2012年2月16日木曜日

神魂神社(島根県松江市大庭町)

神魂神社(かもすじんじゃ)

●所在地 松江市大庭町563
●創建 平安時代中期か
●祭神 伊弉冊大神・伊弉諾大神
●参詣日 2012年2月吉日

◆解説(参考文献『尼子盛衰人物記』妹尾豊三郎著等)
 前稿横田山城(島根県松江市美保関町森山)の城主といわれた秋上庵介久家の父・三郎左衛門綱平が、戦国期当社の大宮司として仕えた社である。
【写真左】神魂神社の参道・鳥居













 所在地は、以前取り上げた松江・茶臼山城跡・島根県松江市山城町茶臼山から南西方向へ約1.5キロほど隔てたところにある。

 付近には、出雲国造館跡・大石古墳群・大石横穴群・後谷古墳群及び、八重垣神社などがあり、古代出雲の国府地域とされている場所でもある。

 創建期などについては、伝承によるものが多いため、具体的な時期ははっきりしないが、おそらく平安期の中ごろには創建されていたと思われる。
【写真上】神魂神社付近の史跡配置図
 松江市の南方にあたるこの付近は、中海に注ぐ意宇(おう)川を中心に多くの古代史跡が残る。
 この図の右(東方)には出雲国庁跡もあり、古代から中世にかけて長く繁栄した出雲府中とも考えられている。


現地の説明板より

“神魂神社 案内
 御祭神 伊弉冊(いざなみ)大神  伊弉諾(いざなぎ)大神
 祈年祭 4月18日
 例祭  10月18日
 新嘗祭 12月13日


 当社は出雲国造の大祖天穂日命(あめのほひのみこと)がこの地に天降られ出雲の守護神として創建、以来天穂日命の子孫が出雲国造として25代まで奉仕され、大社移住後も「神火相続式」、「古伝新嘗祭」奉仕のため参向されている。


 本殿は室町時代初期、正平元年(1346)建立の大社造りで、その大きさは三間四方高さ四丈あり、出雲大社本殿とは規模を異にするが、床が高く、木太く、とくに宇豆柱が壁から著しく張り出していることは、大社造りの古式に則っているとされ、最古の大社造りとして昭和27年3月国宝に指定されている。
 本殿内は、狩野山楽土佐光起の筆と伝えられる壁画九面にて囲まれ、天井は九つの瑞雲が五色に彩られている。”

また、当地には小泉八雲が明治24年4月5日、西田千太郎とともに訪れている。
【写真左】本殿・境内














秋上氏と神魂社(神魂神社)

 戦国期に秋上氏が神魂社の大宮司という社家一族であったことはすでに述べたが、庵介(久家)が尼子氏に仕えたのは、実兄である孝重が神職を継いだこともその理由の一つだが、下段に示す記録から考えて、尼子氏による支援を受けていた国造・北島氏の影響が働いていたと推察される。

 この時期で最初にでてくるのは、文明12年(1480)の「秋上文書」である。同年4月28日付で次のように記されている。
  • 国造・北島高孝、神魂神社神主・秋上大炊助(おおいのすけ)に大庭保内の高孝知行分の代官職等を安堵する。
 また、延徳3年(1491)2月23日付の「佐草文書」には
  • 神魂神社秋上益綱、杵築大社の佐草泰信より預かった大庭保内の佐草領を、死後返還することを約束する。
 とあり、この2年後の明応2年(1493)11月28日付の「秋上文書」では
  • 国造・北島利孝、秋上氏の買得地を安堵する。
 と記され、この時期までは、杵築大社国造である北島氏が秋上氏に対し、直接命を下しており、尼子氏など武家側からの介入がなかったことがうかがえる。
【写真左】本殿・その1













 しかし、大永3年(1523)になると、ここで尼子経久が関わることになる。
  • 同年12月9日付、神魂社総社神主職得分について、社職・宮富氏が尼子経久に訴える。経久、国造・北島雅孝(まさのり)に取扱いを命じる(「同文書」)。
 そして、尼子経久の命によって、大永5年(1525)6月付の秋上文書では、
  • 神魂社秋上孝国、両神魂及び惣社神主職得分は、永く孝国の子孫に帰属すべき旨の置文をつくる。
 となり、享禄4年(1531)になると、4月16日付で、17歳になった詮久(あきひさ)すなわち、経久の孫・晴久が、直接安堵した記録が出てくる。
  • 尼子詮久(晴久)、秋上大炊助(おおいのすけ)に、両神魂神社及び惣社神主職を安堵する。
 そして、経久が天文10年(1541)に没した後は、晴久が家督を引き継ぎ、この後神魂神社に関係する記録は、以下のものがある。
  • 天文13年(1544)9月20日、晴久が神魂社に太刀を寄進。
  • 天文15年(1546)9月26日、秋上孝重以下12名の杵築町の代表者、三沢本郷の壇所をめぐる坪内・吉田両氏の御供宿相論について、坪内宗五郎に当座の堪忍を要請する(「坪内文書」)。
  • 天文20年(1551)4月27日、尼子氏、神魂社に太刀一文字を奉納する(「秋上文書」)。
 先述したように、尼子再興軍の一人として山中鹿助らと行動を共にしていたが、後に下段示すようにに毛利氏に属することになる。
  • 永禄6年(1563)8月28日、北島秀孝・幸孝、秋上三郎左衛門尉跡を、毛利元就の命に従って、秋上彦四郎に与える(「秋上文書」)。
 そして、永禄7年になると、この「彦四郎」はおそらく、「与四郎」と思われるが、元就が官位を推薦している。
  • 永禄7年(1564)10月27日、毛利元就、秋上与四郎を周防守に推挙する(「秋上文書」)。
 この2年後の永禄9年(1566)11月、ついに尼子氏居城の月山富田城が落城することなり、翌10年には毛利氏は、2月に神魂社に諸役を免じ(「神魂神社」)、7月には正式に秋上周防守に、神魂社の所領を安堵する(「秋上文書」)。

 また、その翌年(永禄11年)5月になると、久家の叔父であった神主・秋上孝重は、嫡男と思われる良忠に社職等を譲ることになる。
【写真左】本殿・その2














 ところで、前稿でも述べたように、元亀元年(1570)5月14日、毛利方に降った清水寺大宝坊が、森山城を守備していた秋上綱平・久家父子を毛利方に従わせた。

 このことを輝元は非常に喜び、吉川元春・小早川隆景に書状を認め、秋上父子を使者として尼子氏に降伏を勧めるよう命じた。

 この後、秋上久家は、実際山中鹿助のところを訪ねているが、降伏を勧めることはせず、むしろ尼子から毛利方へ降った仔細を伝えるにとどまり、それを鹿助も了承している。

 鹿助からすれば、寝返った秋上氏に対し恨みを持つと思われ、場合によっては彼を討ち果たすこともできたと思えるが、そうした行動はとっていない。
【写真左】本殿・その3













 元亀2年(1571)は出雲国における尼子再興軍の最後の戦いでもあったが、3月の斐川高瀬城落城を機に、6月は隠岐国の毛利方支配、そして8月には伯耆末石城において鹿助が捕らわれ(その後京都へ逃走)、真山城が落城し、彼らの本望はついに遂げることはできなかった。

 同年8月28日、富田城の城番役・毛利元秋は、真山城の落城を祝し、神馬(しんめ)を神魂神社へ奉納した(「神魂神社文書」)。

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