2018年12月27日木曜日

播磨・谷城(兵庫県神崎郡市川町谷)

播磨・谷城(はりま・たにじょう)

●所在地 兵庫県神崎郡市川町谷
●別名 永良城・残要の城
●高さ 206m(100m)
●築城期 室町初期
●築城者 永良則綱
●城主 永良氏・赤松一族等
●廃城年 永禄年間(1558~70)
●遺構 郭・土塁・石垣・堀切・竪堀等
●登城日 2018年11月27日

◆解説
 前稿の鶴居城(兵庫県市神崎郡市川町鶴居) でも紹介したように、谷城は鶴居城の南方2キロの谷地区に築かれた城郭である。
【写真左】谷城遠望
東側から見たもので、谷城は北西から伸びてきた尾根の先端部に築かれている。





現地の説明版より
史跡 谷城(永良城)

 谷城は、標高206mの古城山山頂にあり、東西20m・南北40mの本郭跡と、その北側に一段低く16m×18mの平坦地がある。これをとりまいて、いくつもの平坦地が段違いにあり、土塁や石垣も見られる。北と南の尾根筋や東西の急斜面には何本もの堀切があり、中世山城の複雑な縄張りが良く残されている。

 城は室町時代、赤松則村(円心)の孫、永良則綱が明徳年間(1390~94)に、永良庄を支配して居城としたのが最初とされる。その後赤松氏の北に対する守りの要地とされ、「残要の城」とも呼ばれたが、永禄のころ(1558~70)戦火により消失、廃城となった。

 城跡より北方の横倉山観音堂へは、尾根伝いに古道があり、遊歩道として整備されている。
        谷区・市川町教育委員会❞


【写真左】イラストマップと縄張図
 登城口となる南麓の大歳神社境内に設置されているもので、文字が少し薄くなっているが、右側の縄張図に、主郭(本郭)が明記され、周囲には堀切、井戸などがある。


鶴居城の支城か

 鶴居城の稿でも紹介したように、谷城は鶴居城の南方指呼の間に配置された城郭である。谷城の歴史・概要も鶴居城とほぼ同じもので、このことから谷城は鶴居城の支城としての役割を担っていたものと思われ、同じく市川を挟んで東岸に築城された飯盛山城(次稿で予定)と同じ役目を持っていたものと思われる。すなわち、これら二つの支城が南方からの侵攻に対する防御として配置されたものと思われる。

 ところで、谷城で特筆される点は、残存する遺構が極めて明瞭に残っていることである。規模は小規模な部類に入るかもしれないが、コンパクトにまとまっており、典型的な連郭式山城といえる。
【写真左】大歳神社
 登城口は大歳神社境内にある参道及び、その左側の坂道の二つがあり、まずは神社本殿を目指す。
 なお、駐車場はこの境内の隅に置いた。祭事などがない限り、置けるようだ。
【写真左】大歳神社拝殿
 当社縁起についての説明板のようなものがないため、分からないが、大歳神社は主に西日本に鎮座する傾向が多く、年神を祀る神社で、ひょっとして谷城が築城される前から所在していたかもしれない。
【写真左】「永良」姓が刻銘された玉垣
 周囲には玉垣が配置されているが、氏子芳名の中には、谷城の築城者であった永良氏と同姓のものが数点見られる。
【写真左】奥宮の前
大歳神社の脇を通っていくと、柵があり、これを開けて坂道を登って行くと、再び鳥居が出てくる。

 その前には小さな土俵がある。この階段の参道を上がると、再び小さな社が祀られている。おそらく大歳神社の奥宮だろう。この土俵も祭事の際、奉納相撲のための土俵かもしれない。
【写真左】「谷城までには290m」の標識
 上掲した奥宮付近の土俵なども郭であった可能性もあるが、ここから290m進むと谷城の城域にたどり着く。
【写真左】最初の郭
登城道は尾根の左側(西側)に伸びているが、最初に右側に見えた郭。
 写真の左上にも連続した郭段があるようだが、樹木などがあるため判然としない。
【写真左】見取り図
上段で紹介している縄張図とは別に主郭位置に設置されていたもので、彩色・文字がかすれていたため管理によって修正を加えている。
【写真左】主郭の西側にたどり着く
 西側斜面の登城道を登って行くと、犬走のような帯郭が出てくるが、ここでいったん東側へ向きを変え、主郭を目指す。
【写真左】主郭虎口
東に回り込み、数段の郭を進むと、主郭の虎口が見える。
 主郭の南尾根筋には2段の郭があり、その西側には帯郭が囲繞している(下の写真参照)。
【写真左】帯郭
 手前の郭とほぼ同じ高さに続くもので、この先にも細い犬走のような遺構が伸びている。
【写真左】主郭・その1
南側の虎口付近には説明板が設置されている。
【写真左】主郭・その2
北端部から振り返ってみたもので、およそ長径30m×短径20mの規模。
 奇麗に削平されている。
【写真左】二郭
主郭から北に向かうと一段下がった郭がある。
 二郭といわれているところで、主郭に比べて幅はだいぶ狭くなっている。
【写真左】帯郭
 ニ郭の左下に降りると、手前から伸びてきた犬走とつながる長い郭がある。
 先ずニ郭から降りてみる。
【写真左】土塁
 帯郭の一角に残るもので、だいぶ劣化したためか、50㎝程度の高さしかない。当時はもう少し高かったものと思われる。
 この後さらに先に進む。
【写真左】三郭
 城域の北端部にある郭で、さらに細長い。長径20m前後。なお、この先の右側を降りると竪堀があるようだが、当日はそこまで向かっていない。
【写真左】三郭虎口付近から下へ
 ここから下に降りて、さらに尾根伝いに上を目指すと「出丸」があるようだが、この日は時間もないため、ここから犬走を伝って下山する。
 なお、ここから下に向かうと井戸跡も残されている。

 また、「出丸」に向かう道から先に、池大師堂、横倉山観音堂などが祀られ、さらに奥に進むと、峠があり、一旦麓に降りて行くと、鶴居城に繋がる。
【写真左】飯盛山城遠望
谷城からは市川を挟んで対岸に飯盛山城が確認できる。

 当城については次稿で取り上げる予定だが、谷城と同じく鶴居城の支城として築城されたといわれる


永良庄宝崋山護聖禅寺の梵鐘

 谷城の東麓には、南北朝期、宝崋山護聖禅寺という禅寺があった。現在、当院の法灯を受け継いでいるというのが、近くにある護生寺だが、永和2年(1376)当院のために梵鐘が鋳造された。
【写真左】三勝寺と比熊山城
所在地:広島県三次市三次町1157
撮影日:2018年12月1日

 三勝寺は現在浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来。
 写真後方に見える山は、比熊山城
 なお、この日御住職は御不在のようで、梵鐘を拝見することはできなかった。因みに、この梵鐘は、県の重要文化財(昭和29年4月23日指定)で、高さ87.5㎝、口径49.5㎝のもの。



 その後、この梵鐘は長享元年(1487)、周防国(山口県)の大内政弘(鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇) 参照)によって、周防大島の三蒲本庄の志駄岸(しだぎし)八幡宮へ寄進された。
【写真左】志駄岸八幡宮
所在地:山口県大島郡周防大島町大字小松701 番地

参拝日 2019年4月12日
 
 縁起によれば、772年、周防国の鎮守として屋代の徳珍に宇佐八幡宮を勧請して建てられたが、洪水で流失し、1282年現在地の小松山に再建され、志駄岸八幡宮と称された。
 
 その後の経緯は不明だが、戦国時代に至って、比熊山城(広島県三次市三次町上里) 主・三吉氏が城内で使用し、江戸時代になると、三次浅野藩初代藩主・浅野長治が地元三次市の三勝寺に寄進したといわれている。

2018年12月3日月曜日

鶴居城(兵庫県神崎郡市川町鶴居)

鶴居城(つるいじょう)

●所在地 兵庫県神崎郡市川町鶴居
●別名 稲荷山城、永良山城、残要の城
●高さ H:433m(300m)
●築城期 南北朝後半期
●築城者 永良三郎則綱(赤松円心孫)
●城主 赤松氏、山名氏、広瀬近江守雅親
●遺構 郭・堀切・竪堀・石垣等
●登城日 2016年4月9日

解説(参考資料 『しそうSNS』等)
 鶴居城が所在する市川町は兵庫県の中央部にあって、地名と同名の二級河川・市川が北から南に下り、播磨灘に注ぐ。市川と並行して走るのが但馬街道(生野街道)で、ほぼ同じコースをJR播但線が通り、さらに現在は播但連絡道路という高規格道路が同じく併設され、中国自動車道と山陽自動車道を繋ぐ。
 鶴居城はこの市川町にあるJR鶴居駅から北西におよそ2キロほど向かった稲荷山に築かれている。

【写真左】鶴居城遠望
 西側から見たもので、こちら側から見ると独立した山容に見えるが、実際には北西側から延びる尾根の先端部に築かれている。


現地の説明版より

❝稲荷山城

 稲荷山城は標高433m稲荷山山頂にあり、東西14m、 南北31m、周囲約85m。その北側・南側にはいくつもの平坦地、石積跡・土留めなども見られます。古老の話では井戸もあったそうです。
 城は南北朝後半、赤松則村(円心)の孫・永良三郎則綱がここに城を築き居城としたのが始まりで、その子・孫と受け継ぎ播磨の北の要地とされていました。
【写真左】麓にある案内版
 登城道は「南コース」と「北コース」の二つがあるが、距離は少し長くなるが、「北コース」が負担が少ないため、こちらを選んだ。


 赤松氏は嘉吉の乱(1441年)のあと、但馬の山名持豊の兵4500騎に生野峠から攻め込まれ、大山口・田原の戦いに敗れ、長久2年(1488)赤松政則が播磨をとりかえすまでの45年の間、山名氏の支配のもとにおかれました。
 その後、赤松政則は応仁の乱に失地を回復し、守護となったので稲荷山城も復興し、広瀬近江守雅親が城主となり、谷城主も兼ねていましたが、永禄3年(1560)討死したといわれています。
 同じく谷城は、永禄のころ(1558~1570)戦火により消失廃城とあり、両城とも同じ運命を辿ったと考えらえれます。
      鶴居歴史研究会❞
【写真左】登城口の門
 登城口には「鶴居城山城址の会 平成21年度里山ふれあい森づくり(住民参画型)」と書かれた門が設置されている。
 なお、この市川付近も含めた但馬街道は生野銀山を起点とした「銀の馬車道」でもあり、そのイラストも添えてある。




永良三郎則綱

 鶴居城の築城者は赤松則村の孫・永良三郎則綱といわれる。赤松 則村、すなわち赤松円心についてはすでに白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)などで度々とり上げているので詳細は省くが、赤松氏4代当主で、もともと六波羅探題の家臣であったとされ、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕時には逆に反幕府方として活躍し、その功によって播磨守護となり、建武の新政後は足利尊氏に与した。
【写真左】このあたりから郭段が見え始める。
 登城道は前半緩い坂道で、後半から九十九折れとなり、次第に傾斜がついてくる。写真は頂上までおよそ300mとなったあたりの場所。


 さて、鶴居城の築城者である永良三郎則綱だが、円心の孫であることから、その父は円心の子となる。これまで円心の子としては、次の面々が知られる。
  1. 長男・範資(のりすけ) 5代当主 摂津国・播磨国守護
  2. 次男・貞範(さだのり)       美作国守護
  3. 三男・則祐(のりすけ) 6代当主 室町幕府禅律方、播磨国・備前国・摂津国守護
  4. 四男・氏範(うじのり) 上記3人の兄弟とは不仲で、南朝方に与し、播磨清水寺にて自害。(下段の写真参照)
【写真右】赤松氏範の墓
所在地 兵庫県加東市平木 播州清水寺
赤松氏範弾正少弼 法名 本光院荘覺道成
永徳3年9月(南朝弘和3年)(1386年)
参拝日 2015年10月17日

 墓所入口付近には昭和6年9月2日に建立された石碑があり、「南朝忠臣赤松氏範父子並一族憤死…」と筆耕されている。


 このうち長男範資には、8人の子があり、則綱は八男になる。因みに範資の他の子としては、三男・師頼が在田氏(播磨・河内城(兵庫県加西市河内町西谷) の祖となり、五男・範隆が葉山氏の祖となり、摂津国戸賀庄の地頭となった。また、七男・則広は佐用郡広岡郷に入り、広岡氏の祖となった。

 則綱は民部大輔を称し、当時永良庄といわれた市川町に入り、永良氏を名乗った。則綱の孫・泰秀は、次稿に予定している鶴居城から南へ2キロほど下った谷地区に谷城を築いたといわれる。また泰秀は、併せて当城(鶴居城)を拾一城(豊池城)に移すが、こののちも鶴居城に城代を置いていた。
【写真左】本丸が見えてきた。
 途中から尾根筋にたどり着くが、そこから中小の細長い郭段が続く。






広瀬近江守雅親

 さて、上掲した説明板では永禄3年、鶴居城の城主で谷城主も兼ねていた広瀬近江守雅親が討死したとある。そして谷城も永禄年間(1558~1570)に落城したとされている。

 この広瀬氏は赤松氏の一族で、5代当主・範資の四男師頼を始祖とする。範資の跡を継いだ6代当主は三男則祐であるが、則祐が播磨守護となったとき、宍粟郡周辺を任せるため、兄範資の四男師頼を長水城の城主に任じ、広瀬氏を名乗った。
【写真左】南北登城道の合流点
 反対側のコース(南)の整備状況は分からないが、当時は大手道だった可能性がある。




 広瀬氏はその後の継嗣で赤松惣領家から養嗣子則親を迎え、満親と繋いだ。しかし、この滿親の代に赤松宗家であった満祐が京都で将軍足利義政を殺害、世にいう「嘉吉の乱」(嘉吉元年:1441年6月24日)が勃発した。この乱において、幕府軍からの討伐を受けた赤松満祐は同年9月10日、播磨木山城にて自害、長水城城主であった広瀬氏も没落したといわれている。
【写真左】郭段
 先ほどの合流点から次第に明瞭な郭段が出てくる。
 写真のものは少し土塁のような遺構を残している。



 しかし、今稿でとりあげた永禄年間における鶴居城の城主が、広瀬近江守雅親と記録されていることから、嘉吉の乱時に没落していた広瀬氏が潜伏後、戦国期に至って、西播磨から中播磨の神崎郡に移っていったことが推察される。

 なお、嘉吉の乱後は宇野氏が代わって長水城を本拠としている(長水城についてはいずれ別稿で取り上げたい)。
【写真左】石積・その1
 写真奥には、連続する郭段の切岸部に石積の一部が見える。









赤松晴政(政村)

 ところで、永正17年(1520)から永禄年間ごろ(~1565)までの赤松氏当主は、第11代の晴政である。晴政については、(塩田城(兵庫県宍粟市山崎町塩田)の稿でも述べたが、 彼の父義村は美作の守護代であった浦上村宗(三石城(岡山県備前市三石)参照) との抗争に敗れ、晴政はわずか8歳のとき、家督を継いだ。
 晴政はこのため一時的に浦上氏と和睦を結ぶが、これは依然として但馬をはじめ播磨の北部を窺う山名氏の脅威があったためである。しかし、山名氏の勢力が衰えると再び浦上氏と争った。
【写真左】石積・その2
 さきほどの石積より明瞭に残っているもので、主郭直近に残るもの。
 この後いよいよ主郭が姿を現す。



 享禄4年(1531)、管領細川高国は細川晴元を攻めるため、浦上村宗を摂津国に侵攻させた。この時、晴政は村宗の後詰めとして参戦している。しかしこれは晴政による表向きの態度で、裏では晴元と画策を図り、高国及び村宗を挟み撃ちにし、村宗を戦死させ、その後高国も自害に追い込んだ(播磨・小谷城(兵庫県加西市北条町小谷字城山)参照)。
【写真右】浦上村宗の墓
所在地 岡山県備前市木谷
村宗は享禄4年(1531)6月4日、摂津天王寺で戦死。その後嫡子政宗等が遺体を収めて帰国し、当地木谷に葬ったといわれている。
参拝日 2018年9月19日


 
 ところで、出雲の尼子氏が播磨国に関わりを持ち出すきっかけとなったのが、大永7年(1527)京都桂川で柳本賢治・三好元長らに敗れ、越前の朝倉氏などを頼り、享禄2年(1529)9月16日に越前から出雲国に入った細川高国による支援要請からである。
【写真左】本丸・その1
 南北に延びる尾根頂部に楕円形の削平地を持つもので、眺望はすこぶる良い。




 天文6年(1537)12月14日、尼子晴久(詮久)は大軍を率いて播磨国に入った。 その後の動きについては少し端折るが、天文21年(1552)尼子晴久は、因幡・伯耆・備前・備中・備後・美作の守護職に補任される。これにより、それまで備前・美作守護職であった晴政は2国を失った。

 こののち、赤松氏の凋落ぶりは雪崩を打ったように落ちていくことになる。特に永禄元年(1558)8月に起こった重臣・小寺政職(まさもと)(塩田城(兵庫県宍粟市山崎町塩田)参照) による晴政嫡男の義祐を担いだ奇襲により追放されると、晴政は娘婿の赤松政秀のもとにに逃れた。文字通り赤松家の分裂である。

 鶴居城における広瀬雅親の討死及び、その支城とされる谷城もこのころ落城しているが、これらも赤松惣領家分裂に端を発し、さらに別所氏(三木城(兵庫県三木市上の丸)参照)などが攻略したことも起因に挙げられるだろう。
【写真左】本丸・その2
地元の団体「鶴居城山城址の会」によって設置された看板。
【写真左】本丸・その3 北端部に当たる箇所。
【写真左】本丸北の郭
 最高所の本丸から北に少し下がると郭が残る。さらにその先に向かう。
【写真左】堀切
 少し進むと堀切がある。またこの尾根筋には二条程度の竪堀も付随している。


【写真左】本丸から谷城及び飯盛山城を俯瞰する。
 本丸からは南に、谷城、市川を挟んで西岸には飯盛山城が見える。両城とも鶴居城の支城といわれ、次稿で紹介する予定である。
【写真左】下山後再び遠望する



2018年11月20日火曜日

安芸・日野原城(広島県安芸高田市美土里町本郷)

安芸・日野原城(あき・ひのはらじょう)

●所在地 広島県安芸高田市美土里町本郷
●別名 高城・高の山城
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 日野氏、高橋氏か
●高さ H:528m(190m)
●遺構 郭・堀切・竪堀
●登城日 2016年3月25日

◆解説(参考文献 『安芸高田お城拝見~山城60ベストガイド~』安芸高田市歴史民俗博物館編

 安芸・日野原城(以下「日野原城」とする。)は、安芸高田市に所在する山城で、以前取り上げた安芸・松尾城(広島県安芸高田市美土里町横田)から西におよそ3キロほど向かった位置に築かれた。
【写真左】日野原城遠望
 東麓を走る吉田邑南線(県道6号線)から見たもの。








 上記に示した吉田邑南線はおそらく戦国期にすでに開かれていた街道と思われ、起点は毛利元就の居城・吉田郡山城 から石見の二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺) までを結ぶ道で、街道筋には多治比・猿掛城(広島県安芸高田市吉田町多治比) や、冒頭の安芸・松尾城及び、生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)などが配置している。

築城者と城主

 日本城郭体系では城主として進藤杢之充の名がみえるが、ただ所在地が同町木村となっているので、城名は同一ながらはっきりしない。また、地元の伝説では南北朝時代に南朝方であった日野氏が当城に籠ったが落城したといわれてる。

 最近発刊された非常に読みやすい著書『安芸高田お城拝見』(安芸高田市歴史民俗博物館編)でも指摘されているように、戦国期には高橋氏の勢力圏でもあり、同氏一族の居城としても使用された可能性が高い。
【写真左】主郭下の駐車場

 当城に向かうには、電波塔などの施設点検のための道路が設置されているので、これを使う。

 東から南にかけて走る道路(金屋壬生線)の途中から当城に向かう道があるが、目立った標識もないため、カーナビを頼りに向かう。

 写真は主郭と思われる南側の下にアスファルトで整地された駐車場。おそらく当時の二の丸付近と思われる。



遺構

 添付写真にもあるように、現在主郭を中心とした区域には電波塔などの施設が建設され、このため大幅な改変がなされている。
 特に平成22年に地デジ用の電波塔が建設された際に発掘調査などが行われたが、すでに明確な遺構を確認することはできなかったとされている。

 ただ、主郭から北西に下る尾根筋には2本の堀切、また現在駐車場となっている南側の尾根には竪堀が残されているようだ。
【写真左】主郭の西側斜面
 この斜面も、もとは郭段などがあったものと思われるが、施設設置工事のためなくなったかもしれない。


【写真左】竪堀

 あまり明瞭でないが、駐車場の東斜面には2~3本の竪堀が確認できる。


【写真左】主郭に向かう
 駐車場から主郭まではおよそ10mほどの高低差がある。

 現在は管理用に階段が設置されていて登りやすくなっている。
【写真左】主郭から駐車場を見下ろす。
 南方を望む角度になるが、駐車場との高低差は思った以上に高く感じる。
【写真左】主郭
 御覧のように鉄塔を設置するため表面は相当重機などで均されている。

 主郭部分の遺構はまったく消滅していると思われるが、大きさは当時と同じ程度であったと思われる。
【写真左】三角点
頂部528.3mの高さになる。なお、このピークとは別に、西へ200mほど向かった位置にもほぼ同じ高さのピークがあるが、こちらには城郭遺構があるのか不明。

 また、当城から南東方向450mへ向かっの尾根筋には、松笠城といわれる城郭があり、ふもとの街道(金屋壬生線))を見下ろす位置に築かれていることから、日野原城の出丸(前城)であった可能性もある。
【写真左】主郭北の郭
 主郭を取り巻く郭群は腰郭の形態として東・北・西の各方向に4,5か所確認できる。ただ、現状は雑木が繁茂していて明瞭ではない。
【写真左】主郭西の郭
 奥のほうの尾根を北西に進むと二条の堀切があるということだが、当日は断念した。
【写真左】竪堀か
 だいぶ埋まっていたため断定できないが、駐車場の東斜面に見える。
【写真左】南東麓を俯瞰する。
 日野原城の南東麓には神楽で有名な神楽門前湯治村が建っている。

 その湯治村の背後にも丹蔵城という城郭があることが確認されているが、街道の分岐点となるので、日野原城と何らかのかかわりがあったものと思われる。
【写真左】主郭を横から見る。
 下山前にもう一度振り返る。