登実志山城(とみしやまじょう)
●所在地 広島県三次市吉舎町大字安田
●築城期 不明
●築城者 不明
●高さ 標高470m(比高100m)
●遺構 郭・帯郭等
●登城日 2010年7月2日
◆解説(参考文献『和智氏と吉舎町の山城』吉舎町教育委員会編等)
前稿「南天山城・その2」で、吉舎町内の山城(№6)として紹介した山城である。
当城については詳細な記録はほとんどなく、和智氏との関係もはっきりしないが、西方につながる平松城と近接しており、当城の一部もしくは出城であった可能性もある。
【写真左】登実志山城遠望
南東部から見たもの
頂上部に展望台がかすかに見える。
登実志山は吉舎町にあってはシンボル的存在の山であるといわれ、別名「備後小富士」とも呼ばれる標高470mの独立峰の山である。
また後鳥羽上皇が隠岐に配流される際、当地にも立ち寄ったとする伝説が残る。
現在、東麓には「とみしの里」といわれるリゾート施設が造られ、キャンプなどができるようになっている。
遺構記録としては、頂上部に幅4m×45mの郭を持ち、南西方向に1~1.5m程度の段差を持ちながら6か所の郭が階段状に残り、その周囲には幅2mの帯郭が囲んでいる。
【写真左】東麓にある「とみしの里」
南麓を走る426号線(太郎丸吉舎線)途中に、「とみしの里」案内板があり、その道を北に向かっていくと、現地に辿り着く。
宿泊施設などもあるようだが、くわしくは見ていない。
【写真左】駐車場付近から本丸方面を見上げる
探訪した時期が7月ということもあって、この段階で遺構の確認はほぼ無理と観念した。
【写真左】登城道
キャンプ施設の一環として整備されているため、山城遺構部分は留意されていないようだ。
【写真左】郭付近
登城道は北側からほぼ直線で南方向に登っていくが、この位置には壇をもった郭等は確認できないが、記録ではすでにこの辺りから郭とされている。
【写真左】展望台
本丸中心部より南側先端部に設けられている展望台。
【写真上】現地に設置してあった北西側の案内図
この写真中央部(北西方向)に三次市街地が示されている。
【写真左】南西方向を見る
視界がよいと、南天山城や丸小山城などがはっきりと見えるが、御覧の通り靄のためほとんど見えない。
【写真左】祠
下山途中に見えたもので、登実志山城の南麓中腹部に祀られている。和智氏関係のものだろうか。
【写真左】登実志山城遠望
●所在地 広島県三次市吉舎町大字安田
●築城期 不明
●築城者 不明
●高さ 標高470m(比高100m)
●遺構 郭・帯郭等
●登城日 2010年7月2日
◆解説(参考文献『和智氏と吉舎町の山城』吉舎町教育委員会編等)
前稿「南天山城・その2」で、吉舎町内の山城(№6)として紹介した山城である。
当城については詳細な記録はほとんどなく、和智氏との関係もはっきりしないが、西方につながる平松城と近接しており、当城の一部もしくは出城であった可能性もある。
【写真左】登実志山城遠望
南東部から見たもの
頂上部に展望台がかすかに見える。
登実志山は吉舎町にあってはシンボル的存在の山であるといわれ、別名「備後小富士」とも呼ばれる標高470mの独立峰の山である。
また後鳥羽上皇が隠岐に配流される際、当地にも立ち寄ったとする伝説が残る。
現在、東麓には「とみしの里」といわれるリゾート施設が造られ、キャンプなどができるようになっている。
遺構記録としては、頂上部に幅4m×45mの郭を持ち、南西方向に1~1.5m程度の段差を持ちながら6か所の郭が階段状に残り、その周囲には幅2mの帯郭が囲んでいる。
【写真左】東麓にある「とみしの里」
南麓を走る426号線(太郎丸吉舎線)途中に、「とみしの里」案内板があり、その道を北に向かっていくと、現地に辿り着く。
宿泊施設などもあるようだが、くわしくは見ていない。
【写真左】駐車場付近から本丸方面を見上げる
探訪した時期が7月ということもあって、この段階で遺構の確認はほぼ無理と観念した。
【写真左】登城道
キャンプ施設の一環として整備されているため、山城遺構部分は留意されていないようだ。
【写真左】郭付近
登城道は北側からほぼ直線で南方向に登っていくが、この位置には壇をもった郭等は確認できないが、記録ではすでにこの辺りから郭とされている。
【写真左】展望台
本丸中心部より南側先端部に設けられている展望台。
【写真上】現地に設置してあった北西側の案内図
この写真中央部(北西方向)に三次市街地が示されている。
【写真左】南西方向を見る
視界がよいと、南天山城や丸小山城などがはっきりと見えるが、御覧の通り靄のためほとんど見えない。
【写真左】祠
下山途中に見えたもので、登実志山城の南麓中腹部に祀られている。和智氏関係のものだろうか。
【写真左】登実志山城遠望
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