2022年1月28日金曜日

土佐・中村城・その1(高知県四万十市中村丸之内)

 土佐・中村城(とさ・なかむらじょう)・その1

●所在地 高知県四万十市中村丸之内
●別名 為松城
●形態 平山城
●高さ 70m
●築城期 不明
●築城者 為松氏
●城主 為松氏、吉良親貞、山内氏
●遺構 郭、土塁等
●登城日 2005年6月10日、及び2017年5月21日

解説(参考資料『中村城跡調査報告書』1985年3月 中村市教育委員会 等)
 高知県の西部にある四万十市に築かれたのが、通称「中村城」といわれている城郭である。当城の歴史については不明な点が多いが、歴代城主とされる一条氏、長宗我部氏、山内氏が当地を治めた。
 今稿では主に初期の城主とされる一条氏について紹介したい。
【写真左】中村城遠望
 中村城の南方にある香山寺公園から俯瞰したもので、正面の小丘全体が中村城とされる。
 手前の川は四万十川。中央右側に模擬天守風の四万十市郷土博物館が見える。


土佐・一条氏

 土佐・一条氏(以下「一条氏」とする。」については、以前取り上げた河後森城(愛媛県北宇和郡松野町松丸)の稿でも触れているが、改めて同氏の経歴について見てみたい。

現地の説明板より

❝高知県指定史跡
一条教房墓
      指定年月日 昭和28年1月28日
        所在地 四万十市丸の内1639の1(妙華寺谷)

 一條教房は、応永30年(1423)京都の一條室町第で五摂家の一つである一條家の嫡子として生まれた。父は、摂政、関白、太政大臣を歴任した従一位一條兼良で、母は、権中納言中御門宜俊の娘である。
 長禄2年(1458)関白となり、寛正4年(1463)に辞し、この間に従一位に叙せられている。
【写真左】為松城
 中村城は別名為松城ともいわれる。為松城の名は、一条氏が土佐に入国する前の地元の豪族・為松氏の名から来ている。
 一条氏が土佐に入国以来為松氏は同氏の家臣として仕えたという。
 写真は為松城時代の詰(本丸)のあったところで、約800㎡の広さであったという。
 

 応仁2年(1468)9月、泉州堺から船出し、同年10月頃幡多ノ庄に着いた。そして中村に館をかまえ、以来一條氏は、五代百余年にわたり戦国大名として土佐西部を支配するとともに京文化を伝えた。

 文明12年(1480)58歳で逝去。墓はこの付近にあった妙華寺境内に祀られたようであるが、江戸時代に入り寺が退転すると、墓所は時の経過とともに人々に顧みられなくなったらしい。この墓碑は、後年教房の遺徳を慕う人々によりここに再建されたものである。
  平成8年3月1日
     四万十市教育委員会❞

【上図】土佐・一条家系図
 図中の〇数字は、土佐・一条氏の始祖から5代兼定に至るまでを示す。

教房、幡多庄中村に下向

 土佐一条氏の始祖となる教房が土佐の幡多(ノ)庄に下向したのは、説明板にもあるように応仁2年(1468)9月である。応仁の乱が勃発するのはこの前年(元年)の5月26日だが、それまで教房をはじめとする摂家等も在京のまま、戦乱が収まることを期待していたのだろう。

 しかし、この年の8月、大内政弘(鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)参照)が西軍に属して摂津国で東軍を破り入京を果たすと、いよいよ乱は激化した。あくる2年8月19日、教房の父・兼良及び、前内大臣九条政忠らは、戦乱を避け南下し奈良に赴いた。このとき、教房と父兼良は最後の別れをしたのだろう。
【写真左】土塁か
 北西の方向に向かったところで、道の左側がしばらく道路と並行して高くなっている。どの程度改変されたものか分からないが、土塁のような遺構に見える。
【写真左】中ノ森段
 さらに北に向かった位置に当たるが、現地は遊戯施設のようなものが建っており、遺構らしきものは消滅している。
 このあと、折り返して南に向かう。

 同年9月25日、教房は大平氏(下段参照)から回送された船に乗り、堺から船出し、26日土佐の神浦(甲浦)に着いた。この港は往古から使われてきた港で、畿内から土佐国に入る時の表玄関である。数日当地で休んだ後、10月1日出帆、一旦宇佐の猪ノ尻に着いた。
【写真左】一条教房の墓・その1
 教房の墓は、北側の中ノ森という場所の東麓に建立されている。
【写真左】一条教房の墓・その2



 宇佐の猪ノ尻とは、現在の土佐市宇佐町井尻のことで、土佐・蓮池城(高知県土佐市蓮池字土居)の稿でも述べたように、このころ蓮池城の城主は大平氏で、同氏が一条氏の土佐下向に大きくかかわっていたことが分かる。

 教房がそのあと、宇佐の猪ノ尻から中村に到着した日時は記録されていないが、おそらく10月下旬か、11月ごろだろう。教房が中村において最初に居館とした場所は不明だが、『大乗院寺社雑事記』(文明3年1月1日条)に、「家門御方前殿土佐波多中村館」と記され、これ以外に土佐御所・幡多御所・波多御所といった名が残る。

 因みに、『南路志』という史料には「愛宕山古城」という城郭名が記され、この場所で教房以後兼定までの5代が居住したと記されている。残念ながら、この場所が現在の中村城といわれている場所だったかどうかは確定していない。
【写真左】資料館側に向かう。
 旧二の丸といわれている箇所で、この先に資料館が建っている。
房家・房冬

 さて、教房は中村に下向してから12年後の文明12年(1480)10月5日に死去する。跡を継いだのが房家である。房家には兄・政房が居たが、応仁の乱において京で殺害されていたため、次男であった房家が跡を継いだ。この房家が長宗我部千王丸(のちの国親)(波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)参照)を養育する。

 房家は天文8年(1539)に死去し、跡を継いだのが房冬だが、彼は家督を継いだ2年後の同10年に死去する。房冬には、同氏4代となる房基と、側室である大内義隆の姉との間に生まれた晴持がいた。
 晴持は後に姉の実家である山口の大内義隆の養嗣子となり、月山富田城攻めに大内軍として参陣するも敗死することになる。
【写真左】大内神社
 所在地 島根県安来市揖屋町
 大内晴持を祀ったもので、天文11年(1542)、大内義隆が月山富田城攻めで大敗し、中海に停泊していた船で敗走すべく乗ろうとしたら、大勢の敗兵が乗ったため船は沈没し溺死した。享年20歳。
 その直後、地元の綱元であった吉儀惣右衛門が介護したものの亡くなり、密かに御霊を祀ったのがこの神社である。


房基から兼定へ

 房家が亡くなってから跡を継いだ房冬もわずか2年で亡くなったこともあり、このころ一条家は不安定な状況だったと思われるが、跡を継いだのが房基である。
 天文10年(1541)に家督を継いだ房基は一条家を強固なものにすべく奮闘した。このころ東隣となる高岡郡内のほとんどを支配していた豪族・津野氏との戦いが多くみられる。その房基も、家督を継いでわずか8年で死去(自害)し、その跡を継いだのが最後の当主となる兼定である。
【写真左】山之神社
 旧二の丸に向かう途中の左手にあるもので、この辺りでは最高所となる位置と思われる。
 現地には最高所に水道タンクが設置され、その少し下には「山之神社」と記された祠が祀られている。
 タンク周辺部はさほど広くはないものの、この場所が主郭ではなかったかと思われる。

兼定の苦悩

 父房基が自害した理由は諸説あるが、28歳という若さで亡くなったことから、嫡男兼定はこのときわずか7歳である。当然ながら後見人が必要で、その任に当たったのが、房冬の弟・一条房通である。

 永禄元年(1558)、すなわち兼定15歳のとき、宇都宮豊綱の娘を娶る。宇都宮豊綱は、伊予の大洲城主で、この婚儀は文字通り同盟を目的としたものだったが、6年後の永禄7年離別し、豊後の大友義鎮、すなわち宗麟(大友宗麟墓地参照)の長女を娶り大友氏との盟約を結んだ。
【写真左】二の丸・その1
 資料館が建っている箇所で、土塁などの遺構が残る(下の写真参照)。
【写真左】二の丸・その2
 高さ1.5~2mの土塁が残る。


 兼定は永禄11年(1568)、宇都宮豊綱を支援し伊予に入ったが、安芸の毛利氏の援助を受けた河野氏と戦い大敗。さらに追い打ちをかけたのが、土佐で急激に台頭してきた長宗我部元親の猛攻である。

 元親は土佐全土に版図を拡大すべく西進してきた。これに対し、兼定は妹婿であった土佐・安芸城(高知県安芸市土居)の城主・国虎と呼応し、元親を挟み撃ちにする計画だったが、永禄12年(1569)国虎が元親に敗れ、兼定はさらに劣勢に陥った。
【写真左】土塁
 土塁の天端から見たもので、半円状の形で囲繞している。

豊後大友氏に奔る

 こうしたこともあって、このころから、筆頭家老・土居宗珊を無実の罪で殺害するなど、次第に領主としてのまともな判断ができなくなり、家臣たちから非難を浴び、天正元年(1573)9月、ついに強制的に隠居を余儀なくされた。

 翌2年2月にはついに追放され、豊後・臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)に逃れ大友氏を頼ることになる。一旦豊後に渡った兼定であったが、それでも中村の地に固執するものがあったのだろう、伊予高森城の城主・梶谷景則の下に行き、土佐奪還のため兵を募っている。
 因みに、豊後大友氏の庇護にあったことから、彼もまたこのときキリスト教に入信、ドン・パウロの洗礼名を受けている。
【写真左】四万十市郷土博物館
 二の丸の一角には冒頭で紹介した天守風の建物が建つ。名称は四万十市郷土博物館。
 管理人が訪れたときは閉館中で入っていないが、現在は開館しているようだ。

兼定の最期

 天正3年(1575)7月、大友氏の支援を受け豊後水道を渡海し、土佐に入った。しかし、四万十川の戦いで大敗、以後一条氏の復活は潰えてしまう。土佐一条氏の滅亡である。兼定はその後戸島(愛媛県宇和島市)に隠棲、天正13年(1585)7月同島で死去した。享年42歳。
【写真左】空堀か
 土塁の外側に見えたもので、整備されていないため断定できないが、空堀のようにも見える。




次稿に続く
 次稿では一条氏滅亡後の動きと、中村城(為松城)周辺の遺構などを紹介したい。

2022年1月10日月曜日

播磨・尼子山城(兵庫県赤穂市高野)

 播磨・尼子山城(はりま・あまごやまじょう)

●所在地 兵庫県赤穂市高野
●別名 雨乞城
●高さ 259m(比高249m)
●築城期 天文7年(1538)
●築城者 尼子晴久
●城主 尼子晴久、義久
●遺構 郭、土塀等
●登城日 2017年5月11日

解説(参考資料 『尼子氏の城郭と合戦』寺井毅著 戎光出版等)
 播磨・尼子山城は、以前紹介した児島高徳の墓(兵庫県赤穂市坂越)がある坂越の北隣高野の北方に聳える尼子山に築かれた城郭で、出雲の尼子氏が築いたといわれる。当城の西麓は千種川が流れ、赤穂の港に注ぐ。
【写真左】尼子山城遠望
 南側から見たもので、写真には写っていないが、左側には千種川が流れている。





 現地には尼子山城についてまとめた説明板はなく、登城ルートの各所に標柱が建てられ、その柱面に小文が記されている。以下それらをまとめて紹介して置く。

標柱より
❝尼子山城跡
 標高259mの尼子山にある。城主は尼子詮久(後の晴久)の長子・尼子義久といわれている。1563年に落城したとされる。❞

❝海抜259mの山上には、東西35間、南北40間の本丸跡のほか、外郭に屋敷跡の遺構が残っている。❞

❞尼子山城は尼子将監義久の居城であったが、永禄6年(1563)毛利元就に背後から攻められ落城❞

【写真左】尼子神社
 登城口のある南麓には尼子神社が祀られている。祭神は尼子氏嫡流最後の当主・義久とされている。
 創建年代など不明だが、おそらく尼子氏が滅亡したあと地元の人々によって祀られたのだろう。なお、これとは別に当社の奥宮が後段で紹介するように主郭跡に祀られている。


尼子晴久(詮久)播磨国に入る

 出雲・尼子氏が播磨国に触手を伸ばしたことは以前にも少し触れているが、このことについて改めて推考してみたい。

 天文6年(1537)12月8日、尼子詮久は本願寺光教に馬代等を贈った。それから6日後の14日、尼子詮久軍は播磨国に入り、本願寺の光教は、播磨守護であった赤松政村の動向を詮久に問い、詮久の勝利を祝している(『証如日記』)。
【写真左】尼子将監の墓
 尼子神社の参道前から登城道が始まるが、しばらく進むと、尼子将監の墓がある。

 義久の墓とされるが、義久は実際には長門(尼子義久の墓(山口県阿武郡阿武町大字奈古 大覚寺)参照)で亡くなっている。
 墓石は近世の様式となっていることから新たに建立されたものだろう。
【写真左】登城道
 尼子将監の墓を参拝したあと、再び登城開始。
 中腹までは歩きやすいが、後半になると岩場が多く出てくる。



 詮久とは後の晴久のことで、この年(天文6年)、祖父経久は隠居の形をとり、孫の晴久が尼子家の家督を継ぎ当主となった。
 光教とは当時の浄土真宗本願寺派第10世宗主・証如のことである三木城(兵庫県三木市上の丸)参照)
 また、赤松政村とは、播磨・備前・美作の守護であった赤松氏第11代当主で、別名赤松晴政置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)参照)である。
【写真左】眼下に千種川が見えてきた。
 右から左に流れているが、下流部には赤穂の町が控えている。





 『証如日記』によれば、天文7年11月5日、祖父経久が播磨国に入り、赤松晴政は淡路に奔った。同日記には孫の晴久の名は見えていないようだが、おそらく経久と同行していたと思われる。尼子氏の勝利に対し、証如は祝いの品を送った。

 天文8年(1539)11月25日、再び晴久は播磨国で赤松晴政を破った(『証如書札集』)。この戦いは尼子氏が播磨に侵攻した最大のもので、最初に龍野城を陥落させ、さらには東に進んで別所就治の三木城を攻めた。当城には度々尼子に追討されていた赤松晴政が別所氏に匿われていたが、別所氏がその後尼子氏についたため、今度は晴政は堺へ逃亡するはめになる。
【写真左】分岐点
 岩場の多くなった道を進むと、ここで分岐点に差し掛かる。右に行くと上高野に降りて行く。




赤松討伐と将軍義晴 

 以上がこの頃の尼子氏の主だった動きである。ではなぜ、尼子氏が播磨国に侵攻してきたのだろうか。それについては二つのことが考えられる。
 一つは赤松氏と対立した浦上氏からの要請である。もともと浦上氏は播磨・備前守護であった赤松氏の守護代としてその任にあったが、いわゆる下剋上の時代である、浦上氏は赤松氏と対立、西播磨を支配下に治めていく。しかし、浦上氏の圧迫を受けた赤松氏もその後度々浦上氏と抗争を広げていった。こうした中、浦上氏は尼子氏にさらなる支援を求めた。
【写真左】鳥居が見えてきた。
 この辺りからはほとんど岩場となり、傾斜もきつくなるが、視界が広がっているので気持ちがいい。




 もう一つの理由は、当時の室町幕府将軍足利義晴が、主として西国各地にいる盟主に対し、上洛を求めていたことである。当時の幕府は極めて脆弱で、そのためにも義晴は彼ら西国の強豪に対し、在京を条件とし幕政に参加を求め、幕府の再興を求めていたのである。

 ところが、尼子氏が播磨を席巻し始めると、義晴は次第に尼子氏の武威に警戒するようになった。そして、大内氏に対し尼子氏の勢力を削ぐように仕向けている。
【写真左】鳥居
 左右の柱に文字が刻まれているが、かなり劣化しているため解読は困難。麓の尼子神社の奥宮として建立されたものだろう。
 この鳥居を過ぎるといよいよ城域に入る。


根城・城山城と尼子山城

 このように尼子氏による播磨国進出を見たとき、同国内に尼子氏が拠点とする城郭、すなわち根城を確保していたことは当然と思われる。

 伝承では、初期の龍野城攻めの際、たつの市新宮町馬立の城山城(亀山城)を足掛かりとし、この城を2年にわたって修復、播磨支配の根城としたといわれる。
 因みに、当城もまた赤松氏の居城であったところで、嘉吉の乱(嘉吉元年・1441年)に落城後、廃城となっていた城である。城山城は揖保川沿いにあり、ここから南西へおよそ25キロ向かった千種川沿いにあるのが今稿の尼子山城である。
【写真左】主郭
 最高所(259m)に当たる位置で、規模は長径(東西)80m×短径(南北)20m前後。東方で少し南に屈折している。
 赤い鳥居の奥に尼子神社(奥宮)が鎮座している。


 前段で述べた尼子氏の播磨侵攻の記録から考えると、初期の城山城は天文6年・7年(1537~38)頃の在城と考えられ、尼子山城は城山城を根城としつつ、天文7年・8年(1538~39)頃にかけて築城されていったものと思われる。

 これら二つの城を築城した目的は前述したように、播磨守護を奪還しようとした赤松氏に対するもので、尼子氏が具体的に攻略した城郭は、既述した龍野城、三木城の他、以前紹介した赤松祐尚の播磨・小谷城(兵庫県加西市北条町小谷字城山)が記録されているが、これ以外の赤松氏絡みの城郭もあったものと思われる。
【写真左】尼子山城跡の標柱
 左面には、冒頭で紹介したように、「城主は尼子晴久の長子・尼子義久といわれている」と書かれている。



尼子山城の落城

 ところで、現地の標柱に❞尼子山城は尼子将監義久の居城であったが、永禄6年(1563)毛利元就に背後から攻められ落城❞と記されている。

 傍証となる史料などが付記されていないため、なんとも判断がつかないが、出雲国における尼子氏のこの当時の状況を記した文書を見る限り、永禄6年に尼子氏並びに毛利氏が播磨国において戦っている記録は皆無である。

 義久自身この前年から毛利方による出雲国侵攻に対する防戦に追われ、元就が翌6年10月29日、月山富田城の尼子十旗の第一旗・白鹿城(島根県松江市法吉町)を攻略している。こうしたことから、仮に尼子山城が落城したとすれば、これ以前と考えられる。
【写真左】主郭東側
 右に見える建物が尼子神社奥宮。尼子氏時代にも物見櫓のような建物が建っていたのかもしれない。
【写真左】石積
 主郭北側(奥宮裏)には石積が残る。

【写真左】主郭から南方に播磨灘を見る。
 主郭からは雑木があるため余り視界はよくないが、それでも播磨灘が確認できる。
 この写真では、奥には家島諸島、手前に以前紹介した坂越浦城(兵庫県赤穂市坂越)に隣接する坂越茶臼山城が見える。
 このあと、主郭の西側に回り込み、北側に配置された郭段に向かう。
【写真左】北側の郭・その1
 郭段の構成は、主郭から北に向かってまとまった郭が約5段の形で下に向かっている。
 この写真は最初のもので、長径60m前後、奥行は5~10m程度のもの。
【写真左】大岩
 最初の段から振り返ると、真上に大岩が立っていた。
【写真左】北側の郭・その2
 最初の段を西側から見たもので、前述したように60m前後はあるだろう。また普請が丁寧だ。


【写真左】北側の郭・その3
 次の段に降りて上を見たもの。
【写真左】北側の郭・その4
 更に下の段へ降りる。
【写真左】北側の郭・その5
 3段目あたりだったと思うが、この個所の郭間の区画ははっきりしている。
【写真左】北側の郭・その6
 更に下の段を見る。下に行くに従って段の区切りとなる縁が劣化し、郭平面が北に向かって下がる傾向となる。
 このあと、東側に回り込み主郭に向かって登って行く。
【写真左】主郭の東側
 踏査した印象では東側にもともと犬走のような道があったように見えた。
 写真はその道筋をたどって一旦上を目指した個所で、上段に小屋(トイレか)が見える。
【写真左】北東部の郭
 上述したトイレのある箇所で、帯郭のような遺構。
【写真左】さらに東側のエリア
 先ほどの位置からさらに東に進むと、下方に郭段らしきものが見えたので、再び降りて行く。
 このあたりも小郭の段がある。
【写真左】郭
 右側に踏み跡の道を発見したので、その道を降りて行くと、御覧の郭
 中央の樹木に「➡」マークがついている。この先にも遺構があるという意味か。
 さらに降りて行く。
【写真左】下の郭
 主だった郭段の下部に当たる箇所で、北の方へ下がった面になっているが、規模は大きい。
【写真左】まだ続く郭段
 この個所も広い。
【写真左】先客記録?
 平成29年1月に姫路市夢前町の人が踏査されているようだ。
【写真左】水平を保った郭
 ほぼ最下段の位置と思われるが、削平が丁寧な郭だ。
【写真左】尼子山湧泉の案内板
 郭段の東側に「尼子山湧泉」の案内板が設置してある。100mほど下がったところにあるようだが、この時点で大分疲労していたので向かっていない。
 おそらく尼子山城時代にはこの湧泉は「水の手」として使われていたのだろう。
【写真左】主郭の南東部
 再び主郭に戻るため、東側の方から登ると、南東側に伸びる郭にたどり着いた。
 この個所も広い。
【写真左】尼子山城遠望
 西麓の上高野付近から見たもので、こちらの面は岩塊が目立つ。


2022年1月1日土曜日

備後・小林山城(広島県府中市木野山町)

 備後・小林山城(びんご・ごばやしやまじょう)

●所在地 広島県府中市木野山町(愛宕神社)
●別名 愛宕城
●高さ 290m/70m
●築城期 不明(南北朝期か)
●城主 木野山氏
●遺構 郭、堀
●備考 愛宕神社
●登城日 2017年5月7日

◆解説
 広島県の府中市を流れるのが一級河川芦田川だが、この支流阿字川を遡っていくと、木野山町に至る。同町で並走する県道24号線の途中から枝分かれして東に伸びるのが県道402号線で、これを600m程進むと、途中で右に登る坂道があり、その先に松林寺が建立されている。この松林寺の北方に祀られているのが愛宕神社で、小林山城ともいう。
【写真左】小林山城遠望
 麓の松林寺側から見たもの。









現地の説明板より

❝新府中風土記めぐり    松林寺と愛宕城跡

 南北両朝にわかれての戦国争乱のとき、南軍に与した小林城(愛宕城)の城主木野山治郎左衛門芥川吉行は、北軍と戦って敗れ自刃しました。
 二代目城主が亡父供養のため一寺を建立(小林寺・現在の松林寺)し、里人は悲運の城主を祭神に城址に神社を建立して城主の遺徳を追慕しました。愛宕神社です。
 のち愛宕神社は、加具土神(かぐつぎのみこと)、奥津姫神などの諸神を合祀しました。
 松林寺の境内から愛宕神社の森を見上げると、武運拙く敗れ去った武将の痛恨の慟哭が聞こえるようです。
   府中商工会議所❞
【写真左】登城道
 登城道というより参道といった方がいいかもしれないが、主郭には愛宕神社が祀られているので、歩きやすいように階段が敷設してある。

 なお、駐車場は松林寺の隣に空き地があり、そこに停めることができる。


木野山治郎左衛門芥川吉行

 小林山城の別名は、愛宕神社が祀られていることから愛宕城ともいう。築城期・築城者は不明だが、説明板にある南北朝時代の城主・木野山治郎左衛門芥川吉行(以下「木野山左衛門」とする。)が築城者であったと推測される。
【写真左】急な階段
 しばらく階段を登って行くと、途中で緩やかになるが、その後ごらんのような急階段となる。切岸部分に当たるためだろう(下の写真参照)。


 木野山周辺での南北朝時代の動きについては、手元に資料がないため詳しい事は分からない。

 ただ、ここから北に13キロほど向かった上下町にある翁山城(広島県府中市上下町上下)の稿でも紹介したように、北朝方であった翁山城主長谷部氏が、南朝方の有福城々主・竹内氏と戦っていたことが知られ、このことから、南朝方であった木野山左衛門も竹内氏らと行動を共にしていたと考えられる。
【写真左】切岸
 ほぼ直線の階段としたため少し息が上がる。

 






 長谷部氏はその数々の戦功によって、暦応3年(1340)上下の地頭に任じられているので、木野山左衛門はおそらくこれ以前に長谷部氏らによって攻略されたものと思われる。

 因みに、木野山左衛門は芥川吉行という名もつけている。このことから、もともと左衛門は当地の地侍でなく、芥川の姓から判断するに、摂津国から下向してきた武将ではないかと推測される。
【写真左】鳥居が見えてきた。
 急な階段を過ぎるとここで緩やかな段がある。この付近が腰郭だったのだろう。
【写真左】本丸に入っていく。
手前には鳥居がある。
【写真左】鳥居
額束には「愛宕宮」と記されている。
【写真左】本丸・その1
 愛宕神社境内だが、奥行は40m×(5~10m)と予想以上に広い。
【写真左】本丸・その2
南側の切岸。雑木が生えていて分かりずらいが、なかなか険峻である。
【写真左】本丸・その3
 奥に向かった場所で、本殿が祀られている。この付近がもっとも広い。
【写真左】愛宕神社本殿
よく見ると、名前が愛宕神社ではなく、「合併神社」と書かれている。おそらく愛宕神社を創建したあと、加具土神、奥津姫神などの諸神を合祀したため、名称も合併としたのだろう。
【写真左】腰郭
 本丸の北西側には一段下がった腰郭がある。
【写真左】本殿裏側
 思った以上に広いことから、小林山城時代この主郭部分には建物も建っていたのかもしれない
【写真左】切岸
 主郭外周部の切岸はほとんど絶壁に近い険峻なもので、比高の割に防御性が高いと言える。
【写真左】堀切か
 小林山城に登る階段の脇を走る道路は切通しのような形状だが、当時はこの個所が堀切であった可能性が高い。
【写真左】松林寺
 二代目城主が亡父供養のため建立した小林寺で、現在の松林寺。曹洞宗の寺院で、定期手に座禅が行われているようだ。
【写真左】松林寺の庭園
 規模は小さいものだが、きれいに手入れがしてあり和む。