2011年6月15日水曜日

笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町)

笠岡山城(かさおかやまじょう)

●所在地 岡山県笠岡市笠岡西本町)
●別名 笠岡古城・笠岡西浜の城
●築城期 元徳3年(元弘元年:1331)
●築城者 陶山藤三義高
●城主 陶山氏
●形態 連郭式山城・海城
●遺構 本丸
●規模 150m×100m
●高さ 標高68.8m(海抜)
●登城日 2010年10月11日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 岡山県の南西端笠岡市の笠岡港に突き出した古城山に築かれた海城で、現在は市民の憩いの広場・公園として使われている。
【写真左】笠岡山城遠望・その1
 笠岡港を挟んだ対岸の埋立地であるカブト東町側から見たもの。
 中央が本丸で、手前の白いものは擁壁工事された崖。

撮影日:2018年4月5日
【写真左】笠岡山城遠望・その2
 左に行くと、笠岡港へ、右に行くと水島灘(瀬戸内)へ向かう。

撮影日:2018年4月5日
【写真左】笠岡山城の郭跡
 公園として改修されたため、遺構がはっきりしないが、写真は現地の最高所付近で、衣笠山山頂部の郭跡と思われる。


 現地の説明板より

古城山公園
伝承
 標高約70m。古くから内海の景勝地として知られる。もとは、海中の一孤島とも、応神山と連続していたとも伝えられる。
 別名「海松(みる)が丘」、「吸江山」、「高松の城山」といわれた。

笠岡城
 弘治年間(1555~58)に能島村上水軍の一族・村上隆重が笠岡城を築城。その後、村上景広・毛利元康が在城。関ヶ原合戦後、徳川家康の所領となり、代官・小堀新助が入城。

 元和2年(1616)、池田備中守長幸の居城。
 元和5年(1619)、松山城(高梁市)に移り、笠岡城は廃城となった。

 明治40年(1908)、未新田埋め立てのため切り下げられ、城の遺構が消滅した。
 昭和31年、笠岡市の都市公園となる。

 笠岡市都市計画課”
【写真左】配置図
 この図には山城としての遺構名は明記されていないが、駐車場や広場になっているところは、当時数段の郭が構成されていたのだろう。





陶山藤三義高

 築城期は元徳3年(元弘元年:1331)のころといわれている。
 同年8月24日、後醍醐天皇は神器を持って笠置山城に入った。9月28日、幕府軍は後醍醐天皇の拠る笠置山城を攻め立て、翌日天皇は捕らえられる。

 後醍醐天皇が笠置山に入ったころ、播磨の赤松円心は京都へ攻め入っているが、その際、陶山義高は、小見山二郎と協力して撃ち破り、その軍功によって備中守となり、寮御馬となったといわれている。

 そして、備中国内を巡検したとき、当地を陸海の押さえに最適と判断し、築城したといわれている。
【写真左】 北の招魂社を見る
 北側には招魂社が祀られているが、その手前の広場は現在駐車場となっている。





 その後、六波羅探題の北条仲時が追われ、鎌倉に向かうも、近江の番場で432人が討死、若しくは自害した時、義高も随従していたため、当地で亡くなったという。

 なお、北条仲時の墓は、その近くにある蓮華寺(滋賀県米原市:名神高速道路米原JCT近く)にあるが、この近くには、以前取り上げた「太尾山城」(2011年2月12日投稿)や、鎌刃城などがある(近江・蓮華寺(滋賀県米原市番場511)参照)。

 義高の死後、笠山城は実弟・高盛が後を継ぎ、足利氏に属し永正年間(1504~21)の陶山刑部まで代々同氏が居城としたとされる。

 その後の弘治年間からについては、説明板の通りであるが、この当時西国の大内氏が滅んだあと、陶氏と毛利氏の対決が厳島で行われた際、村上氏が毛利氏側に属したことが同氏の勝利に大きく影響している。
【写真左】笠岡山城から南麓を見る
 写真にみえる低地は干陸化された耕地で、当時は海だったため、おそらく城下に軍船が停泊していたものと思われる。
【写真左】笠岡山城から北東方面を見る
 写真中央やや右に見える山は、応神山と呼ばれ、当山も笠岡山城との関連も指摘されている。

 また、左側の山側には、竜王山という山があるが、これも前述した陶山藤三が拠った同名の「笠岡山城」がある。



◎関連投稿
匠ヶ城(岡山県井原市上稲木町)

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