2009年12月24日木曜日

高津城(島根県益田市高津町上市)

高津城(たかつじょう)

●所在地 島根県益田市高津町上市
●登城日 2009年4月4日
● 築城期 建武年間(1334~38)
●築城者 高津長幸
●標高 50m(比高40m)
●遺構 郭、腰郭
【写真左】高津城遠望
 現在の万葉公園で、写真左側に柿本神社がある。 高津長幸が拠った建武年間には、このあたりが出丸として構築されていたようだ。



◆解説(参考文献「益田市誌(上巻)」、「益田市史」、サイト「吉見一族」その他)

 所在地は現在の益田市高津2という場所にあり、高津川が河口付近で白上川と合流する地点の北西部丘陵にある。高津川はそのあと、左に弧を描いて日本海にそそぐ。

 この丘陵地の西半分は萩・石見空港が設置され、東部に蟠竜湖県立自然公園と万葉公園があり、東端部には柿本神社が建っている。
【写真左】県立万葉公園の配置図
 この写真では分かりずらいが、左側の柿本神社付近一体が「鍋島出丸」といわれていた所で、東端に鍋島神社がまつってある。

 そこから一旦鞍部になった形状があるが、この付近が当時「風呂の峠」といわれた。さらに右側の広場や他の施設が点在している場所が、当時の本丸や他の郭などがあったところになる。(下段参照)



 高津城の城跡としての遺構は、従ってほとんど消滅しているが、資料からたどっていくと、現在の万葉公園付近に、「本丸」「二ノ平」「三ノ平」「四ノ平」「五ノ平」があったものと思われる。また、東端部の柿本神社本殿周囲と、さらに最先端の鍋島八幡宮のあたりが、「鍋島出丸」といわれたところのようだ。
【写真左】東口駐車場付近
 写真の谷間に当たるところに駐車場がある。当時はこの位置が大手口で、さらに登っていくとここから左に「鍋島出丸」、右に本丸が控えていた。



 高津長幸については、一般的に吉見氏の一族という定説が強いが、資料によってはまったく繋がりを持たないという説もある。

 これは、そもそも吉見氏の出自について、一部に確定した点がないことが原因である。

 このブログでは、それについて考証するほどの知見もないので、一般的な定説に従って、取り上げていきたい。
 長幸の父は、吉見頼行とされ、頼行はこのほかに8人の男子がいたという。

 先ず、長男・太郎頼直は父のあとを継いで、津和野城主となり、次男・頼祐は日原町の下瀬城に拠って、下瀬氏を称する。

 三男・頼見は上領に、四男・頼繁は六日市の注連川(しめかわ)に向かい、志目河氏を名乗った。(なお、志目河については、前稿五郎丸城(島根県鹿足郡吉賀町広石立戸)の際に、「指月城」から峰伝いに攻め入った途中の山城・「志目川(河)城」で取り上げている。従って、同上の築城者は、頼行の四男・吉見(志目河)頼繁と思われる。) 


 五男・義直、六男・直見、および七男、八男の後、九男として長幸がおり、高津の地に住んで高津長幸と称したという。資料によっては、父・頼行は12人の子供がいたという説もあるが、末子は九男・長幸というのが一般的のようだ。
【写真左】東口から右の本丸方面へ登る
 東口駐車場から右(西)へ登る階段がある。この斜面一帯を「郷土の森」と命名してあるが、当時はかなり険峻な切崖だったと思われる。


 この階段を上がると「子どもの広場」などが設置されている。この付近は、当時の「五ノ平」や「四ノ平」といわれた郭群だったと思われる。


 さて、高津長幸や父・頼行が活躍する主だった記録をたどってみたい。

 元弘3年(1333)、隠岐から脱出した後醍醐天皇は、船上山に拠って諸国に味方の軍を募った。石見からは佐波顕連、三隅兼連、周布彦次郎、益田兼衡・兼家・兼員など多くの武将が馳せ参じた。

 これを聞いた長門探題の北条時直は、それを阻止すべく伯耆へむかう準備をした。その情報を聞いた後醍醐天皇は、同年3月14日、長門探題に最も近い吉見一族に対して、討伐の綸旨を降した。頼行は誇りに感じたものの、彼自身はすでに70歳を超えて、体力的には無理があった。
【写真左】「子どもの広場」「太陽の広場」など
階段を上り切ると、上記の広場があるが、これと「まほろばの園」を含めたところが、「本丸」や「二の平」といわれたところと考えられる。




 そこで、頼行は息子である四男・志目河城主・頼繁を一軍の頭とし、副には七男・吉見七郎を添え、さらに、二軍の頭には、九男・高津長幸を配し征途に向かわせた。

 同月下旬、吉見・高津の両軍は、津和野および日本海側から西に向かい、長門国阿武郡を突破、大津郡三隅に達する。その後、長幸の長門探題攻略は大激戦の末、屠ったわけであるが、「国史眼」という書物に「山陰風動し、石見の高津道性(長幸)長門に迫る」と記されている。

 こうした結果、建武元年(1334)2月、論功行賞の結果、高津長幸は従五位播磨権守に叙せられ、頼行は子息の功績により、北条時直の旧領長門国阿武郡および周防国佐波郡・山城国久世郡・大和国宇多郡を賜った(萩藩閥閲録)。
【写真左】和風休憩所付近
 柿本神社の背後の小丘で、休憩所があるが、おそらくこの小丘が実質上の出丸ではなかったかと思われる。


 しかし、建武の新政後の状況は知られているように、南北朝の対立となって再び不安定な国情を引き起こした。

 石見における南北朝の構図は、「益田市誌(上巻)」に諸族の一覧表となって示されており、ここでは主だったものを取り上げるが、特徴的なのは、強大な権力を持っていた益田氏が、宗家と庶子家に分かれたことである。

南北それぞれの主だった一族をあげてみる。(◎は石見国外からの参戦者)

《南朝方》
  • 高津長幸(高津城主)、佐波顕連、内田三郎致景(二本松城主・豊田郷地頭)、吉見頼行(津和野城主)、領家恒仲(片木城主)、三隅兼連(三隅城主)、周布兼宗(周布郷惣領地頭)、福屋兼行(福屋地頭)、井村兼雄(小石見城主)、小笠原長光、◎日野邦光(前国司稲積城主)、◎新田義氏(派遣将軍)、◎大内弘直(周防国敷山城主)他

《北朝方》
  • 益田兼見(益田七尾城主)、虫追政国(長野庄惣政所)、乙吉十郎(乙吉地頭)、益田兼行(益田城主)、領家恒正(三星城主)、須子吉国(須子陣手山城主)、周布兼氏(兼宗総領)、吉川経明(津淵村地頭)、領家公恒、丸茂教元(丸茂・安富城主)、小笠原長胤、◎土屋定盛(周防国守護代)、上野頼兼(尊氏派遣将軍)、◎松田左近将監
(侍所)、◎武田信武、◎厚東武実、◎吉川実経
【写真左】鞍部の脇にある小丘
 万葉公園を建設する際、どの程度残存度があったものかまったく不明だが、この小丘も何らかの城塞施設として使用されたかもしれない。



 高津城に関するこのときの主だった動きとしては、暦応3年(1340)10月23日、北朝方将軍・上野頼兼らが、高津川の東麓須子山(今の陣手山)に陣を張り、川向いの高津城と対峙、これにより、高津城と連絡を取っていた東方の稲積城とを分断したことである。稲積城には日野邦光が拠っていた。

 これにより、最終的には激戦の結果、翌4年(1341)2月18日夜、稲積城も高津城も落城した。
記録によればその後、高津長幸は城を脱出し、一時行方をくらましたが、12年後(1353)北九州に走り、阿蘇・菊池両氏の間に往来して、戦陣の間を馳駆している(大日本史料)。

 また、「二階堂文書」によれば、その2年前(観応2年:正平6年)12月、少弐頼尚は、「高津播磨権守長幸」の代官が、二階堂行雄の所領である筑前国佐世村を横妨しているとのことで、筑前守護代にこれをやめさせるよう命令している。
【写真左】本丸跡地付近(広場)から崖を見る。
 公園として削平された個所は、遺構の原形をほとんど留めていないが、切崖個所はある程度想像ができる。

 高津城の標高は、わずか40mだが、その割に険峻な個所が多い。


 このように、長幸は最終的には上野頼兼らによって、敗走し再び石見の国に帰ることはできなかったが、最後まで戦いをし続けた武将であるようだ。
 特に、三隅兼連とは兄弟のような強い信頼関係があったらしく、本性(石見の高僧)から教門を受け、それぞれ道性(長幸)、信性(兼連)という法号を得たとある。

 また、柿本神社の東端にある「鍋島神社(八幡宮)」は、自領鎮護の氏神として長幸が深く敬虔したといわれている。また柿本人麻呂についても深い関心を抱いていたとのことである。
【写真左】柿本神社鳥居付近
 鍋島出丸があった場所であるが、現在は柿本神社としての知名度が高い。

 なお、鍋島神社を確認せず、写真を撮っていなかったのは、悔いが残る。たしかこの下の駐車場の脇に小さな祠があったので、それだと思われる。

【写真左】柿本神社本殿










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