2011年9月21日水曜日

三葛の殿屋敷(島根県益田市匹見町紙祖三葛)

三葛の殿屋敷(みかずらのとのやしき)

●所在地 島根県益田市匹見町紙祖三葛
●築城期 中世(縄文期より住居跡か)
●形態 居館跡
●築城者 大谷氏
●出土物 陶磁器・鉄器・銭貨・縄文土器・石器
●遺跡の現状 水田
●指定 益田市指定史跡
●登城日 2011年6月8日

◆解説(参考文献『益田市誌上巻』その他)
 しばらく安芸・備後の山城が続いてきたので、今稿は久しぶりに石見国の城館を取り上げたい。

 今稿の「三葛の殿屋敷」は、以前取り上げた未登城の小松尾城(島根県益田市匹見町紙祖石組)を更に遡った山奥にあり、当稿でも記したように、いずれ探訪したいと思っていた。
【写真左】殿屋敷跡・その1
 三葛集落のほぼ中央部にあって、現在は田圃となっている。







 ところで、管理人も度々参考にさせていただいているサイト『城郭放浪記』氏が、今年(2011年)7月に「小松尾城」の登城に成功し報告されているのに驚いた。というのも、当城は麓に辿り着くための橋がない上に、見上げるような険峻な山城であり、管理人にはとても無理と思えたからである。

 さて、三葛に向かうルートは、「小松尾城」探訪のときと同じように、匹見川と並行して走る国道488号線を通り、匹見中学校付近から枝分かれする「吉賀匹見線」へ入って南下し、吉賀町方面に向かうのが一般的だ。
【写真左】紙祖川渓流
 この写真は帰途中に撮ったもので、三葛から小松尾城に向かう途中に並行して流れる紙祖川で、匹見川に注ぐ。
 山深い渓流ならではの澄んだ清流で、文字通り癒されるミナモの流れである。




 しかし、この日(2011年6月8日)訪れた際は、南方の吉賀町(七日市)側から向かった。高津川の支流高尻川に沿って走る「吉賀匹見線」は、現在上高尻辺りまでは整備された道路が続き運転も楽だが、途中から片道一車線となり、深い谷間を縫うように次第に起伏の激しい急坂急カーブの連続となる。さらに深い木立に遮られ、昼なお暗しという状況になってくる。当然ライトを点灯した。

 「こんなに深い山の中、この先に、人が住んでいるんだろうか。人よりもクマさんとの出会いの確率が高いかもしれない。」
と、冗談とも本音ともつかない話を、連れ合いと交わした。

 吉賀町と匹見町(益田市)の町境である上畑トンネルという峠を越えると下り坂になる。急峻な谷間をしばらく走っていると、忽然と開けた集落が目の前に現れた。三葛の集落である。
【写真左】殿屋敷跡・その2
 上の方から見たもので、御覧の通り土地改良された圃場のため、遺構は改変されているが、おそらく手前の田圃辺り全体が屋敷跡と思われる。

平家落人

寿永4年(文治元年:1185)3月24日、源義経は壇ノ浦に平氏を滅ぼし、安徳天皇は入水、平教盛・知盛は敗死、宗盛は捕らわれ、ここに平家は滅亡した。残党となった平家落人は全国に四散逃亡した。

 平家の根拠地であった安芸国から逃れた一部は、岩国から錦川をさかのぼり中国山地国境を超え石見国に入った。同国へ入った平家の落人先の大半が、現在の匹見(益田市匹見町)だという。
安直な山城登山しかできない管理人からみれば、今でも匹見はやはり秘境と思える。人煙を絶ったこの地へ、さしもの源氏も追手が届かなかった。
【写真左】現地の説明板前にある石造
 「大谷氏館跡の石造物」と刻印された石碑と、五輪塔・宝篋印塔が各一基祀られている。






 石見の山奥に逃げ込んだ平家落人たちにとって、三葛は匹見に入る時のいわば入口となり、そのまま三葛を本拠とするものや、匹見中心部及び北東部の表匹見といわれる道川などへと分散した。

そして、彼等は当地で新たに「澄川」「斎藤」「寺戸」「大谷」の諸姓を名乗り、平家の末裔として後に、美濃・那賀郡の領地を扶植し、特に、澄川・斎藤・寺戸の三氏は当地に名を留め「匹見侍」と称され、それぞれの本拠地の名門となっていく。

大谷氏の始祖は、大谷盛胤といわれ、父は平貞経といわれているが定かでない。その盛胤は匹見東村という地に大谷城を築城した(「益田市誌上巻」)とされているが、島根県遺跡データベースには登録記載がない。
【写真左】居館の想像復元図
 説明板に図示されているもので、当時の様子がうかがえる。








殿屋敷跡

 今稿の「殿屋敷跡」とされている大谷氏館跡というのは、戦国期の大谷氏の居館跡といわれている。現地の説明板には次のように記されている。

“市指定史跡 殿屋敷遺跡(右造物・中世遺物を含む)

 本域の地名は殿屋敷といわれ、室町後期(戦国時代)に大谷氏が居館を設けていた場所である。
 圃場整備事業に伴い平成9年(1997)度に発掘調査が行われ、多くの陶磁器類・鉄器類・銭貨などの中世遺物とともに、そのほか少量の縄文土器・石器などが出土した。

 また土杭や柱穴などの中世遺構も発見されており、該地にあった五輪塔(右)や宝篋印塔(左)とともに、これらは同時期における1地域の支配階級者の様子を理解するうえで貴重なものであった。

 そうした大谷氏の在住も、大谷弾正、大谷平内と続いたといわれるが、天正3年(1575)には奥郷の山道(美都町仙道)の竹城主であった寺戸惣右衛門に攻められている。その後、平内の四男勝兵衛は、藩制期の江戸時代になって、匹見下代官初代に命ぜられ、西村の野田に移って終焉を迎えたのであった。
 益田市教育委員会”
【写真左】検出された遺構群
 柱穴・土杭跡が見える。











 平貞経の子・大谷盛胤を祖とする流れは、途中の系譜がはっきりしないが、以下のようである。
  1. 平貞経 
  2. 大谷盛胤 
  3. (10代略) 
  4. 大谷盛治 
  5. 大谷吉継 若狭守・刑部少輔吉隆
大谷吉継の代は戦国期になるが、彼には4人の子があり、それぞれ次の領地を治めていく。
  • 長男・源吾    斎藤伯耆守の女婿として道谷村へ
  • 二男・主水頭  龍山城(上ノ山城)主として匹見半田へ
  • 三男・蔵之丞  花ノ木城主として石谷内谷へ
  • 四男・平内   三葛の殿屋敷へ 
吉継は後年刑部少輔吉隆と名を改め、隠居して広瀬村古土居に住んだ。
【写真左】出土した中世遺物
 陶磁器・鉄器類・銭貨などが見える。











大谷氏一族の滅亡

 弘治元年(1555)、下流の小松尾城益田治部大輔上野介兼治が入城し、益田氏が匹見郷全土を支配していく。この時傘下にあった大谷・斎藤・澄川の三氏が事実上の当地支配者になるが、中でも大谷一族の所領は、三葛・野入・内谷・広瀬・千原など匹見の大半を領し、他の二氏に比べぬきんでていた。

 おそらくこうしたこともあってだろう、大谷氏の「不遜な態度」に対し、次第に他の一族らから反感の眼が向けられ、天正3年(1575)に至ると、特に二男である龍山城主・大谷主水頭に対する憎悪の念が一段と高まった。

 津田村の「城が浦城」(所在地不明)の城主・渡辺左内は、益田氏の内命を受け、巧みに主水頭を誘い出し、那賀郡江川の渡船場で殺害した。
 また三男の大谷内蔵之丞は、小松尾城に召し出され、兼治に欺かれて手討ちにされた。
【写真左】三葛集落の奥に鎮座する神社
 河内神社とあり、大谷氏に関わるものだろうか。

 ちなみに、石見といえば「神楽」が大変に盛んである。当地に残る「三葛神楽」は島根県指定無形文化財で、明治27,8年ごろ下流にある匹見八幡宮神主・斎藤真墨・幸太郎父子から伝授されたとされている。

 最近では8調子が主流となっているが、管理人も何度か鑑賞した桜江町の「大元神楽」と同じく6調子のものである。「貴船」という舞は当神楽団のオハコで稀曲となっている。
【写真左】殿屋敷付近から河内神社を見る。












 このあと、説明板にもあるように、残った大谷一族は寺戸惣右衛門に攻められることになる。この辺りの顛末は、すでに「小松尾城」の稿で記しているが、三葛へ攻め立てたのは、最後の戦いとなっている。

 大谷一族の皆殺しの報は、三葛の館にあった大谷平内の許に既に届いており、寺戸氏らが攻め入る前に、妻とそれぞれ落ちのび、峠を越え吉賀に逃れ、更に備中へ向かい多年流浪したという。そして、関ヶ原の合戦後、益田元祥らは長州へ移封されたので、平内は再び三葛に戻り帰農し、名を「五郎兵衛」と改め当地で一生を終えたという。

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