2016年6月20日月曜日

筑前・白山城(福岡県宗像市山田)

筑前・白山城(ちくぜん・はくさんじょう)

●所在地 福岡県宗像市山田
●高さ 標高319m(比高260m)
●築城期 寿永元年~元歴元年(1182~84)
●築城者 宗像大宮司氏国
●城主 宗像氏
●遺構 郭・畝状竪堀・堀切・水穴等
●登城日 2015年1月11日

◆解説(参考文献「肥後国衆一揆」荒木栄司著 熊本出版文化会館等)
 前稿筑前・岡城(福岡県遠賀郡岡垣町吉木字矢口)から、南下し高倉から野間須恵線(県道291号線)を西に向かうと、岡垣町(遠賀郡)と宗像市との境地蔵峠に至る。ここから一気に下っていくと、右手に長い稜線を持つ山が見えてくる。この山の西端頂部が筑前・白山城(以下「白山城」とする)である。
【写真左】白山城遠望
 南側から見たもので、麓には後段で紹介する山田地蔵尊増福禅院が建立されている。






現地説明板

“白山城の歴史

1182~1184(鎌倉時代)
 第36代宗像大宮司氏国築城、約380年間宗像家の本城としての役割をはたす。
 城跡には本丸、曲輪、竪堀跡が現存している。
 特に山の井と称し、岩盤を刳(えぐ)り貫いた井戸が残っており、これは全国にも例を見ない貴重な遺物である。
【写真左】白山城縄張図
 概要は、頂部に本丸と二の丸を東西に配置し、北側に二段の郭を付随させ、その周囲には「棚状竪堀」が囲繞されている。

 また、二の丸から北東部の尾根筋を隔てた箇所には出丸が配されている。


1335(室町時代※ママ
 足利尊氏、関東で天皇に叛き反乱を起こす。
1336(2月)
 京都の合戦で敗れ、九州に落ち延びてきた尊氏を白山城に迎え入れる(宗像軍記)
1336(3月)
 宗像大宮司家は尊氏主従に軍備を整えさせて援護し、香椎の多々良浜で、熊本の菊池軍を奇跡的に破り勢いを盛り返した尊氏が室町幕府を開く。
【写真左】周辺案内図
 麓の山田地蔵尊から更に南には後段で紹介する「旧御殿河原山」が描かれている。



1551(9月12日)(安土・桃山時代)
 黒川鍋寿丸(宗像氏貞)白山城に入る。
 在城12年間(最後の宗像大宮司)

1554(3月23日)
 白山城下の山田の御殿に於いて宗像家の御家騒動に因る大惨劇が演じられる。

1560
 氏貞鳶ヶ岳城を再築し宗像家の本城とする。

 増福院は宗像大宮司家の神護寺として古くから建立されていた。最後の大宮司氏貞の時代、御家騒動の犠牲になられた人々の怨霊を鎮めがために、六地蔵を刻み、田地を寄進して霊を祀ってあるのが、山田地蔵様(増福院)で、宗像家とは特に縁の深いお寺である。またお寺の裏山には尊氏が座禅をしたといわれる岩場がある。

    宗像市史より
      贈 白山城址を守る会”
【写真左】登城口
 登城口は増福院の左(西側)にあり、ここから頂上(本丸)まで約790mの距離になる。






宗像大宮司

 福岡県宗像市に所在する官幣大社宗像大社は、玄界灘に浮かぶ大島の「中津宮」と、沖ノ島の「沖津宮」並びに、九州本土の田島にある「辺津宮」の三社の総称である。そして当社の大宮司職を代々務めたのが、宗像大宮司家の宗像氏である。初代は延喜14年(914)から務めた清氏とされているが、実在の人物であったかははっきりしない。
【写真左】宗像大社(辺津宮)
所在地 福岡県宗像市田島2331
2007年4月参拝



 その後鎌倉期に至ると、36代氏国は「辺津宮」から東に5キロほど向かった山田の白山に城を築いた。鎌倉幕府が開かれた当時、筑前並びに豊後・肥前の守護職が少弐氏であったことから、宗像大宮司家は少弐氏の庇護を受けていたものと思われる。
【写真左】堀切
 登城道は尾根の稜線を基軸としており、直登の箇所が多く、少し息が切れるときもあったが、道は整備されている。
 写真は途中に見えた堀切。大分埋まっている。


尊氏、鎮西

 説明板にもあるように、足利尊氏が京都の合戦で敗れ、九州に奔ったのは延元元年・建武3年(1336)の1月から2月にかけてのことである。尊氏を京都から放逐した最大の功労者は、以前にも紹介したように南朝方の北畠親房の息子・顕家(北畠氏館跡・庭園(三重県津市美杉町下多気字上村)参照)である。
【写真左】旧御殿河原山を俯瞰する。
 登城途中の標高200mの地点で視界が開ける箇所があるが、そこから後段で紹介する「旧御殿河原山」が見える。



 尊氏は九州に下る際、後醍醐天皇側からの追討を防ぐため、海路であった瀬戸内周辺部に一族の配備と、地元有力豪族を味方に引入れている。四国では細川(和氏)、播磨には赤松円心(則村)、備前には石橋(足利一門)氏、備後に今川氏、安芸に桃井氏・小早川氏、周防には大嶋氏・大内氏、長門は斯波氏・厚東氏などである。

 こうした手筈を整えた上での九州上陸であったが、しかし九州では菊池氏や阿蘇氏といった後醍醐派の勢力が強く、尊氏は少弐氏や宗像氏といった僅かな味方を頼りに、筑前の地に足を踏み入れた。
【写真左】竪堀
 登城道のほぼ中間地点から次第に傾斜がきつくなるが、その始点から上に向かってかなり長い(40m前後か)竪堀が構築されている。
 登城道はこの竪堀と並行してほぼ直登のため、ロープが設置してある。
【写真左】土塁
 竪堀の終点部から中小の郭が4ヵ所上に向かって配置されている。
 写真はそのうち最下段の郭先端部に残る土塁。





多々良浜の戦い

 多々良浜とは現在の福岡市東区多の津付近で、福岡流通センターがその中央部に建っている。
 この年(延元元年)3月2日、尊氏は弟の直義をはじめ、地元少弐氏・宗像氏らと、後醍醐派の菊池武敏・阿蘇惟直軍を相手に多々良浜で激突した。
【写真左】多々良浜方面を俯瞰する。
 2008年に立花山城に登城したとき、本丸側から博多湾方面を撮影したもの。
 当時多々良浜と呼ばれていた箇所は、写真の中央右側のところに注ぐ多々良川付近で、浜(川)を挟んで、尊氏軍と菊池軍(後醍醐派)が対峙した。


 「太平記」によれば、尊氏軍は僅か300余騎で、対する菊池軍は3万と伝えているが、実際には尊氏軍は2,000余騎、で菊池軍は2万といわれている。この戦力を比較すれば、尊氏軍は菊池軍の10分の1の戦力であり、とても尊氏にとって勝ち目があるものではなく、説明板にもあるように「奇跡的」な勝利であったことになる。
【写真左】2段目の郭
 本丸に至る前の郭段のうち、2段目のもの。いずれも尾根筋を加工したもので、3段目の郭が一番規模が大きい。




 何故このような結果となったのか。それは菊池軍が多々良浜の戦いの前まで、宝満山(有智山)の戦いなど連戦に次ぐ連戦であったことから、菊池軍に疲れが見え始め、さらには緒戦で不利になると、脱落者や尊氏軍に寝返りする者が出たためである。
【写真左】3段目の郭
 ここから東側に回り込んで行くと、「水穴」というものがあり、江戸末期地元の猟師が発見したということが書かれた「山ノ井兎狩り」という説明板が掲示されている。

 これによると、「…中は人の長さ程の高さにて左右の巾も5.6尺、入りて11間余りの人工穴なるに、いずれの頃より狸がすめり…」とし、「是は宗像大宮司在城の時の水なりと覚ゆ…」としている。

 「水穴」に向かおうとしたが、時間がなかったため管理人は確認していない。


宗像氏嫡流大宮司断絶

 最後の宗像大宮司となったのは、第80代の氏貞である。およそ650年近くも続いた宗像氏嫡流大宮司は、戦国時代の天文年間に至って、激動の時期を迎えることになる。

 宗像氏はこのころ山口の大内氏の家臣となって筑前を治めていた。しかし、天文20年(1551)9月1日、大内義隆は陶晴賢の謀反によって長門の大寧寺に自害(大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)参照)、このとき79代氏男は主君義隆を守るため奮戦した。そして、義隆自害を見届けたあと殉死してしまった。
【写真左】本丸・その1
 長径36×短径21mの方形郭で、東西に軸をとる。  
本丸跡に設置された説明板より

“白山城本丸跡
  1182~1184(鎌倉時代)
  36代宗像大宮司氏国築城
  約400年間宗像家の本城とする

 此の時代の山城は天守閣等は無く砦の様な物で櫓の上から眺望できる質素な城郭で有ったと云われています。

 1336年2月
 室町幕府を開いた足利尊氏は、九州に落ち延びて来た時此の城で軍議を開き、熊本の菊池軍との戦いに勝ち、宗像家を先陣に立て中央に反攻して行ったと伝えられています。
 最後の大宮司氏貞も7歳から12年間在城し、その後蔦ヶ岳へ移っています。
     宗像史誌より
        白山城址を守る会”


 これをきっかけに宗像氏の家督騒動が勃発する。幼名鍋寿丸を名乗っていた氏貞と、氏貞の弟(千代松)を推す両派が対立、氏貞側は白山城に、千代松側は蔦ヶ岳城にそれぞれ立て籠もり争った。義隆を倒した陶晴賢が氏貞を支援したため、千代松側は敗れ、天文21年(1552)氏貞が宗像大宮司に補任(80代)された。なお、このころ宗像氏一族の間では「山田事件」という家督争いに絡んだ凄惨な事件が起きている(後段参照)。
【写真左】本丸・その2
 写真は北側附近で、この下には2段の腰郭が付随し、さらにその周囲には棚状(畝状)竪堀群がある。




 その後、大内氏の滅亡、毛利氏による厳島での戦いで陶晴賢が亡くなると、氏貞は大友氏に属し、毛利氏が九州に上陸してくると、大友氏から離反し毛利氏に属した。この間宗像一族内での内紛などがあり、混迷を極めていく。この状況は宗像氏の筑前はもとより、筑後・豊前・肥後国などの諸族でも同じような混乱が生じていた。
【写真左】本丸から東南方向を俯瞰する。
 この方角には、後に氏貞が白山城から移ったとされる岳山城(蔦山城)がある。
 






 詳細は今稿では省くが、氏貞の後半期は立花道雪(筑前・岩屋城・その1(福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋)参照)との対立がもっとも大きな出来事となり、天正13年(1585)道雪が亡くなった翌年、秀吉による九州征伐の前に亡くなった。これにより宗像氏は嗣子が絶え、長らく続いた同氏大宮司職は断絶した。
【写真左】二の丸
 長径32m×短径20mの規模で、本丸の東側に1m程度の段差を持たせて隣接する。
【写真左】出丸
 二の丸から更に北東に伸びる尾根を進むと出丸がある。本丸・二の丸ほど整備された郭ではないが、この出丸をさらに北に進むと、宗像四塚連山の一つ孔大寺山(こだいしやま)に繋がる。
【写真左】腰郭
 本丸の北側に付随する郭で、この下にも郭が設置されている。
【写真左】イヌシデ
 管理人は樹木や植生などその道に関しては全く暗いのだが、当城の本丸近くに、まるで「主(あるじ)」のように立つこのイヌシデを見たとき、妖気さえ覚えた。

 この樹皮の模様は短期間でできたものではないだろう。おそらくこの老木は筑前の南北朝期から始まった動乱の時代をじっと見てきたのかもしれない。
【写真左】山田地蔵尊 増福禅院
 白山城の南麓には、天文年間に宗像大宮司氏貞開基による増福院が建立されている。
 また、現地には上掲した「山田事件」に関する内容も含めた由来が記されている。



 現地説明板より

“本尊 六地蔵尊

 大祭 毎年4月23・24日
   月例祭 毎月23・24日
   初地蔵 正月1日より4日
   星祭り厄除祈願2月第1日曜日

由来 
 宗像大宮司家第78代氏雄郷は天文20年9月(1551年)主君大内義隆が長州において陶晴賢に討たれ戦死された時、宗像には正室菊姫があったが、側室の子氏貞を立てんとする者たちのために、翌年3月23日の夜、山田の里において菊姫と母君他4人の侍女と共に惨殺された。
【写真左】菊姫廟
 当院奥に祀られている。
 また、境内奥にある庭園には、足利尊氏が座禅したという大岩もある。




 戦国乱世とは言え、婦女子6人を一時に殺すと言うことは史上にその例をみない悲惨事である。その後6女の怨霊の呪いによりてがこの暗殺に加わった者すべて惨死する等怪異が続いたので6女の霊を慰めるために当寺を建立し、六地蔵を刻み本尊として安置したので漸く異変が終わったと伝えられている。
 以来星霜移ること450年信仰遠近を問わず信者の多く特に安産、子育て、厄除、進学、家内安全、諸病平癒、交通安全、商売繁昌を願う人の参詣が絶えない。
  曹洞宗(禅)妙見山増福院”
【写真左】山田夫人の碑
 増福院に向かう手前の場所には、菊姫廟とは別に、菊姫の母方(山田夫人)や腰元(侍女)4人の墓が祀られている。
【写真左】旧御殿跡
 おそらく菊姫や母方等の平時の住まい跡だったのだろう。
 現在は畑・果樹園などになっている。

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