2019年10月4日金曜日

嶽山城(大阪府富田林市龍泉)

嶽山城(だけやまじょう)

●所在地 大阪府富田林市龍泉880
●別名 龍泉寺城
●高さ 278m(比高 10m)
●築城期 元弘2年(1332)
●築城者 楠木正成
●城主 楠木氏・畠山氏
●備考 楠木七城
●遺構 郭等
●廃城年 永正5年(1508)
●登城日 2016年10月12日

解説(参考資料 『益田市誌(上巻)』等)
 嶽山城は下赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村森屋) で少し触れているが、楠木七城の一つで、千早赤阪村の隣富田林市に所在する城郭である。
【写真左】嶽山城遠望
 下赤阪城から見たもので、本丸跡付近には現在かんぽの宿が建っている。





現地の説明板より

❝嶽山城址(だけやまじょうし)(龍泉寺城址)

 嶽山城は南北朝時代初期、元弘2(1332年)楠正成によって築かれた城である。
 「太平記」巻34(龍泉寺軍の事)によると、楠正儀、和田正武が大和、河内の南朝の兵1000人余りを山の頂上の窪地に籠らせ守っていたが、寄手が攻めてこないため100人ほどを残し、大半の兵を他の戦場に移した。
【左図】嶽山城と金胎寺城等及び周辺の城郭配置図
 嶽山城と金胎寺城は下段にも示すように、石川と佐備川の間に囲まれた丘陵地に築かれ、両城の間は極めて近い位置になる。
 嶽山城の南麓には当城の別名となった龍泉寺がある。
 同図の右側には下赤阪城が谷を隔てて東側に所在し、下段でも紹介している寛弘寺城は、千早川の中流域に3か所記録されている。
 下赤阪城の南方には吉年(淀子)があり、金峰神社周辺が高塚山城塞といわれる。


 この時、木の梢などに旗を結わえ大勢が籠っているように見せかけたため、廿山(つづやま)にいた寄手の陣では四方手を立てたような山に大軍が籠っていると思い、鬼神でも攻め落とすことはできないと徒(いたずら)に150日余りを過ごした。

 ある日、才覚ある老武者が、天に飛ぶ鳶(とび)や林に帰る烏が驚かないのは、旗ばかり立て大勢籠っているように見せかけているだけだと見破ったため、正平15(1360年)細川清氏、赤松範実たちによって攻め落とされた。

 その後、河内の守護畠山氏の内紛により、再び城として戦場となり、永正5(1508年)に落城したといわれる。”
【写真左】頂上付近
 現在城域の一角には「かんぽの宿 富田林」という宿泊施設が建っている。
 この施設が建てられる前に、遺構調査などが行われ、遺物としては古墳時代のものから中世にかけての什器などがあったようだが、中腹にある龍泉寺にかかわるものもあったようだ。


楠木七城

 本稿もふくめここまで楠木七城のいくつかをとりあげてきているが、あらためてこれらについて整理しておきたい。
 楠木七城は文字通り楠木正成が後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の呼びかけに応じて築いたもので、河内国に所在する。

 楠木七城
  1. 千早城(大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早) 
  2. 下赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村森屋) 
  3. 小根田城(上赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪) の一部)
  4. 桐山城(上赤阪城 の一部)
  5. 河内・烏帽子形城(大阪府河内長野市喜多町 烏帽子形公園) 
  6. 嶽山城(龍泉寺城)
  7. 金胎寺城
 このうち、3と4はいずれも上赤阪城の城域内にある城名で、当城のどの箇所を示しているのか具体的には分からない。従って、実際には六城と定義した方がいいのかもしれないが、語り継がれた伝承を変更する必要もないだろう(下段参照)。
【写真左】案内標識
 かんぽの宿の奥にテニスコートといった運動施設があるが、ネットに案内板が掲げてある。草丈は伸びていたが、このまま奥へ進む。
 この先へ40mと書かれている。



 さて、本稿の嶽山城は七城の中でもっとも北方に位置し、物理的には幕府方(六波羅探題)からみて一番近い場所となる。

 嶽山城に最も近い七城の一つが金胎寺城で、嶽山城から南西へおよそ1.4キロの位置となり、反対の東南方向2.4キロの位置に下赤阪城がある。また、これら七城(6か所)を線で結ぶと、六角形の形となり、その面積は18,000㎢余と予想以上に小さい。もっとも、戦いの拠点のみで見たもので、7城(6城)で囲った場所のみが楠木氏らの領内ではなかったと思われる。実際には以前にも述べたように、楠木氏らは後方に金剛山や葛城山といった大和国西部も支配下に治めていたので、活動区域は少なくともその倍以上はあったものと思われる。
【写真左】主郭付近
 嶽山の最高所付近で、主郭があったところ。
 登城道途中は整備されていなかったが、この付近は一部雑草などが刈り取られていた。


長禄・寛正の役

 ところで、下赤阪城の稿でも少し触れているが、室町時代の寛正年間、石見の益田兼堯(七尾城・その3(島根県益田市七尾)参照) らがこの嶽山城をはじめとする河内国や、紀伊国に入って戦っている記録がある。

 これは以前にも述べたが、畠山氏の家督騒動に端を発した内紛に、幕府が介入していったもので、長禄・寛正の役といわれる。事の発端は畠山氏惣領・持国の後継者をめぐる争いからで、当事者は、実子である義就と、甥の弥三郎(政長)である。この二人が家督をめぐって争った(河内・烏帽子形城(大阪府河内長野市喜多町 烏帽子形公園)参照) 。
【写真左】石碑と説明板
 石碑には「楠公龍泉寺城跡」と刻銘されている。
 また傍らには石が積まれているが、五輪塔の一部のようなものも見られる。
 このあと、周辺部を踏査してみる。


 

益田兼堯の出征

 石見の益田兼堯は、益田氏15代当主で父は兼理である。父・兼理のときも幕府(足利義教)の命により大内盛見に従って筑前などに出兵しているが、兼堯の代になるとさらにその回数は増えていく。
【写真左】益田兼堯像
所在地 島根県益田市七尾町妙義禅寺前

 益田氏の居城七尾城麓にある妙義禅寺前の道路を挟んだ場所に平成4年に建立された。





 寛正元年(1460)9月16日、当時河内・紀伊・越中の領主となっていた畠山義就が、将軍義政の上意に叛いたので、義就を退け子の基家に継がせようとした。しかし、義就がそれに従わず、同月20日京都の自邸に火を放って出奔、以後河内の若江城(大阪府東大阪市若江北町3(若江公民分館付近))に籠った。

 怒った義政は、23日政長を尾張守に任じ、義就の領地であった河内・紀伊・越中を政長に領邑させた。この処置を受けて政長は義就討伐の部署を定めた。将軍義政はさらに山口の大内氏に対し、出兵を要請した。
【写真左】削平地
 主郭付近には郭・堀切などといった遺構は明確には残っていないようだ。もっとも、かんぽの宿などの施設が建設された段階でこの付近も改変された可能性もあるかもしれない。
 写真のものは郭だったとおもわれる削平地。



 翌寛正2年(1461)10月7日、義政は教書を下し、石見の益田兼堯・貞兼父子に軍役を命じた。また政長自身も直接益田貞兼に対して参軍の要請をしている。

 益田父子が具体的にいつ石見を出立したのか詳細な記録はないが、河内では同月(10月)10日、大和国奈良・瀧田において畠山政長と義就が激突、形勢不利と見た義就は、河内の嶽山城に敗走した。そして、15日には政長が河内の若江に入り、2か月後の12月19日、幕府軍が上弘川伝い(河南町)に進軍し、大挙して嶽山城を攻めるが、義就軍の必死の抵抗もあり、堕とすことができなかった。
【写真左】北東部付近
 主郭付近から少し北東部方向へ向かった位置になるが、ほとんど原野に近い状態で、遺構の確認はできなかった。



 益田父子が河内国清水山へ到着したのはこの年(寛正2年)4月とされる。この前年の10月、兼堯は貞兼に家督を譲った。その後、11月25日には大内政弘(筑前・岡城(福岡県遠賀郡岡垣町吉木字矢口)参照) の旗下に入っている。おそらく、兼堯は幕府や大内氏からの出兵要請の前にこうした手続きを済ませたいという想いがあったのかもしれない。

 河内国清水山に入ると、翌5月18日には南河内長野村へ、そして翌6月3日同郡寛弘寺上之山へ着陣した。河内国清水山及び長野村については具体的にどの場所か分からないが、6月3日に着陣した寛弘寺上之山は、現在の南河内郡河南町大字寛弘寺(かんこうじ)にあって、千早川を挟んで東に寛弘寺城、西に寛弘寺西山城、寛弘寺上之山城跡が点在している。嶽山城までは直線距離で南西方向に3キロ余りとなる。
【写真左】東斜面
 竪堀のようなものがないかと斜面に向かったが、雑木・雑草に覆われこの辺りで断念。





切山(桐山)・淀子・嶽山の合戦

 そして、6月12日益田兼堯はついに畠山義就討伐の合戦に及んだ。最初の合戦は同日の「切山合戦」といわれている。この切山とは、現在の千早赤阪村桐山と思われ、上赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪) の別名が「桐山城」であったことから、おそらく当城及びその周辺で繰り広げられた戦いと思われる。

 ところで、この戦いで、幕府方の総指揮をとったのは細川勝元(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町) 参照)だが、一族の細川成之・成春・常有・持久をその任に当たらせ、実戦部隊のリーダーとして山名是豊が主に指揮をとっていた。
【写真左】龍泉寺山門
 龍泉寺は嶽山城の南東側中腹に建立されている古刹で、推古天皇2年(594年)仏教興隆のため、蘇我馬子が創建したと伝えられる。

 南北朝期に楠木正成が嶽山城を築城した際、兵火に罹りほとんど焼失したとわれる。
 写真は重要文化財の仁王門といわれる山門。


 河内国における合戦で出征したのは石見国では益田兼堯だけではなかった。同国からはこのほか、三隅豊信(三隅城・その3(島根県浜田市三隅町三隅)参照)、周布和兼 (周布城(浜田市周布町) 参照)、出羽祐房( 別当城(島根県邑智郡邑南町和田下和田)参照)及び、都野次郎左衛門(神主城(島根県江津市二宮町神主)参照) らも遅れて参戦している。
 また、石見国の諸将とは別に安芸国からは、毛利豊元(吉田郡山城・(広島県安芸高田市吉田町吉田) 参照)・吉川経基(小倉山城(広島県山県郡北広島町新庄字小倉山)参照)も来ていた。

 兼堯の奮戦は将軍義政の耳にも入り、6月14日兼尭の軍功を称し、正恒の太刀に添えて感状を与えた。同月21日、義就の部将須屋正興らは大和国弘川に陣を張っていた畠山政長を急襲した。しかし、政長はこれを退け、正興らを敗死させたので、義就らは再び嶽山城及び金胎寺両城に退いた。
【写真左】龍泉寺案内図
 後背には金剛山や葛城山が描かれている。
 嶽山城はこの図では描かれていないが、左側にあたる。


 7月16日には淀子で義就と交戦し、兼堯も当地で軍功を立てた。この淀子の地名は消滅しているが、現在の千早赤阪村大字吉年(よどし)のことで、淀子も当時から「よどし」と呼ばれていたと思われる。

 吉年地区の最高所には金峰神社が祀られているが、この付近も元々楠木氏諸城塞の一つ高塚山塞であり、ここから東へ千早川を挟んで1キロ先に上赤阪城があり、さらにこの位置から北西方向へ3キロほど隔てた嶽山城がくっきりと見える(上段の配置図参照)。

 この戦いでは勝敗はつかなかったものの、山名是豊の推薦で兼堯は8月12日の条で、義政から次のような軍忠状が下されている。

”去月十六日於河州淀子合戦之時、被官人数輩致疵之旨、是豊注進到来、弥々可抽軍忠也。
(寛正二年)八月十二日   (義政公方)御判
益田佐馬助(兼堯)殿    『益田家什書』

 この後、7月16日兼堯は嶽山城麓において戦っているが、8月28日には二本松の戦いに参戦、この時初めて疵を負い、家人の中にも死者・負傷者を出した。なお、二本松は嶽山城の一角とみられるが具体的にはどの場所か分からない。兼堯一族から多数の死者・負傷者を出したことにより、畠山政長は兼尭に対し、見舞いの意味を込めた軍忠状を出している。

‟去廿八日於嶽山搦手口合戦之砌、自身数か所被疵、並同名被官人以下、数多成手負討之由候。誠忠勤之至候。則令注進候之条、一段可有御感候哉。於此方又祝着、異千他候。子細尚使者可申候。恐々謹言。

(寛正二年)八月三十日   (畠山)政長判
   益田佐馬助(兼堯)殿  『萩閥益田家文書』”

 そのあと、将軍義政は、山名是豊から兼堯の軍忠を知り、友成の太刀一振りと、青毛の馬一頭を与えるよう通知している。
【写真左】本堂
 本堂の左側には国指定名勝の龍泉寺庭園がある(下の写真参照)。
【写真左】龍泉寺庭園
 庭園の中に龍池という池があり、この池が古代からのものといわれている。






幕府軍の凱旋

 細川勝元・畠山政長らをはじめとする幕府軍の攻勢は常に優勢を保っていたものの、義就の抵抗はしぶとく、ついに寛正4年まで続いた。その間、嶽山城と金胎寺両城を死守していた義就は、金胎寺城を落とされたが、嶽山城を根城としながらなおも赤阪の要害を使って抵抗していた。しかし、長引いてきた河内国における戦いも同年(寛正4年)4月14日、畠山政長が嶽山城を攻略、義就は高野山に敗走した。
『蔭凉軒日録』16日の条に、

「嶽山没落注進有之。赤松次郎法師弟侍伊勢守、於遊宴之中間、有嶽山没落之注進。仍伊勢守参干殿中而披露之。時宜不亦幸乎。」
 とあり、その喜びが伝えられている。

 しかし、嶽山城を落とされた義就は高野山の僧徒に入山を断られたものの、紀伊岡城を皮切りに粉河寺に奔り、さらには大和の吉野山に逃れた。結局、この戦いで幕府軍は、義就の首級をとることができず、のちの応仁・文明の乱の際、義就が山名持豊(宗全)と合力するきっかけを作ることになる(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照) 。
 寛正5年1月14日、畠山政長は配下の一部を紀伊に留め、自らは京へ凱旋の途に着いた。
【写真左】龍泉寺庭園から嶽山城方面を見る。
 嶽山城は龍泉寺から北西の方向に位置するが、奥の山を越えると嶽山城に至る。

 因みに、長禄・寛正の役の頃は、当院を含めたこの辺りも戦場と化したと思われる。



役後の益田兼堯

 畠山政長らが京へ凱旋したとき、おそらく益田兼堯も随従していたと思われるが、役後兼堯は、その活躍が認められ、幕府引付衆の一員に列し、評定衆の分掌を補助した。その後、石見に帰国し七尾城(島根県益田市七尾)の大手口に大雄庵を営み、信仰の生活に入った。
【写真左】益田兼堯の墓
 七尾城の北端部に大雄庵があったようだが、現在その跡地に兼堯の墓が祀られている。

 嶽山城の戦い(長禄・寛正の役)後は、応仁の乱にも参戦し、大内政弘の西軍に属し、大内道頓の乱では娘婿陶弘護を助けた。
 晩年には山口より画聖・雪舟を招き、自画像を残す。
 文明17年(1485)、菩提寺万歳山妙義寺塔頭のこの大雄庵で没す。法名:大雄院殿全国瑞兼。享年は不明だが、63,4歳といわれる。
 
 

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