2011年6月19日日曜日

亀迫城(岡山県井原市西江原町)

亀迫城(かめざこじょう)

●所在地 岡山県井原市西江原町
●築城期 鎌倉期か
●築城者 那須氏又は荘氏
●城主 宍戸安芸守など
●遺構 郭等
●比高 20m前後
●登城日 2011年6月15日

◆解説
 下段に示す現地の説明板では、築城期を戦国期としているが、別の史料によれば、今月取り上げた「小菅城」の支城といわれている山城で、鎌倉期とも考えられるが、確証はない。
 場所は、小菅城の位置から更に南に下った亀迫付近に築かれた山城である。
【写真左】登城口付近
 写真は、南麓部にある駐車場付近で、登城といっても丘城程度のもので、2,3分歩けば本丸にたどり着ける。

 現地の説明板より

史蹟 亀迫城址

 室町時代の末期、天文2年(1533)から元亀元年(1570)まで、38年間備中松山城(高梁市)の城主・荘備中守為資と、長男・荘備中守高資の父子が、西江原を支配していた。

 元亀元年(1570)、川上郡成羽城主・三村備中守家親は、毛利氏の援軍を請うて松山城主・荘備中守高資を討った。
 このとき、毛利氏は備中の国一円を掌握しようと、毛利元清を大将として、本郡(後月郡)へ兵を進め、敵を防ぐ要路に位置するこの地に、亀迫城(砦のような小さい城)を築いた。
【写真左】公園入口
 公園として大幅に整備されたようで、現地には城砦を示す遺構名は全く設置されていない。

 元清は、宍戸安芸守を守衛に任命し、その家臣・木村平内と神田六郎兵衛の二人を郡代として常駐させ、要害山砦を修理し、逆茂木(敵の侵入を防ぐために、とげのある木の枝を外側に向けた垣)を、南は小田川を渡って木之子の祢屋ヶ端(ねやげばな)まで立て巡らし、軍備を構え、亀迫城を拠点として、小田郡の中山城、船ヶ迫城、奥ノ城を次々に攻略し、遂に猿掛山城主・穂井田実近を攻め滅ぼして、猿掛山城の城主となった。

 慶長5年(1600)、「天下分け目の戦い」といわれた「関ヶ原の合戦」で、石田三成、毛利輝元ら西軍は、徳川家康の東軍に惨敗したため、毛利氏は備中など中国地方8カ国の領地を没収、周防・長門の2国(現・山口県)に減封されて、当地方は徳川幕府が支配した。
 このころ、亀迫城は廃城されたと思われる。

平成10年8月吉日
  西町自治会
  西江原史蹟顕彰会”
【写真左】郭跡
 登城口から本丸までの郭段は、3,4程度構成されているが、あまりにも整備されすぎて、当時の遺構がどの程度残っているのかはっきりしない。
 この写真は本丸下の帯郭と思われる個所で、規模が最も大きい。

荘氏

 説明板にもあるように、当城を含めた荏原地域は、少なくとも鎌倉初期には荘氏が最初に備中国草壁郷の地頭として、関東から入部し、矢掛町横谷の「猿掛城」を本拠とし、当地を治めていたと思われる。

【写真左】本丸跡
 写真にみえる胸像は、地元井原市名誉市民の「大山文雄」氏のもので、平成2年5月吉日に建立されたとある。

 この個所の規模は20m四方あるが、おそらく当時もこの程度のものだったのだろう。

【写真左】帯郭か
 本丸下の東側から北に回りこんでいる個所で、長さは100m程度、幅は7,8m前後ある。
 写真右側が本丸部分。

 なお、当城の西側は道路や住宅が立ち並んでいるため、当時の状況は不明だが、東麓部は切崖状のものが確認できる。

【写真左】南方に甲山を見る
 写真にみえる山は、甲山(H121m)といわれる山で、この南麓には、甲山八幡神社が祀られている。

 「小菅城」(6月16日投稿)でも少し述べたが、この甲山の更に南麓には「中堀城」が築城されている。

 記録にはないが、この甲山も南北朝期当地を治めていた那須氏城砦として利用していたのではないかと考えられる。

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