2011年6月10日金曜日

上ノ殿城(岡山県久米郡久米南町中籾)

上ノ殿城(うえんとじょう)

●所在地 岡山県久米郡久米南町中籾
●指定 久米南町指定史跡
●築城期 永禄年間(1558~70)か
●築城者 不明
●城主 河島惟家
●高さ 不明
●落城期 永禄10年
●登城日 2009年4月15日、及び2015日4月30日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 所在地である久米南町は、岡山県のほぼ中央部にあたり、今稿の「上ノ殿城」は、当町の西端部である中籾(なかもみ)という地区に所在する。
【写真左】上ノ殿城入口
 現在当城に向かう道は整備され、比高はほとんどないが、当時はおそらく谷間となっている下の方から上る道があったものと思われる。



 上ノ殿城は、久米南町内だが、数百メートル西に行くと、合併で現在岡山市となった旧建部町に入る場所にある。

 この日現地に向かう道を使ったのは、「中国自然歩道」(久米南美しい森を訪ねるみち)というコースで、南側のR53から入った。途中、別所という付近でため池があり、その場所に中籾も含めた「籾村(もむら)」地区についての説明板があったので記しておく。
【写真左】上ノ殿城位置図
 左図は下記「籾村について」の説明板に記されたもので、当城は中央上段の赤字で示した位置となる(クリックするとさらに拡大する)。





籾村(もむら)について

 平安時代の末ごろ、下級武士が土着民の協力を得て新田を開拓した名田(みょうでん)によって開けた場所で、鎌倉時代には奉書紙の一種の檀紙が生産されました。

 この地には、竜王山城址、興善寺跡、上ノ殿(うえんと)城址があり、戦国悲話も多く、また、山岳修験者による熊野信仰が盛んなところで、古刹清水寺、瑞泉院、赤木忠春の社があります。

 籾村は、明治22年6月に別所村と合併して竜山村となり、昭和29年4月に竜山村他3町村が合併し久米南町となりました。
 環境省・岡山県”
【写真左】本丸跡
 現在現地には「川島神社」という社が建つ。
 規模はさほど大きなものでなく、また郭段も数カ所見られるが、いずれも小規模である。




 上記のうち、竜王山城(町指定史跡)、瑞泉院は下籾地区に、上ノ城は中籾地区、忠春神社、清水寺(下段写真参照)は上籾地区にある。

 さて、上ノ殿城については、詳細な史料を持ち合わせていないが、現地に設置された顕彰碑に概要が記されているので記す。

“顕彰碑
 上殿城主 河島左近将監惟重顕彰之碑

 上殿城主河島左近将監惟重は、清和源氏小笠原氏の裔なり。阿州上郡を領し河島城を築く。
 永禄年間、惟重の子左近将監惟家は、毛利援軍の将として作州弓削庄中籾に上殿城を築き、尼子氏と戦う。

 惟重の孫阿州河島城主監物惟常(兵衛之進)は、阿州岩倉合戦にて戦死し、ついで河島城も陥る。惟常の子惟忠らは上殿城に赴き後、帰農す。

 平成8年9月15日、後裔相謀り初代城主の顕彰碑を建てるに際し、その概略を記して後世に伝う。

【写真左】顕彰碑
 現地に設置されている。











源氏河島家系
 初代 清和天皇、2代 貞純親皇、3代 経基親王、4代 満仲、5代 頼信、6代 頼義、7代 義家、8代 義光、9代 義清、
 10代 清光、11代 長清、12代 長経、13代 惟政、14代 惟廣、15代 惟宗、16代 惟頼、17代 頼勝、18代 惟光、19代 惟信、20代 惟清、21代 惟忠、

22代 左近将監惟重

  平成8年10月吉日(1996年)
    河島(川島)同族会  建立”
【写真左】社内にある宝篋印塔
 この建物の中には、祠と写真に見える宝篋印塔が2基程度建立されている。おそらく、川島氏のものだろう。
 また、平成20年付で「絵馬」が奉納されている。




 この説明板では、当地(美作)の「上ノ殿城」と、阿州(阿波・徳島県)の「川島城」が混在した内容で、しかも当城(上ノ殿城)の城主が父・惟重としながら、築城したのは子の惟家としているため、かなり混乱する(下段の※マーク参照)。

 管理人なりに解釈すれば、元々上ノ殿城には、何時のころか不明だが、河島氏が在住し、惟重の代になって、阿州(徳島県)吉野川市川島町に移り、「川島城(河島城)」を築いたということだろう。
【写真左】郭跡か
 険峻な切崖といったものは本丸付近では確認できなかったが、開けた付近では写真にみえる郭跡のようなものを確認できた。





川島氏の出自

 ところで、結論からいえば、川島氏が清和源氏小笠原氏の末裔としている点から考えて、同氏は阿波小笠原氏の系譜と推察される。

 以前阿波の一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)でも述べたように、阿波を本拠としたのは延元3年(1338)に築城した小笠原長宗である(文永4年:1267年、阿波守護として入部した小笠原長房がその基礎を築いている)。

 小笠原氏の始祖は甲斐から信州に移ったころといわれ、その後、地元と京都に分かれ、庶流もそのころから、阿波・備前・備中・石見・三河・遠江・陸奥などに散ったといわれている。

 今稿の小笠原氏を祖としている川島氏が、上記の分散した地区のうち、上ノ城のある美作の東隣りの備中から移った小笠原氏という可能性もあるが、前述したように阿波小笠原氏と考えた方が妥当と思われる。
【写真左】川島神社側から下の方を見る。
 神社に向かう参道脇には、川島氏の子孫と思われる川島氏の墓が並んでいる。
 下に道路があり、道路との比高差は10m程度か。
 2015年4月撮影
【写真左】郭段か
 神社周辺部には遺構らしき明確な箇所は見受けられない。このため、当地はおそらく平城のような形態で城館があったものと推測される。
2015年4月撮影
【写真左】裏側
 左側が上ノ殿城にあたるが、その隣には緩やかな傾斜となった畑地が広がる。
2015年4月撮影
【写真左】上籾の『日本の棚田百選』・その1
 番外編となるが、上ノ殿城からさらに北に向かった上籾地区にあるもので、久米南町では当地と、北庄の2カ所が『日本の棚田百選』に認定されている。
 田の枚数1,000枚、農家戸数42戸、平均勾配1/7

 この写真でいえば、写真中央部の奥に中籾の「上ノ殿城」が控えている。

【写真左】その2
 下から見たもの。
 この日訪れた時は、一部代搔きが終わっていたが、大半はこれからという状態だった。




 顕彰碑に記された内容から、戦国期の川島氏の系図については、下記のような流れと考えられる。
  • 22代・左近将監惟重  川島城(阿波国)築城(※) (上ノ殿城主?)
  • 23代・左近将監惟家  上ノ殿城(美作国)築城
  • 24代・監物(川島)惟常(兵衛之進)  川島城主(※)、岩倉合戦(阿波吉野川付近)で戦死。川島城落城(天正7年:1579)
  • 25代・惟忠  川島城落城後、上ノ殿城(美作国)へ赴き、帰農
どちらにしても、上ノ殿城の築城期は、戦国期と思われるが、城主であった川島氏の動きを見てみると、美作国と阿波国のつながりが極めて強く、おそらく同氏一族が度々両国間を往来していたと考えられる。

 そして、最後の25代・惟忠に至って、祖父惟家や曾祖父惟重がいた美作国(一説には備中国とも)へ帰還したことになる。 

 参考までに、阿波国の川島城については、次稿川島城(徳島県吉野川市川島町川島)と、サイト『城格放浪記』さんが登城し紹介しているので、御覧頂きたい。
【写真左】清水寺
 上掲した古刹清水寺で、美作88カ所、第23番札所の古刹である。

 境内には立派な宝篋印塔や、五輪塔が建立されている。

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