓町大字平田字町丈
●別名 白米城
●指定 中津市指定史跡
●高さ 118m(比高30m)
●形態 平山城
●築城期 建久年間
●築城者 野仲重房
●城主 野仲氏・栗山備後守利安
●遺構 郭・石垣等
●登城日 2015年10月11日

◆解説(参考資料 パンフ「平田城跡(白米城)」平田城址保存会発行等)
 前稿豊前・長岩城(大分県中津市耶馬渓町大字河原口)から津民川を下り、本流山国川に合流しさらに3.5キロほど下ると、町丈という地区に入る。この付近は耶馬渓という独特の狭い谷間の多い流域のなかでも比較的開けた場所である。平田城はその丘陵地に築かれた平山城である。
【写真左】平田城遠望
 東麓を走る国道212号線側から見たもので、城域の南端部に当たる南台(下図参照)を撮ったもの。





白米城(まつたけじょう)

 平田城は別名・白米城と記され、これを「まつたけじょう」と読む。いわゆる「当て字」だが、その由来ははっきりしないものの、所在する地区名が「町丈」であること、また田圃が広く米の生産に恵まれていたことからきたものだろうといわれている。現在の「平田城」とされたのは近年らしい。
【写真左】平田城要図
 上方が北を示す。城域は大きく分けて3区分になる。

 赤字のラインで囲んだ区域が南台といわれ、戦国時代の遺構が多く残っていた箇所で、青字のものが北台といわれ、城主・重臣等の屋敷地として使用された。

 また左側は特に名称はないが、西側を防御する区域となっている。
 

現地の説明板より

平田城跡(中津市指定史跡)

 平田城は別名白米城(まつたけじょう)ともいい、建久年間に長岩城主野仲重房が築城したと伝えられています。天正年間には平田掃部介が城番として居城していました。

 天正15年(1587)、黒田官兵衛が豊前国6郡を拝領し入国すると、野仲鎮兼はこれに反攻し家臣とともに長岩城に籠りました。黒田勢は長岩城を攻め落とし、官兵衛は戦功のあった栗山備後守利安に野仲氏の旧領6千石を与えました。
 栗山備後は平田城主となり、城を改修、現在もこの時築かれた石垣の一部が残っています。「黒田騒動」で名高い栗山大膳(栗山備後の長子)は、この城で少年期を過ごしています。
      中津市教育委員会”
【写真左】登城口付近
 東側に城跡公園入口と表示された場所があり、その道(公園用舗装道路)を進んで行くと、柵が設置されているので、これを開けてはいる。

 この写真では、左側が南台側で、右側が北台区域になる。


栗山備後守利安・大膳利章
 
 平田城の築城者は、豊前・長岩城と同じく野仲鎮房といわれ、その後同氏一族が山国川流域の押さえとして担った。

 豊前・長岩城の稿でも述べたが、天正16年(1588)における黒田長政らによる攻略において、平田城も同じく攻められたが、この時の戦いでは野仲氏一族は殆どが長岩城に終結していたこともあり、大きな戦とはならなかったといわれる。
【写真左】忠霊塔参拝道
 入口を過ぎると、そのまま真っ直ぐ進む道と、左側に向かう道に分かれており、最初に左側に向かう。
 現地では忠霊塔参拝道と名付けられているが、主郭の東側の段で、腰郭の遺構部。
 左下に町丈の集落や田圃が控える。



 長岩城での戦い後、武功を挙げた一人に栗山備後守利安がいる。彼は長政から当城(平田城)を与えられ居城とした。
 栗山利安は2014年に放映された大河ドラマ『軍師官兵衛』で濱田岳さんが演じているので、御記憶の方もおられると思うが、黒田氏の筆頭家老で官兵衛の股肱の家臣である。

 利安の子が利章で、利章は天正19年(1591)、この平田城で生まれている。そして慶長5年(1600)10歳のとき、黒田氏の国替により父・利安とともに福岡城に移った。後に「黒田騒動(別名『栗山大膳事件』)」といわれた福岡藩2代当主・黒田忠之との対立により、大膳利章は幕府裁決によって陸奥国の盛岡藩に預りの身となり、同国で没した。
【写真左】忠霊塔参拝道の階段部
 元々郭段を構成していたものだろうが、昭和18年に忠霊塔を建設した際、この付近はこのように改変されている。
【写真左】忠霊塔
 奥に忠霊塔が祀られている。改変されているため、当時の姿ははっきりしないが、外周部から考えて、長径40m×短径15~20m程度規模の中に、2段もしくは3段で郭が構成されていたものとされる。
【写真左】黒田氏時代の石垣・その1
 当時の遺構としてもっとも残存度が高いのが石垣である。

 写真は主郭を主とする南台の北側に残るものだが、これ以外にも北台に数か所点在している。形態は野面積みがほとんどだ。
【写真左】黒田氏時代の石垣・その2
 横から見たもの。
【写真左】東端部から「立留(たちどま)りの景」を見る。
 忠霊塔のある段の東端部には休憩小屋が建っているが、そこから東を見ると、山国川対岸にご覧の大岩が見える。

 「今から200年前に一夜轟然と大音響を発して、巌腹崩落して今日の景をなしたというこの景は、道行く人々が、自然と立ち留まって眺めるので、この名がついたという」

 と書かれている。
 このことから黒田氏時代にはこのような景観ではなかったということになる。
【写真左】郭段
 主郭(忠霊塔)の裏側(西側)を過ぎると、次第に下り坂となるが、その途中の南側には3段の郭が連続する。

 現在はご覧の様な果樹園となっている。

 このあと、このまま西側の道を下り、北台側に向かう。
【写真左】北台
 公園用舗装道路を挟んで北側の丘陵地に当たるところで、東西に伸びる尾根筋には6段の郭を構成し、北、南、及び東側の中段にも細長い帯郭状の小郭が囲繞するように点在している。

 現在はご覧の様な植林地やシイタケ栽培用のほだ木の育成地や墓地などとなっている。

 写真は舗装道路がカーブして下り始めた地点から見たもので、おそらく西側から2番目の郭があった場所と思われる。
【写真左】石垣
 整備された道はないが、急坂でもないため、適当に登っていくと、さっそく石垣が見えた。
【写真左】石垣で構成された土塁
 記憶がはっきりしないが、西端部の郭にあったもので、土塁高さも3m近くあるだろう。
【写真左】横から見たもの。
 大分崩れかけているが、植林された木の根によって保たれているようだ。
【写真左】西から3番目の郭
 この郭の北端部には井戸跡があるらしいが、現状は地面に落ちた枝などが多いため、確認できなかった。

 城主及び重臣たちの屋敷地といわれた箇所で、織豊期の城館遺構を色濃く残している。
【写真左】次の段
 尾根筋に残る郭段の中でもっとも長いのが西から4番目のものだが、東に進むにつれ整備されていないのでこの辺りで断念した。

 なお、この北台(群)の中で一番東の隅には、虎口跡と思われる箇所があり、当時は大手口のラインではなかったかとされるが、現状は藪コギ状態なので踏査していない。

 この他、冒頭の要図でも描かれている西側の区域についても平田城の城域と考えられ、中小の郭(12~13個所)で構成されているが、未調査の部分が大分残されている。
【写真左】平田城遠望
 南東麓側から遠望したもので、麓を横断している農道のような狭い道は、旧日田往還・中津街道である。

 左側の少し高くなった箇所が主郭のあった南台で、その右側に北台がある。

2017年11月26日日曜日

豊前・長岩城(大分県中津市耶馬渓町大字河原口)

豊前・長岩城(ぶぜん・ながいわじょう)

●所在地 大分県中津市耶馬渓町大字川原口
●指定 大分県指定史跡(平成23年3月29日)
●別名 永岩城
●高さ 530.8m(比高200m)
●築城期 建久9年(1198)
●築城者 野仲重房
●城主 野仲氏
●指定 中津市指定史跡
●遺構 石塁・砲座・虎口・竪堀・塹壕等
●登城日 2015年10月11日

◆解説(参考文献 『黒田官兵衛をめぐる65の城』中井均・萩原さちこ・吉田龍司共著タツミムック、諏訪勝則著『黒田官兵衛』中央公論新社等)
【写真左】長岩城の石塁
 当城遺構の特徴の一つで、「原型が完全に遺る石塁」と書かれた標識が設置されている。





 中津城(大分県中津市二ノ丁)の西麓を流れる山国川を遡っていくと、日本三大奇勝の一つ耶馬渓がある。一口に耶馬渓といっても大変に範囲が広く、本耶馬渓・深耶馬渓・裏耶馬渓・奥耶馬渓・椎屋耶馬渓・津民耶馬渓などが点在している。

 このうち津民耶馬渓は、山国川支流の津民川水系にあり、その西側に隣接する峰に豊前・長岩城(以下「長岩城」とする。)が所在する。
【写真左】長岩城跡の図
 現地に設置されているもので、この写真では文字が小さくて読めないかもしれないが、中央の細い渓流(なべもと谷)を挟んで、右に本丸・東之台・西之台があり、左側には今回踏査していないが、陣屋跡・馬場・砲座跡・石積櫓などが配置されている。
 なお、同図は下方向が北を示す。


現地の説明板より

“○耶馬渓町・長岩城址保存会○

 豊前の国の守護職宇都宮信房は弟重房に下毛郡野仲郷を分与した。
重房は姓を野仲と改め建久9年(1198)に長岩城を創築した。以後野仲氏22代、390年間の居城となった。

 この城は高い山や深い谷窪、岩壁等の天険の要害をとり入れ、石塁、砲座、塹壕等にて防備を補強した山城である。20余ヶ所に点在する石塁の長さh、延700m余の長さに達する。戦国時代の山城としては、九州における最大規模のものであり、尚銃眼のある石積櫓は全国に類例を見ない貴重な文化遺跡である。
【写真左】長岩城遠望
 北麓にある入口付近から見たもので、右側の山に本丸があり、谷を隔てた左側の山に陣屋跡などがある。
 




 野仲氏は次第に勢力を拡大し、下毛郡の政治軍事を掌握し、凡そ400年間、下毛郡の統治者として栄えた。全盛時代の所領支配は、宇佐郡、下毛郡の一部まで拡大した。
 その間、元寇の役や、玖珠城の戦い、大友義鎮(宗麟)の来攻等で下毛郡の勇者としての強豪振りを発揮した。

 然し天正16年(1588)には、後藤又兵衛を先陣とする黒田長政の精兵3500騎の大軍に攻められ、迎え撃つ長岩軍は城主野仲兵庫守鎮兼以下一族郎党700余、与力雑兵800余、合せ総勢1500余、難攻不落を誇った堅城に楯籠り勇戦したが、多勢に無勢、遂に落城し、野仲一族は自決滅亡した。以後廃城となる。”
【写真左】専用駐車場
 麓にはご覧のように数台駐車できる場所や便所などが設置されている。近年竣工したようだ。
 保存会の皆さんの熱意が伝わってくる。感謝申し上げたい。

 奥にある「おねがい」板には、
 「急いでも半日はかかります。ましてごゆっくりと御覧になりますと一日は充分にかかると思います。…また非常に危険な場所もかなり御座いますので、危ないと思われたら絶対に行かないで下さい。…」
 と書かれている。
 

野仲氏
 
 長岩城の城主・野仲氏については、すでに城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)の稿でも述べたとおり、宇都宮氏の庶流である。そして、野仲氏からは内尾・友枝・三尾母(みおも)・野依(のより)・犬丸等の分流が輩出した。

 ただ史料上に初めて登場するのは鎌倉時代後半期からで、『野仲文書』によると、南北朝時代に武家方(尊氏)に属して、玖珠城の大友貞順らを攻めたことなどが知られる。この頃は主家であった宇都宮城井氏の頼房時代が勢威を高めたときで、宇都宮庶家として頼房の傘下にあったのが、野仲氏をはじめ山田氏、西郷氏、友枝氏、佐田氏などである。
【写真左】記帳所
 登城口手前には津民川が流れ、橋が架けられている。その手前に記帳所がある。

 遭難することはないと思うが、先ず記帳しておく。



長岩城の落城

 説明板にもあるように長岩城での戦いで最も知られるのは戦国末期である。すなわち、落城することになった天正16年(1588)における黒田長政軍との攻防である。この戦いは、前述した城井ノ上城の戦いと連動するもので、その前年(天正15年)黒田官兵衛や小早川隆景らが、肥後一揆鎮圧に向かったあとである。

 官兵衛らは新しい領地となった豊前国の安定した掌握が、おそらく未だ完遂していないことを多少は自覚はしていたのだろう。しかし、天正15年(1587)9月7日付の秀吉からの書状には、小早川隆景と協力して肥後国一揆の鎮圧を成し遂げるよう命が出されている。当然官兵衛らはこの命に従わざるを得ない。

 官兵衛らが具体的に豊前国を出立し、肥後に向かった時期ははっきりしないが、この年(天正15年)の9月後半から10月上旬と思われる。
【写真左】登城開始
 津民川の橋を渡り、鳥獣防護の柵がある入口から進むと、ご覧のような幟などが出迎えてくれる。
 麓から急峻な地形になっているため、息が上がらない様ゆっくりと足を進める。

 
 城井ノ上城・長岩城など宇都宮一族が一斉蜂起したとの報を官兵衛らが受けたのは、行軍途中の久留米城(福岡県久留米市)に陣を構えていたときである。この急報によって、もはや肥後国鎮圧どころではなくなった。
 
 豊前国の蜂起は宇都宮(城井)一族を中心とするものだが、具体的には当城(長岩城)の野仲氏、犬丸城(中津市犬丸)の城主犬丸清俊、大畑城(同市加来)の城主賀来統直(むねなお)、田丸城(同市福島)の城主福島鎮充(しげみつ)ら地元国人領主たちである。
【写真左】一之城戸
 城戸は虎口の一種だが、長岩城にはこの一之城戸をはじめ、二之城戸、三之城戸と3か所が設けられている。
 概ね扁平な石を積んで塀を設け、敵の侵入を防いでいる。


 戦いの経緯については詳細なものはないが、最初に城井ノ上城が陥れられ、その後本稿の長岩城が落城、次いで犬丸城が攻略されたといわれる。

 なお、官兵衛方には途中から毛利軍(隆景)らの援軍が加わり、残りの大畑城や田丸城を一掃したという。官兵衛の息子長政は緒戦の城井ノ上城による戦いで失態を演じたが、その後の戦いで軍功を挙げ、秀吉から激賞され「御秘蔵之御馬」を送られた(『黒田家文書』)。
【写真左】二之城戸と石塁
 当城の特徴の一つである石塁が見えた。急斜面に崩れることなく丁寧に積み上げられている。
【写真左】三ケ月塹壕
 二之城戸の近くには三ケ月塹壕という遺構が残っている。写真では分かりずらいが、Uの字を逆さまにした竪堀のような構造となっている。
【写真左】なべもと谷の渓流
 登城道は本丸の左側を流れる急斜面の谷に沿って向かうコースになる。途中で2回ほどこの渓流を渡るようになっている。御覧のような場所なので、雨天時やその直後の登城は無理だろう。

 なお、この写真の位置だったと思うが、左側の真上には古城ヶ鼻・馬場跡などが残っている。
【写真左】三之城戸
 最終の城戸で、これを過ぎると谷筋からはなれて本丸側の斜面にコースを変える。

 なお、三之城戸や二之城戸はなべもと谷を挟んで両側に石塁が構築され、挟むように配置されているが、最初に通過した一之城戸はなべもと谷の右側にのみ設置され、虎口は直角に曲がる。
【写真左】本丸直下付近の案内図
 三之城戸を過ぎ、本丸に向かうには、左図のように東之台側から向かうコースと、西之台側から向かう二つのコースがある。
 今回は反時計回り(東之台から)を選ぶ。
【写真左】東之台に向かう道
 西之台に向かう分岐点を過ぎ、小さな谷を越えてしばらくトラバースする。周りには伐採や倒木などが散見され、道は踏み跡で自然にできたような状況だ。
【写真左】古城ヶ鼻側
 周囲は植林された木々に覆われているが、途中で木立の間から反対側の奇岩の山が見える。おそらく古城ヶ鼻があるところだろう。

 このさらに奥に津民耶馬渓があるが、長岩城そのものも地肌は凝灰岩で構成された山塊である。
【写真左】東之台
 本丸の下に所在する郭で、自然地形を利用しながらさらに人工的に盛土されたものだろう。
 なお、ここから左側の方に長い石塁が上に向かって伸びている。
【写真左】石塁・その1
 上方の本丸に向かって伸びる石塁。
 長岩城にはかなりの数の石塁が残るが、その中でも最長のもの。
【写真左】石塁・その2
 場所によって大きさに多少のばらつきはあるが、高さは2m前後、幅は1m弱の規模。
【写真左】石塁と竪堀
 傾斜が緩やかになった本丸近くの虎口付近から下方を撮ったもので、左側には竪堀が並列している。
 このあといよいよ本丸に向かう。
【写真左】本丸平面図
 下段の虎口付近から下に先ほどの石塁が繋がっている。
【写真左】虎口(城門)
 下から伸びた石塁が終点となったところには虎口が待っている。


【写真左】腰郭
 本丸直下の段で、概ね2か所で構成されているが、郭間は連絡されている。
【写真左】本丸
 ほぼ円形に近いもので、奥には礎石がのこることから簡単な建物があったと思われる。
 一角には「長岩城址修復記念之碑」と筆耕された石碑が建立されている。
 多少の凹凸はあるが削平されている。
【写真左】もう一つの腰郭
 登り口側とは別の腰郭で、北側に設置されている。
 なおこの一角にも虎口があり、石垣で構成された犬走りから向かうようになっている。
 このあと下山を兼ねて西之台に向かう。
【写真左】堀切
 西之台方面のルートもかなりの急坂となる下り坂で、度々足をすくわれ尻もちをついた。
 この堀切もそうした個所なので効果は大分あったのだろう。
【写真左】竪堀
 西之台に向かう途中ではこうした石塁に囲まれた竪堀を通ることになる。
【写真左】西之台
 西之台は東之台と大分雰囲気が違うもので、より実践的な遺構が残る。

 狭義的解釈をすれば、東之台側が大手道で、西之台側が搦手道のような位置づけだろうか。
 下からここに向かうまであまり防御的なものがないため、下段に示すようにこの付近には遺構が集約されている。
【写真左】堀切
 上から見たもので、二段(二条)の堀切だろう。
【写真左】物見台
 尾根筋の一画先端部に石塁を構築して下からの侵入を監視するようになっている。
【写真左】もう一つの堀切
 先ほどのものとは別の箇所に設けられているもので、この箇所には相当意を用いている様子がうかがえる。
【写真左】下山
 津民川にかかる「長岩城橋」を渡る。

 なお、このあともう一つの見どころである陣屋跡や砲座跡が残る隣の山にも向いたいところだったが、時間的にも体力的にも限界だったので、残念ながら下山することにした。


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2017年11月22日水曜日

法然寺(福岡県築上郡築上町東八田)

法然寺(ほうねんじ)

●所在地 福岡県築上郡築上町東八田
●開基 天仁元年(1108)
     西願法師:日峯山台蔵寺、天台宗
●中興 永正年間(1504~20)
     行信:含渓山念仏三昧院法然寺、浄土宗
●参拝日 2015年10月11日

◆解説(参考文献 諏訪勝則著『黒田官兵衛』中央公論新社、『黒田官兵衛をめぐる65の城』中井均・萩原さちこ・吉田龍司共著タツミムック等)

 法然寺は以前紹介した築上町の宇留津城から西へ約2キロほど向かった同町東八田に所在する寺院である。
 当院は戦国期秀吉による九州平定後、黒田官兵衛が新たな領地として宛行された際、暫く仮の館として使われたところである。
【写真左】法然寺
 左側に墓地があり、その奥に本堂が建立されている。

 なお、当院から凡そ600m程南に行くと城井川が流れ、この川を遡っていくと以前紹介した宇都宮氏(城井氏)の居城・城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)に繋がる。



 現地の説明板より

「法然寺黒田孝高について 

 天正15年(1587)豊臣秀吉によって九州は平定されたが、黒田孝高は論功行賞により豊前六郡領主に任ぜられた。孝高は同年7月より8月の間、法然寺を仮の館とした。”
【写真左】本堂













官兵衛豊前六郡の領有

 馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)の稿でも紹介しているように、秀吉による九州征伐が終わった後、官兵衛は豊前国を中心とした6郡を秀吉の宛行によって領有することになった。そしてこれらの地域を治めるため、馬ヶ岳城に入った。

 その後、馬ヶ岳城には嫡男長政に託し、官兵衛は当城より東方9キロ隔てた周防灘に近い法然寺を拠点とした。天正15年(1587)7月3日、官兵衛42歳のときである。
 この時の禄高は12万石といわれ、それまでの播磨における石高の2倍以上とされている。当然領地の積算根拠となるものが必要で、同時期に官兵衛は新領地内において検地を行っている。

 こうした作業をするためには、領内の西方にあった馬ヶ岳城より中心地に近く、さらに平坦地であったこの法然寺の方がやりやすかった点もあるのだろう。もっとも、当院にあったのは2か月ほどで、この直後佐々成政に与えられた肥後国において、一揆が勃発(隈本城(熊本県熊本市中央区古城町古城堀公園)参照)したためその鎮圧に当たることになるので、腰を落ち着けるような状態ではなかったと思われる。
【写真左】墓地・その1
 当院累代住職の墓の脇には宝篋印塔や五輪塔などが建立されている。長野氏もしくは官兵衛たちに関わる武将のものだろうか。



行信 

 ところで、法然寺を訪れた理由は、官兵衛が当院を仮の館としていたことからのものだったが、驚いたことに、法然寺を再興した僧・行信は、前稿でとりあげた豊前・長野城の城主長野氏の嫡孫のようだ。

現地の説明板より

“法然寺

 鳥羽天皇の御宇天仁元年(1108)西願法師の開基で、当時天台宗、日峯(にっぽう)山台蔵寺(だいぞうじ)と称した。永正年間(1504~20)に僧行信が入山し、荒廃した寺院を再興、含渓(がんけい)山念仏三昧院法然寺と改め、浄土宗となった。

 行信の祖父は、企救郡長野城主長野豊前守助氏で、その二子は早く仏門に入り、行念と称し、護念寺を開いた。行念の二子が行信である。

 行信は比叡山で修行後、法然寺を再興、晩年即身成仏の願により、地下に土倉をつくり、信者の嘆きの声を後に入定にはいった。七日七夜カネと読経の声が聞こえた。その音が絶えたのは12月5日であった。此の日を「行信忌」として、行信の仏徳を讃え、今日までおまつりは続けられている。後入定を記念して松が植えられ大木となったが枯死した。

  築城町
  築城町教育委員会“

【写真左】墓地・その2












 説明板の中で下線で示した護念寺とは、豊前・長野城の北麓に建立されている寺院で、管理人は参拝していないが、長野氏の菩提寺とされ、行念は護念寺の中興の祖といわれている。

 盛時は企救郡内をはじめ、京都郡・仲津郡・築城郡に数多くの末寺を持ったという。おそらく法然寺も護念寺の末寺の一つだったのかもしれない。
【写真左】墓地・その3



【写真左】周辺部・その1
 この辺りは標高15m前後で平坦地が多い。雨量が少ないためだろうか、溜め池が数多く点在している。
 法然寺の隣にも大きな溜池がある。
【写真左】周辺部・その2