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2021年11月16日火曜日

石見・赤城(島根県邑智郡川本町大字川本(城山)

 石見・赤城(いわみ・せきじょう)

●所在地 島根県邑智郡川本町大字川本(城山)
●別名 赤城山城
●高さ 391m(比高90m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 小笠原長胤
●城主 小笠原長氏
●遺構 郭・堀
●登城日 2017年4月3日

◆解説(参考資料 「中世川本・石見小笠原氏関係史料集」井上寛司編集責任・倉恒康一編集協力、川本町・川本町教育委員会発行。「石見町誌上巻」等)
 
 石見・赤城(以下「赤城」とする。)は、島根県川本町にあって、以前紹介した温湯城から北東方向へおよそ1.5キロほど向かった標高391mの城山山頂部に築かれている。 
   赤城は、温湯城の城主小笠原氏が温湯城を築く前に築いたといわれる。
【写真左】石見・赤城遠望
 川本町の西を流れる江の川が支流・三谷川と合流する地点から見たもので、右側の谷を隔てた会下川沿いには温湯城が控える。
  

「中世川本・石見小笠原氏関係史料集」

 ところで、本年(2021年)の2月、石見(島根県)の川本周辺部を治めていた石見小笠原氏関連について、古文書・古記録などを蒐集・整理し、要約した史料集「中世川本・石見小笠原氏関係史料集」が発刊された。
 編者責任者は島根大学名誉教授の井上寛司氏、協力者は島根県古代文化センターの倉恒康一氏で、発行は川本町及び同町教育委員会である。
 同集では元暦元年(1184)から慶長5年(1600)の期間における記録を主としているが、江戸期に残るものも含まれている。
【写真左】中世川本・石見小笠原氏関係史料集
令和3年2月26日発行
編集 川本町教育委員会
発行 川本町・川本町教育委員会
定価 5,000円(税込)
印刷 佐々木印刷株式会社



 発刊のきっかけとなったのは、2015年当地(川本町)で行われた「小笠原サミット」で講師として招かれた井上氏が、同町教育委員会に対し小笠原氏の史料集刊行を懇願されたことに始まる。これを受けて同町行政当局でも積極的に取り組むこととなり、今回の運びとなった。
【写真左】石見・赤城遠望
 この写真は、江の川の東岸木地原地区から見上げたもので、南方に聳える。




 
 石見小笠原氏については、すでに温湯城で紹介しているが、管理人の手元にある小笠原氏関係の資料は極めて少なく、限定したものしかなかった。これまでアップしてきた城郭(山城)も、本来はこうした史料集などに依拠したものを基にして披瀝しなければならないが、実際には二次史料や、伝承などによった形式となることが多い。
【写真左】石見・赤城遠望
 麓から狭く曲がりくねった農道を登って行くと畑野地区というところに出る。この辺りで標高300m前後となる。

 現在でも数軒の家が点在し、田畠が維持されている。高所の割には田畠の規模が大きい。小笠原氏がこの地に赤城を築こうとした際、麓の狭隘な谷間よりこの地が住みやすいと思ったのかもしれない。
 写真は畑野地区から南西方向に見たもの。


 同史料は、発刊にこぎつけるまで足掛け6年かかっている。調査研究の対象が中世史の中では大族でもなく、戦国期にはほとんど没落していったような石見小笠原氏は、史料の収集からして困難を極めたものであったと思われる。このことから、筆舌に尽くしがたい地道な根気と探求心がなければできない作業であったことは想像に難くない。あらためて上梓に携われた井上氏はじめ関係者に敬意を表したい。
【写真左】登城口付近
 民家の脇の狭い道を車で登って行くと、右側に電波塔の施設があり、左側に「城山・赤城山」と記された標柱が建っている。


石見小笠原氏系図

 さて、本稿ではこの史料集を基本にしながら、石見小笠原氏の系図・系譜について少し触れておきたい。ここでは同氏の系図として下記の4点のものが載っている。
  • №507 小笠原家系図1(志賀槙太郎氏所蔵文書・東大影写
  • №508 小笠原家系図2(閥閲録81 小笠原友之進)
  • №509 石見小笠原氏系図(内荻英一氏所蔵文書・県図謄写
  • №510 清和源氏小笠原系図(物部神社文書・県図謄写
 同集ではこのほかにも小笠原氏系図関連のものがあるとしているが、おそらく4点とさほど大きな違いがないため割愛されているかもしれない。
 この4点の中で最も分かりやすいと思われるのが、№509と№510のもので、継嗣を繋ぎ線で結んだ一般的な形式となっている。

【左図】石見小笠原氏系図より
 同系図の一部から抜粋転記したもの。


 先ず№509で見ると、阿波国三好郡池田ニ移封された小笠原長房の子・長親が、石見小笠原氏の始祖としているが、添書きに「阿波国麻生荘ヲ領ス、細川氏四国ヲ領スルニ及ビ石見国村の郷ニ移ルト記録ニ在レトモ甚疑ヲ存ス」とある。

 また、長親を継いだのは家長とし、その跡を長胤が継ぐが、これにも添書きで「誤テ石見ニ移封セラレシ祖ナルヘシ、南北朝ノ戦足利氏ニ属ス、温湯城ヲ築キ桧下ニ移ル、法名ヲ円通院ト号ス」と記されている。

【左図】清和源氏小笠原系図
 同系図の一部から抜粋転記したもの。


 これに対し、№510は、小笠原氏元祖(加賀美小次郎)である小笠原長義の子が長親としている。
 
 そして、この長親が石見小笠原氏始祖であることは№509と同じである。
 添書きには「始石見国住屋敷村之郷、又太郎、法名普照院殿」とある。

 長親の継嗣も№509と同じで家長とし、添書きに「四郎次郎、法名禅林院殿」とある。

 そしてその跡を継ぐのも同じく長胤となっているが、添書きで「初而河本赤山城温湯築之、兼領迩摩郡、次郎太郎、或又太郎、或有次郎、法名円通院」とある。

赤城・温湯城の築城

 温湯城の稿でもすでに触れているが、上掲した二つの小笠原氏系図からも石見小笠原氏の始祖は「長親」であり、石見に下向したときに最初に入ったのが村之郷(山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)参照)であり、2代目家長(長家)の代までこの地を本拠としていく。

 そして3代目の長胤に至ると、村之郷から西へおよそ20キロ余り向かった江の川の支流・会下川北方に赤城、しばらくして南岸に温湯城を築いた。なお、温湯城の築城者を長胤の跡を継いだ長氏とするものもあるが、おそらくこれは親子2代にわたって築城していった流れであったと考えられる。その後、赤城は温湯城の支城としての役割を果たしていった。
【写真左】出丸か
 登城口から坂道を登って行くと、先ほどの施設と関連するものが右側にある。
 敷設された際周囲が削平されているようだが、もともとこの位置に出丸のようなものがあったのではないかと思わせる。


縄張り

 赤城は標高391mの高さを持つ独立峰の頂部に築かれ、主だった遺構としては、南北線を軸とする長径30m前後、短径10m前後の郭を主郭とし、その北東部に弓型の竪堀、西側には3条の堀切を連続させ、更に西に向かって腰郭が2段ほど続く。その周囲には現在無線中継所などが建っているため、同施設敷設の際、残った遺構は改変された可能性が高い。
【写真左】切岸
 本丸方面に向かう途中の位置から見たもので、急峻な崖となった箇所が見える。
【写真左】本丸方面に向かう。
【写真左】堀切
 本丸に向かう途中の道で2,3か所の鞍部が認められる。おそらく何状かの堀切の跡と思われる。

【写真左】傾斜が一段と厳しくなる。
 途中から急傾斜となり、本丸が近いことを予感させる。
【写真左】本丸にたどり着く。
 息が荒くなり出したころ、本丸に着いた。
【写真左】本丸北側
 北側というより北西側といった方がよいかもしれないが、本丸のうち北側が少し低い。
【写真左】休憩小屋
 本丸のほぼ中央部に御覧の建物が建っている。奥が南方向となる。
【写真左】さらに南に進む。
 予想以上に奥行があり、長径25m前後、幅は8m前後の規模。
【写真左】赤城東麓の畑野地区が見える。
 奥の山並を越えると、小笠原氏始祖の長親、長家などが最初に下向した村之郷(現:美郷町)に繋がる。
【写真左】三角点
【写真左】川本の街並み
 この日は少し霞んでいたせいか、北西方向を俯瞰すると江の川沿いに川本の街並みがうっすらと見える。
 なお、この視界には温湯城は入っていないが、画面の左側になる。
【写真左】南側
 南端部近くまで行くと、次第に下がり始めている。
【写真左】切岸
【写真左】堀切
 本丸から下山する途中に確認できた堀切で、少し埋まっている。
【写真左】本丸直下
 本丸を折りて登り口に向かわず、北西方向に向かうと御覧の施設があるが、この辺りは出丸があったのではないかと思われる。
【写真左】鉄塔側から本丸を遠望
 さらに先に進むと御覧のような鉄塔があり、そこから振り返って本丸を見る。

2020年2月3日月曜日

石見・稲積城(島根県益田市水分町)

石見・稲積城(いわみ・いなづみじょう)

●所在地 島根県益田市水分町
●高さ 78.9m(比高70m)
●築城期 暦応3年・興国元年(1340)
●築城者 日野邦光
●城主 日野氏、益田氏
●遺構 郭その他
●備考 稲積神社
●登城日 2016年12月2日

◆解説(参考資料 『益田市誌・上巻』、『日本城郭体系』等)
 石見・稲積城(以下「稲積城」とする。)は、益田市水分町の稲積山に築かれた小規模な山城で、当城から東に1キロ余り向かうと益田氏の居城七尾城が所在する。
【写真左】稲積山城遠望・その1
2010年9月12日登城した益田氏の居城・七尾城から見たもの。
【写真左】稲積山城遠望・その2
南麓の机崎神社側から見たもの。









石見の南北朝期

 南北朝時代における石見の動きについてはこれまでも高津城(島根県益田市高津町上市)の稿などでも再三触れてきたように、 当国でも南朝方と北朝方が激しく戦った。

 稲積山城に関わるものとしては、七尾城・その2(島根県益田市七尾) の稿で少し述べているが、興国年間(1340~)に日野邦光が稲積山城に拠って、南朝方の三隅城主・三隅兼連らと呼応し、北朝方の益田兼見の七尾城と対峙したといわれる。
【写真左】途中から直登
 登城口が分からず、たまたま南側に手摺のようなものが見えたので、そこから向かったが、結局墓地に向かう道で、その先はまったく道がなく、このあたりから直登することになった。


日野邦光

 日野邦光は藤原北家真夏流日野家の出で、日野資朝の子である。資朝は鎌倉幕府を倒そうとしたが、六波羅探題に察知され、同族の日野俊基らと共に捕縛され、佐渡島に流罪された公卿である。
 邦光は幼名を阿新丸(くまわかまる)といい、15歳のとき佐渡島に渡り、父の仇討ちを成し遂げた逸話を持つ。延元4年・暦応2年(1339)石見国司として新田義氏と共に同国へ下向した。
【写真左】畑地跡
 ひたすら尾根を目指してたどり着くと、割と解放された場所に出た。城域より大分西に来ているようだ。
 後述するように、先の大戦中食糧確保のため畑として開墾された跡だろう。


 このころ石見では南朝軍が劣勢に陥り、士気が停滞していたが、邦光は地元の南朝方高津長幸(高津城(島根県益田市高津町上市) 参照)・三隅兼連・内田致景(神主城(島根県江津市二宮町神主) 参照)らと相呼応し、稲積山に砦を築いて立て籠り、北朝方(益田兼見・虫追政国・乙吉十郎・領家公恒ら)と対峙し牽制しあった。

 稲積城の記録が現れるのは暦応4年(1341)正月28日で、三隅兼連(三隅城・その2(島根県浜田市三隅町三隅) 参照)が当城の食糧欠乏を知って、籐三(とうぞう)という家臣に命じてその護送に当たらせていたところ、益田三宅の袴田で益田方の軍勢に発見されて戦いを交えたというものである。そして、籐三は討死したが、食糧の一部を城内に搬入した。しかし、その年(暦応4年)2月18日、高津城と共に落城し、城主日野邦光は三隅城に落ち延びたといわれる。
【写真左】主郭方面を確認する。
 持参した地形図と磁石を頼りに方向を確認すると、この先から城域になるはず。登り勾配となっている。



 これに関連する記録としては、次のようなものが残る。
  • 前年(暦応3年・興国元年)8月27日、益田兼見が上野頼兼に従い、13日の豊田(内田)致員の城(豊田城か)での戦い、18日の日野邦光・高津長幸との戦いの軍忠状を提出する(『益田家文書』)。
  • さらに2月には、益田兼躬(おそらく兼見のことと思われる)、上野頼兼に従い、昨年8月19日以来須古山(須子山)に陣取り、18日に高津・稲積両城を攻め落としたとする軍忠状を提出する(『益田家文書』)。
【写真左】切岸
 西側から緩やかな登り勾配が続いてきたが、ここで切岸に遭遇。明らかな郭段の様相を呈してきた。
 密集していない樹木の間をかき分け、上に向かって這い上がる。











 しかし、邦光はその後も石見南朝方を鼓舞すべく、彼らを率いて都を恢復しようと遠大な計画を主張したが、石見在地の武士たちから賛同を得られず、国司の立場であった邦光と三隅氏らの間に次第に隙間が生じ、石見を立ち去った。

 邦光は一旦南朝方の本拠・吉野(大和)へ帰還したが、その後も菊池氏らが戦っていた阿蘇(肥後)(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山) 参照)にも赴いたという。

 彼のこうした行動を見ると、いささか他人の意見を聞かず、猪突猛進のタイプにも思えるが、その神出鬼没なフットワークには驚かざるを得ない。

当城周辺部の変遷

 山頂に本丸を置き、北東部には二の丸、西側には三の丸を配置していたが、先の大戦中食糧難のため、本丸から二の丸付近は伐採・開墾がなされ、さらに西側の三の丸側は砕石場となったため、北側の道路から見ても景観が大きく変わった。
 近年では城域内に高圧電線の鉄塔なども建ったことから遺構の残存度はあまり期待できないが、それでも主だった郭の跡はなんとか残っている。

出土品・小札

 ところで、この稲積城跡から甲冑の部品の一つである小札(こざね)が3点発掘されている。土の中からボロボロにさびた鉄製品を発掘した際、以前は同定する術が確立していなかったが、近年はエックス線撮影という技術で解明できるようになった。
 件のものは鎌倉時代から南北朝時代のものであるという。しかもこの時代のものとしてはかなり高価な甲冑だったことから、南朝方の大将クラスのものだったかもしれない。
【写真左】切岸の上から下の畑地跡を見下ろす。
 戦時中の開墾箇所はおそらく切岸の下までだったのだろう。
 従って、当時(南北朝期)は畑地跡も郭段(三の丸か)があったのかもしれない。
【写真左】主郭・その1
 切岸を越えて振り返ると鉄塔が目に入った。当城の最高所(78.9m)の位置で、主郭のあった場所となる。
 こうした工作物が設置されているので、周辺は相当改変されたのか遺構らしきものが見当たらず、変化のない削平地となっている。
【写真左】主郭・その2
 鉄塔付近で三角点を探してみたが見つからなかった。
 鉄塔から北西の方向は藪になっているが、ほぼ同じ高さで少し伸びており、この部分は実際には長径70m×短径40m前後もあり、当時(南北朝期)の状況を考えると、北側(藪側)に主郭としての中心を置いていたのかもしれない。
【写真左】三角点?
 縁の方に見えたもので三角点のような杭が見えるが、→がついているので境杭かもしれない。
【写真左】主郭の南側
 少し盛り上がっているので土塁跡か。


【写真左】東側の段
 主郭から少し東の端に来たところで、郭段の形状が残る。


【写真左】二の丸・その1
 主郭の東側に階段が見えたので、そこから降りてみると御覧の郭段がしっかりと残っている。
 これが二の丸だろう。
【写真左】二の丸・その2
 二ノ丸の北側まで向かったが思った以上に奥行がある。
 また、その先は藪化しているが、上の主郭から帯郭の様相が読み取れたので、北側を囲繞する構図となっていると思われる。


【写真左】二の丸から主郭を見上げる。
 高低差は7m前後はあるだろう。

 このあと、部分的に残る階段を目安に下に向かう。
【写真左】緩やかな斜面
 先ほどのような郭の形状は認められないが、当時は小郭が階段状に設置されていたのかもしれない。
【写真左】七尾城が見えてきた。
 結局東側にあった階段を頼りに降りて行ったが、この階段はどうやら鉄塔の施設管理用に設置されたもののようだ。
 途中で東方に益田氏居城の七尾城(左側の奥の山)が見えてきた。
【写真左】下山口(登城口)
 結局、稲積山城の登城道として利用できるのは東麓部にある鉄塔管理用の道しかないようだ。
 ただ、電柱の右側にあり、冬でも草丈が伸びているので、よほど注意してみないと見過ごすかもしれない。


机崎神社稲積神社

 既述したように稲積山城が築かれたのは南北朝期である。それ以前には山頂部に稲積神社が祀られていた。当社が創建された時期は聖武天皇の天平年間(729~749)といわれ、最初は稲積山南麓にあった。

現地の説明板より

‟机崎神社説明板

《御祭神》宇迦魂命 大国主命 猿田彦命
《由緒・歴史》


 古伝によれば、この机崎神社は奈良時代、聖武天皇の天平年間(約1200年前)、背後の稲積山に五穀産業海運の祖神である宇迦魂命、大国主命、猿田彦命の三柱の神様を御祭神として奉斎したことに始まります。

 平安時代には稲積山に官柱を新たに造営し、稲積神社と称して、盛んな祭祀を営みました。鎌倉時代初期、益田兼高公が七尾城主となるや、神威は更に増し、南北朝時代初期、興国2年(1341)の争乱の時に山頂の神社を現在地に遷座し、机崎神社と称するようになりました。

【写真左】机崎神社遠望
 稲積山城の東~南を流れる多田川を挟んで南東におよそ100mほど向かった土井町に建立されている。



 その後、益田氏の居城七尾城が建久4年(1193)に築かれると、益田兼高が稲積山山頂を削平し、当社を移転した。それに併せ城下に町割りなどが敷設され、七尾城下と共にこの水分地域も人々が集うことなる。

 春耕・夏耕・秋収・冬蔵それぞれの節目に祭事が行われ、夜間神社境内に大篝を焚き、歌や踊りさらには仮面衣装の男女が出でて、牛馬をも持ち出し賑やかな祭事を行ったという。神事が終盤に差し掛かると、大篝火が燃えつくし、その柱が倒れる。その柱の倒れ方によってその年の豊作の吉兆を占った。
【写真左】机崎神社
 本殿後背には稲積山城が控える。










 稲積神社は南北朝期(興国年間)日野邦光が稲積山に城郭を築くようになって、山頂にあった社を南麓の机崎に遷座することになる。それが現在の机崎神社である。


長州軍陣地

 ところで、稲積山城及び、机崎神社は、時代が下った江戸末期の慶応2年(1866)、長州軍と幕府軍が戦った益田の戦いで長州軍が布陣した場所でもある。

現地の説明板より

《机崎神社 益田戦争長州軍陣地》

 幕府は慶応2年(1866)第二次長州戦争の軍を起こし、四境より戦端が開かれ石州口の戦場となったのが益田でした。幕府軍は浜田藩、福山藩の連合軍で、6月17日の朝、萬福寺と勝達寺(天石勝神社)、医光寺に布陣しました。
 村田蔵六(大村益次郎)率いる長州軍は、幕府軍の動きを読み、16日には扇原関門に迫りました。
【写真左】岸静江国治の墓
所在地:益田市多田町
 机崎神社の前を流れる多田川をおよそ2キロほど遡ったところに建立されている。
 
 岸静江国治は、圧倒的な数の長州軍の来襲を知り、部下や農民らを先に退去させ、一人で仁王立ちして死守したが、長州軍の敵弾を受け、敢え無く絶命した。
 藩命とはいえ、わずか31歳の若さだった。合掌。


 扇原関門の関守は浜田藩士岸静江国治、少数の士卒そして農民兵16名のみです。藩命を遵守した岸静江は開門を迫る長州軍を断固拒絶し、槍を構えた立ち姿のまま銃弾を浴び絶命したといいます。藩境の扇原関門を突破した長州軍は、机崎神社に集結し、指揮を執った村田蔵六が傍らの稲積山で敵情視察をし、幕府軍の動静を探り、作戦を立てたといわれています。

 平成27年2月吉日  益田市観光協会”
※赤字 管理人による。

2016年2月20日土曜日

鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)

鷲影神社(わしかげじんじゃ)
     ・高橋地頭鼻(たかはしじとうはな)


●所在地 島根県益田市元町
●創建 長禄2年(1458
●創建者 高橋頼之・頼久父子
●探訪日 2016年2月1日、11日

◆解説(参考文献『益田市誌』等)
  島根県益田市の市街地である元町には、鷲影神社という小さな社が祀られている。この社を創建したのは、前稿阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕)で紹介した高橋民部少輔貞春の流れを持つ「地頭鼻高橋家」である。
【写真左】阿瀬尾山 鷲影神社
 所在地 島根県益田市元町

 ご覧の通り、民家の隣で、その左側は崖となっている。




 手前の石碑には、「阿瀬尾山 鷲影神社」と刻銘されている。

 この場所は、益田市元町の南端部にあたる丘陵地で、周辺には階段状の団地が建ち並び、住宅地の脇に鎮座している。

 境内は小規模なものだが、その奥には石碑が建立されており、そこには備中阿瀬尾城から石見阿須那鷲影城に移り、さらには当地益田に下向してきた地頭鼻高橋家の由来を示す碑文が刻まれている。

鷲影神社(益田市元町)の碑文

“備中守護職松山城主高橋九郎左衛門尉光國 参河守時英事 元弘三癸酉年五月近江國番場合戦於六波羅探題北條仲時従嫡子時住太郎範時事、次子仲光次郎光時事共討死平田場峠蓮華寺葬光國之◇
 備中国阿哲郡田渕阿瀬尾城城主別名馬酔木城主高橋民部少輔貞春南北朝争乱之延文五庚子一月河内国干破釼合戦於討死

【写真左】碑文が刻まれた石碑
 本殿前の境内に建立されているが、時が経ったこともあり、筆耕された文字が部分的に潰れていたり、見難くなった箇所もある。


 嫡子高橋左近将監貞頼応永十五戌子年十月従兄石見國邑智郡阿須那藤掛城主高橋刑部少輔貞光之招応石見国邑智郡神稲郷大庭鷲影城主トナリ翌々応永十七癸寅年二月城内西之丸ニ鷲影城鎮護社創建守護神武内宿祢貞頼之曽祖父光國父貞春之三神祀ル
 貞頼之嫡子左近将監頼之◇民部少輔頼久父子嘉吉元辛酉年八月播磨赤松之乱後益田七尾城主益田越中守兼堯之招応鷲影城ヲ去り長禄二戌寅年益田庄上吉田郷移リ八幡原地頭家敷住百貫地知行三神祀鎮守社再建然処子孫高橋源四郎明治十癸未九月没被故有鎮守社廃絶今度高尾山地開発ヲ記念シ永年宿願之当鎮守阿瀬尾山鷲影神社ヲ再建ス
 昭和四十九年十一月二日 上吉田 地頭鼻 高橋正喜“
(註:◇・判読不能個所)
【写真左】鷲影神社本殿 ご覧の通り本殿は1間ほどの幅をもった小さなもので、昭和49年に再建されているようだ。





 一部判読不能な箇所もあって明瞭ではないが、この碑文を要約すると概ね次のような内容と思われる。

(要約)(途中から)
「…… 延文5年(正平15年:1360)、備中阿哲郡の田渕にある阿瀬尾城(馬酔木城)の城主であった高橋民部少輔貞春は、南北朝動乱において河内国の合戦で討死し、その後嫡子・貞頼は、父の死から40年余り経った応永15年(1408)10月、石見阿須那藤掛城主・高橋貞光の招きで近接の神稲郷大庭の鷲影城主となった。2年後の応永17年(1410)正月、鷲影城の西の丸に守護神として、武内宿祢貞頼・曽祖父光國・父貞春の三神として当城鎮護社守護神を祀る。

 嘉吉元年(1441)の乱において、頼之・頼久父子播磨に参陣、その後益田兼堯(かねたか)の招きで鷲影城を去り、長禄2年(1458)、益田庄上吉田郷に移り、八幡原地頭となり、100貫の知行を受け、三神祀鎮守社を再建した。然しその子孫高橋源四郎が明治10年に没し、鎮守社も廃絶した。この度(昭和49年)高尾山地開発を記念し、長年の願いであった当鎮守阿瀬尾山鷲影神社をここに再建する。

       昭和49年11月2日 上吉田 地頭鼻 高橋正嘉 」 
(以上 ※下線管理人による)

 上述した要約文でほぼ高橋貞春以降の流れが分かると思われるが、これをもとに順を追って足跡を整理したい。

高橋貞頼、阿須那に来住

 前稿の阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕)でも述べたように、貞春が河内国で戦死してから約40年余り経った応永15年(1408)10月、師光嫡男の石見阿須那藤掛城主・高橋貞光の招きで、貞春嫡男・貞頼は藤掛城の東隣神稲大庭の鷲影城主となった。

 おそらく、貞春が戦死したころ、貞頼は生まれて間もない幼児であったのだろう。従って、貞頼が阿須那に来住したときは既に40代半ばの年齢であったと思われる。
 このころ、高橋氏惣領・貞光は、藤掛城からさらに出羽の肥沃な上流部方面へも触手を伸ばしていった時期である。

貞頼、鷲影城を築く

 貞光の代になると、出羽氏の領地を次々と攻略、別当城(島根県邑智郡邑南町和田下和田)並びに、二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)を手中にしたとことにより、貞光は拡大した領地の守備堅持を確保するため、甥の貞頼には同氏支配地の東方を扼する任務を与えるため鷲影城を築かせたと推察される。
【写真左】鷲影城と軍原を遠望する
 所在地:邑南町 阿須那 大庭、戸河内

 鷲影城の標高は415mなので、西隣のH・354mの藤掛城より60m余り高い。以前登城を試みたが、登城口がどのあたりなのか不明で断念した。郭・帯郭・堀切・竪堀など遺構の種類も多いようだ。
 写真の左側には出羽川が流れ、その対岸に興光が自刃したといわれる軍原古戦場(キャンプ場)がある。
 なお、貞頼らが鷲影城を居城としていたころの屋敷は、この写真にみえる大庭地区であったと考えられる。


 そして、鷲影城を築いて間もない応永17年(1410)正月、貞頼は当城西ノ丸に守護神として、同氏元祖とされる武内宿祢貞頼、曽祖父光國、そして父貞春を三神として崇め、当城鎮護社を祀った。これが後に益田に移った際の鷲影神社のもととなる。
【写真左】大庭の集落から鷲影城を見る
 西麓にある大庭の集落から見たものだが、左側に延びた舌陵丘陵部は、遺構の記録はないものの、この頂部に上がれば西方の藤掛城を見る位置にあるので、常時連絡用の物見櫓的なものが設置されていたのかもしれない。


嘉吉の乱

 嘉吉元年(1441)6月24日、播磨・備前・美作三国の守護であった赤松満祐は、将軍足利義教を謀殺した。直後幕府内に動揺が走り、混乱を極めたが、7月に至ってようやく満祐追討の命が出され、西国の諸将が発向することになった。このとき多くの西国武士が播磨・備前・美作方面に向かっているが、このうち石見国では益田兼堯が7月24日付で幕府から満祐追討の命を受けている。 また石見高橋氏では、上述したように鷲影城主であった頼之・頼久がこの戦いに参陣している。
【写真左】鷲影城本丸
 この写真は、2015年10月3日当地阿須那で行われた高橋氏660年記念事業の際、会場ロビーに展示されていた写真である。
 本丸跡には祠のようなものが鎮座しているようだ。





頼之、鷲影城を去り益田氏に仕える

 嘉吉の乱がおこったころの益田氏は、兼堯が第15代当主になって間もないころである。嘉吉の乱後、頼之・頼久父子は石見鷲影城に帰城していると思われるが、乱の17年後である長禄2年(1458)、頼之父子はこの益田兼堯の招きで益田庄へ移り、当地八幡原地頭となった。
【写真左】益田氏の居城・七尾城本丸から鷲影神社方面を俯瞰する。
 七尾城からは西方に直線距離で2キロ余りの地点に当たり、標高60mほどの丘陵地に建立されている。


 ところで、益田氏の招きとはいえ、なぜ鷲影城主であった頼之父子が、やっと住み慣れてきた阿須那を離れ、益田に赴いたのだろうか。惣領高橋氏にとっても、このころは石見・安芸の領国支配に向けて盛んに勢威を広げていく最中であり、他国の大名に対して、いわば身内同然の一族を与えるほどの余裕はなかったはずである。しかし、結果として頼之らは益田氏に仕えることになった。
【写真左】鷲影神社が祀られている高台を見る。
 写真は北麓の市民学習センター(旧石西県民文化会館)側から見たもので、高橋氏が来住する前は、益田氏の庶流益田兼家が赤城(せきじょう)を築いていた場所である。
 従って、高橋氏もおそらくこの赤城跡に居城を構えていたものと思われる。


 七尾城・その3でも述べたように、嘉吉の乱に際し、同年(嘉吉元年:1441)8月23日、兼堯は山名氏の一族山名道作の配下に属し、美作高尾の城(所在地不明)を落とし、細川持之から感状を受けたのを皮切りに、27日には東に進んで蟹坂(兵庫県明石市和坂)へ進撃したが、暫くそこに留まっている。その後は、九州へも発向している。この後も度々幕府の命によって各国(九州・中国・四国・畿内など)の戦地に赴いている。
【写真左】鷲影神社直下
 写真の高台右側に当社が祀られているが、この付近から急坂道となり、高低差が著しい。
 おそらく郭段が構成されていたのだろう。


 寛正4年(1463)12月20日、兼堯は戦乱平定により幕府に対し、帰国の願いを申し出た。しかし、幕府は再度の上洛を命じた(『萩閥7』)。兼堯は大げさに言えば、本貫地である石見益田に在居することはほとんどなく、戦に明け暮れていたと思える。こうした経緯を考えると、そもそも頼之父子は嘉吉の乱後、すぐには石見阿須那に帰城できず、かなり長い間、益田兼堯に随従・同行していたのではないだろうかとも考えられる。

高橋地頭鼻

 ところで、冒頭で紹介した「鷲影神社」から北に下がり、現在の益田市役所方面に向かうと、道路脇に「地頭鼻高橋本家地蔵菩薩」と呼ばれる地蔵菩薩が祀られている。
【写真左】地頭鼻高橋本家地蔵菩薩が祀られている小堂
 小堂の中には地蔵菩薩が納められている。








説明板より

“地頭鼻高橋本家地地蔵菩薩(通称赤城地蔵)
1、 建立の由来
 長禄2年高橋次郎左衛門尉頼久が、上吉田地頭となって8代子孫の吉左衛門頼勝の時、貞享3年倅新之助を亡くし、その供養のため正徳年間に地蔵菩薩を建立した。

 高橋本家は、次郎左衛門尉頼久より5代子孫の三郎左衛門尉頼泰の時、毛利氏に従って須佐に移住した益田氏の下を離れ上吉田に残り帰農し、以降「地頭鼻高橋家」と称した。
 明治になり地頭鼻高橋本家は休溢(現元町)の山手に屋敷を移したが、地蔵菩薩は建立場所(現市役所裏手)に留めた。

【写真左】正面からみた小堂
右には「子守子授け地蔵菩薩」、左には「地頭鼻高橋本家」と書かれた表札が掲げられている。





2、 近年の模様
 吉田地区における二大石造地蔵菩薩(赤城、今西)の内の一体であり、「子守子授け地蔵」として広く地域内外の信仰を集め、お参りが絶えない。
 特に次郎左衛門尉頼久より18代子孫の正喜は厚く敬い、毎年4月21日には先祖と共に供養を行っていた。現在も管理は地頭鼻高橋本家で引き継がれている。
(その経緯は「益田市史(矢富熊一郎著)370p~371p」、「益田市誌上巻(益田市誌編纂委員会)874p~875p」に記載されている)”

 以上のように、備中阿瀬尾城(馬醉木城)主であった高橋貞春の系譜は、石見阿須那(神稲大庭)の鷲影城へ入り、その後益田氏の招きで上吉田の地頭となっていくが、その後天正年間に至ると、頼恭(よりたか)は益田氏が毛利氏に属したことから、同6年(1578)の播磨上月城攻めに参陣している。

 なお、元亀年間、東予(愛媛県)の鷺ノ森城主・壬生川氏(河野氏家臣)が、周辺の諸豪に攻められたとき、毛利氏の命によって、救援に駆けつけた高橋某という将がいるが、次稿ではこれに関わる城址を紹介したい。


◎関連投稿
嶽山城(大阪府富田林市龍泉)