三子山城(みつごやまじょう)・その1
●所在地 広島県庄原市比和町三河内字小和田
●別名 三ツ子山城
●築城期 天正年間(1573~92)か
●城主 三河内通忠
●遺構 郭・井戸・土塁・石垣等
●高さ 標高861m(比高215m)
●登城日 2010年12月1日、及び2011年4月13日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
三子山城は、比和町の東方・三河内(みつかいち)の三子山に築かれた山城で、北麓を走る西城比和線(58号線)を東に下ると、今月投稿した「大富山城」「蟻腰城」のある西城町につながる。
【写真上】三子山城遠望
北西麓にある菩提寺・慶雲寺側から見たもの。
三河内氏
当城及び三河内氏についての詳細な史料は残っておらず、断片的なものしかない。
城主であった三河内氏については、天文年間(1532~55)の初期には当地比和の武士団として活躍していることが知られる。そして、城主は三河内通忠と、その息子通高が在城したといわれている。
また、『久代記』によると、三河内氏は東方の大富山城の宮氏に属し数々の合戦に参加していると記録されているが、別の史料では、山内氏の家人でもあったとするものもある。
【写真左】登城口付近
左に見える道は「西城比和線(58号線)」で、奥に向かうと西城につながる。
この看板には「無敗の戦国武将 三河内大膳守通忠公居城…」と書かれている。
彼は大変に用心深い人物だったようで、城下に客人が来ると、絶対に当城の本丸には登城させず、自ら城下まで下りてきて対応したという。それほど当城の様子を他人には知られぬように徹底していたから、「無敗の武将」とまでいわれたのだろう。
恐らくこのことは、三子山城が一時的には山内氏の東方(地毘荘)侵略の結果、支配下にあったことをしめすものと思われ、備北国人領主として、宮氏と山内氏の狭間で同氏が一族延命のためにとった策と推定される。
ところで、三河内氏が最初に拠った城砦は二本松城という小丘だが、具体的にどのあたりになるのか、比定された史料を持ち合せていないので、分からない。
【写真左】登城道
登城口から暫くは緩やかな登り坂が続くが、鞍部を過ぎたあたりから、この写真のような急坂が待っている。
なお、周辺の山々は最近大々的に伐採作業が行われたため、非常に視界が広がっている。
【写真左】北側の郭
三子山城は南北に長く郭群が構成されている。
北側付近は不揃いな段差を設けた郭が3,4箇所あり、その東側には帯郭(犬走り状)が取巻く。
【写真左】犬走り(帯郭)
北側から東側にかけて伸びる郭で、長さ30m、幅5.6m程度の規模。
【写真左】北端部の郭
長さ50m程度で、途中で2,3箇所の段を設けている。
【写真左】土塁と井戸跡
現地には遺構の標識などはないが、おそらくこの最高所となるところが本丸と思われる。
周囲には南北に渡って高さ1m前後の土塁が続いている。
なお、この写真の左下隅に白いものが映っているが、これが井戸跡と思われる。
【写真左】本丸付近
当城の最も大きな遺構・郭で、本丸だったと思われる箇所。
写真にあるように、かなり規模の大きな土塁が残っている。
【写真左】土塁
三子山城の郭群規模は、およそ南北250m×幅60mで、細長い構成となっている。
土塁は殆ど西側に設置されており、大手はこの西側にあったものと思われる。東側は天然の切崖となっている。
【写真左】南側最初の段
北側に比べ、南側の郭群は高低差がかなりあり、この郭は本丸側より5,6m程度ある。
【写真左】南側2段目の郭
1段目とほぼ同程度の規模のものである。
【写真左】南2段目の郭から1段目の郭を見上げる。
前記の段よりさらに高さがあり、切崖も険しくなっている。
【写真左】石垣跡か
南側の郭段の高低差や切崖状態を見ると、こうした大きな石を要所ごとに設置し、崩落を防いでいたのかもしれない。
【写真左】本丸付近から北西麓を見る
三子山城は標高もかなりある(861m)ことや、独立峰でもあるため、非常に眺望がよい。
特に写真に見えるように、北西方面に視界が効くことは、戦国期、出雲尼子氏の侵入を監視する上で重要な要衝であったことが分かる。
写真にみえる集落は三河内地区。
【写真左】本丸から南方を見る
写真中央の山は勝光山(H:947m)
●所在地 広島県庄原市比和町三河内字小和田
●別名 三ツ子山城
●築城期 天正年間(1573~92)か
●城主 三河内通忠
●遺構 郭・井戸・土塁・石垣等
●高さ 標高861m(比高215m)
●登城日 2010年12月1日、及び2011年4月13日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
三子山城は、比和町の東方・三河内(みつかいち)の三子山に築かれた山城で、北麓を走る西城比和線(58号線)を東に下ると、今月投稿した「大富山城」「蟻腰城」のある西城町につながる。
【写真上】三子山城遠望
北西麓にある菩提寺・慶雲寺側から見たもの。
三河内氏
当城及び三河内氏についての詳細な史料は残っておらず、断片的なものしかない。
城主であった三河内氏については、天文年間(1532~55)の初期には当地比和の武士団として活躍していることが知られる。そして、城主は三河内通忠と、その息子通高が在城したといわれている。
また、『久代記』によると、三河内氏は東方の大富山城の宮氏に属し数々の合戦に参加していると記録されているが、別の史料では、山内氏の家人でもあったとするものもある。
【写真左】登城口付近
左に見える道は「西城比和線(58号線)」で、奥に向かうと西城につながる。
この看板には「無敗の戦国武将 三河内大膳守通忠公居城…」と書かれている。
彼は大変に用心深い人物だったようで、城下に客人が来ると、絶対に当城の本丸には登城させず、自ら城下まで下りてきて対応したという。それほど当城の様子を他人には知られぬように徹底していたから、「無敗の武将」とまでいわれたのだろう。
恐らくこのことは、三子山城が一時的には山内氏の東方(地毘荘)侵略の結果、支配下にあったことをしめすものと思われ、備北国人領主として、宮氏と山内氏の狭間で同氏が一族延命のためにとった策と推定される。
ところで、三河内氏が最初に拠った城砦は二本松城という小丘だが、具体的にどのあたりになるのか、比定された史料を持ち合せていないので、分からない。
【写真左】登城道
登城口から暫くは緩やかな登り坂が続くが、鞍部を過ぎたあたりから、この写真のような急坂が待っている。
なお、周辺の山々は最近大々的に伐採作業が行われたため、非常に視界が広がっている。
【写真左】北側の郭
三子山城は南北に長く郭群が構成されている。
北側付近は不揃いな段差を設けた郭が3,4箇所あり、その東側には帯郭(犬走り状)が取巻く。
【写真左】犬走り(帯郭)
北側から東側にかけて伸びる郭で、長さ30m、幅5.6m程度の規模。
【写真左】北端部の郭
長さ50m程度で、途中で2,3箇所の段を設けている。
【写真左】土塁と井戸跡
現地には遺構の標識などはないが、おそらくこの最高所となるところが本丸と思われる。
周囲には南北に渡って高さ1m前後の土塁が続いている。
なお、この写真の左下隅に白いものが映っているが、これが井戸跡と思われる。
【写真左】本丸付近
当城の最も大きな遺構・郭で、本丸だったと思われる箇所。
写真にあるように、かなり規模の大きな土塁が残っている。
【写真左】土塁
三子山城の郭群規模は、およそ南北250m×幅60mで、細長い構成となっている。
土塁は殆ど西側に設置されており、大手はこの西側にあったものと思われる。東側は天然の切崖となっている。
【写真左】南側最初の段
北側に比べ、南側の郭群は高低差がかなりあり、この郭は本丸側より5,6m程度ある。
【写真左】南側2段目の郭
1段目とほぼ同程度の規模のものである。
【写真左】南2段目の郭から1段目の郭を見上げる。
前記の段よりさらに高さがあり、切崖も険しくなっている。
【写真左】石垣跡か
南側の郭段の高低差や切崖状態を見ると、こうした大きな石を要所ごとに設置し、崩落を防いでいたのかもしれない。
【写真左】本丸付近から北西麓を見る
三子山城は標高もかなりある(861m)ことや、独立峰でもあるため、非常に眺望がよい。
特に写真に見えるように、北西方面に視界が効くことは、戦国期、出雲尼子氏の侵入を監視する上で重要な要衝であったことが分かる。
写真にみえる集落は三河内地区。
【写真左】本丸から南方を見る
写真中央の山は勝光山(H:947m)
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