波川玄蕃城(はかわげんばじょう)
●所在地 高知県吾川郡いの町波川
●築城期 天正初年(1573年)頃
●築城者 波川玄蕃頭清宗
●高さ 171m
●遺構 土塁、郭、虎口等
●指定 いの町保護文化財 記念物(史跡)
●備考 波川本願寺
●登城日 2013年12月25日
◆解説(参考サイト『城郭放浪記』等)
波川玄蕃城は、現在の吾川郡いの町の南西端にあって、北東麓には仁淀川が流れ、その対岸から東へ約8キロほどのところには、朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)が位置する。
【写真左】波川玄蕃城遠望
狭く、ガードレールもない急坂・急カーブになった道を車で登ると、南側に立派な駐車場がある。
運転に自信のない人や、大きな車の場合は麓の本願寺辺りに駐車して歩いてきた方がいいかもしれない。
写真はその駐車場から見たもの。
現地の説明板より
“伊野町保護文化財 第17号 昭和46年2月25日指定
記念物(史跡)
波川玄蕃城跡 所有者 伊野町
波川玄蕃城は、天正初年(1573年頃)波川玄蕃頭清宗が築城したものである。
清宗は、長宗我部元親の妹婿であったが、元親に謀叛を企てたといわれ天正8年に阿州海部(徳島県海部町)で切腹を切らされたと伝えられる。
城は清宗の死後一族が元親に亡ぼされて消滅したものと推定せられている。
この城は、山城であって海抜171mにあり、周囲にめぐらした土塁が現存している。
西北隅、及び西南に出入口の跡があり、本丸の下段に二の丸がある。
伊野町教育委員会”
【写真左】主郭の下段附近
旧二の丸といわれていたところで、駐車場から尾根伝いに伸びる道を登っていくと、そのままこの位置にたどり着く。
歩道整備されたせいか、遺構がどの程度まで残っているのか不明。
主郭はこの写真の右側の切崖を登っていく。
【写真左】虎口付近
少し傾斜のある階段を登ると、すぐに主郭入口の虎口が待っている。
波川清宗
波川清宗は、説明板にもあるように長宗我部元親の妹を妻として迎えている。これは、元親の父国親の時代から側近として仕えていたことからである。国親の時代、一条兼定を下した功績によって国親の娘を迎え長宗我部一族の家臣となった。
ところで、毛利氏が伊予国に進出し始めたのは、永禄10年(1567)頃である。これは長年の敵であった山陰の雄・尼子氏の居城月山富田城が、その前年の永禄9年11月ついに落城し、一応の目途が立ったことから動き出したものである。
【写真左】石碑と説明板
主郭の脇に設置されている。このあたりが丁度三角点になる。
毛利氏の四国における動きが始まる前、四国では南予地域を巡って、伊予の河野通宣と、土佐の一乗兼定が激しく争い、これに地元宇和郡の西園寺氏や、喜多郡の宇都宮氏らが絡んでいった。
一条氏はもともと長門・周防の大内氏と強いつながりを持っていたが、大内氏が滅ぶと、九州豊後の大友氏と結ぶようになった。
そうした情況の中、河野氏や一条氏のどちらにも積極的に与していなかった西園寺氏や、宇都宮氏らは両者から盛んに牽制をうけることになり、永禄10年頃から伊予河野氏の重臣来島通康(宮島・勝山城と塔の岡(広島県廿日市市宮島町)参照)や、平岡房実(荏原城(愛媛県松山市恵原町)参照)らが南下してきた。
【写真左】土塁で囲繞された主郭
主郭はご覧のような高さ3m前後の土塁で囲まれている。
横10m×縦15m程度のもので、比較的小規模な主郭である。
中央には現在電波塔のような施設が建っている。
ところで、河野氏の重臣来島通康の妻は小早川隆景の養女(宍戸隆家の娘)で、毛利氏が弘治元年の厳島合戦において陶晴賢を破った際、通康の水軍に負うところが大であった。
そして、通康らが南予支配(対一条氏の前線基地)の拠点として宇和・喜多両郡の境目の城・鳥坂城(愛媛県西予市宇和町久保)を築いて間もない頃、通康は急病に罹り、その後道後に帰陣するも死去してしまった。
【写真左】北端部の郭
主郭から再び降りて、北側の郭に向かう。帯郭状の遺構で、二の丸の一部とも思える。
河野氏の中心人物でもあった通康の急死は同氏一族にとって大きな痛手となり、果たせるかな、この虚をついて土佐一条氏の一雄津野定勝が幡多衆を率いて伊予に攻め込んだ。
このころ、出雲の尼子氏を降して間もなかった毛利氏だが、一方では北九州において大友方との抗戦も続き、同氏にとっては伊予にもまとまった援軍を直ぐに送ることができない状態であり、これに対処する毛利方の方針もすぐにはまとまらなかった。
【写真左】波川玄蕃城から東方を望む。
当城の北側から東にかけては、四国三大河川の一つ仁淀川が大きく迂回している。
手前の谷には後段で紹介している波川氏菩提寺の本願寺があり、前方には、清宗亡き後、残った一族が、長宗我部元親と戦い討死した鎌田城が見える(未登城)。
毛利氏の伊予出兵
このため、小早川隆景は先ずは重臣の乃美宗勝(賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)参照)を先発隊として伊予に送り込んだ。そのころ最大の窮地に陥っていた来島一族の村上吉継が守備する鳥坂城では、津野定勝や菅田(大野)直之ら一条氏軍の猛攻を受けていた。
【写真左】北方を見る。
玄蕃城の北方約1キロの位置には、麓城という小規模な城塞が見える。当城については詳細は不明だが、玄蕃城の支城と思われる。
波川氏の出自については諸説あるが、蘇我氏の後裔・蘇我国光が建久年間に当地に下向し、その後当地名である波川氏を名乗ったといわれている。このため、近くには蘇我神社が祀られている。
宗勝が支援に入るや、忽ち形勢は逆転、その後吉川元春・小早川隆景らが伊予に南下していくと、瞬く間に宇都宮氏の本拠(地蔵嶽城・後の大洲城)を含め、主だった一条氏の西予方面における支配地が毛利方に奪取された。永禄11年(1568)4月のことである。
この戦いのあと、毛利軍はしばらく伊予に留まり、一条氏の動きを監視するべく、また一方では、九州・豊後大友氏の戦況を睨むため、松山市の西方に浮かぶ興居島(ごごしま)に在陣した。そして毛利氏が本拠地安芸に帰ったのは5月上旬といわれている。
【写真左】波川玄蕃菩提寺・本願寺
玄蕃城の東麓に建立されている寺院で、同氏の菩提寺といわれる。
現在は無住のようだ。
伊予の梟雄・菅田(大野)直之
さて、この毛利氏による伊予国支援の動きに際し、鳥坂城攻めで一条氏に属していた菅田(大野)直之については、戦国時代の伊予国における梟雄(きょうゆう)の代表格といえるだろう。
元々大洲に本拠を持つ宇都宮氏の家臣であったが、後に主君(舅)を暗殺(別説あり)し、宇都宮氏の居城地蔵ヶ嶽城(後の大洲城)を手中にした。その後、河野氏の猛攻に遭うと早々と降伏し、当時河野氏の筆頭家老であった直之の実兄・直昌(なおしげ)を頼り、河野氏の配下となることを条件に自刃を免れた。しかし、もともと一条氏(後に長宗我部氏)に属していたこともあって、その後再び長宗我部氏に寝返った。
【写真左】墓石
波川家一族が滅んだものの、地元の方によって供物や花などが手向けられている。
清宗に対する元親の処置
このとき、波川清宗は長宗我部氏に帰順しようとした直之を無視したらしく、さらに毛利方が伊予国境を越え、土佐国へ進攻しないことを条件とした和睦を小早川隆景と結んだという。しかし、清宗がとったこの行為は、元親の逆鱗に触れ蟄居させられた。
梟雄・直之の度重なる寝返りや、それまでの行動は清宗の耳目に当然入っており、許容できる範囲を超えていたのだろう。そのため、救いの手を差し出すことを憚ったと推測される。
しかし、毛利方と結んだ和睦は独断であったため、元親にとっては看過できないものとなり、厳しい処置を取らざるを得なかった。
【写真左】五輪塔群
石積みと五輪塔が混在したような光景だが、どちらにしても夥しい数である。
鎌田城で討死した波川一族のものと思われる。
この処置に不満を抱いた清宗は、その後の天正7年(1579)、謀反を企てたるも露見し、逃れて当時阿波国海部にあった元親の実弟香宗我部親泰を頼ったが、望み叶わず自害を遂げた。
なお、清宗亡き後、残った一族は鎌田城(いの町波川フルオチ・写真参照)において籠城し、長宗我部軍と交戦したが衆寡敵せず、ほとんどが討死したという。
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【写真左】波川玄蕃城遠望
狭く、ガードレールもない急坂・急カーブになった道を車で登ると、南側に立派な駐車場がある。
運転に自信のない人や、大きな車の場合は麓の本願寺辺りに駐車して歩いてきた方がいいかもしれない。
写真はその駐車場から見たもの。
現地の説明板より
“伊野町保護文化財 第17号 昭和46年2月25日指定
記念物(史跡)
波川玄蕃城跡 所有者 伊野町
波川玄蕃城は、天正初年(1573年頃)波川玄蕃頭清宗が築城したものである。
清宗は、長宗我部元親の妹婿であったが、元親に謀叛を企てたといわれ天正8年に阿州海部(徳島県海部町)で切腹を切らされたと伝えられる。
城は清宗の死後一族が元親に亡ぼされて消滅したものと推定せられている。
この城は、山城であって海抜171mにあり、周囲にめぐらした土塁が現存している。
西北隅、及び西南に出入口の跡があり、本丸の下段に二の丸がある。
伊野町教育委員会”
【写真左】主郭の下段附近
旧二の丸といわれていたところで、駐車場から尾根伝いに伸びる道を登っていくと、そのままこの位置にたどり着く。
歩道整備されたせいか、遺構がどの程度まで残っているのか不明。
主郭はこの写真の右側の切崖を登っていく。
【写真左】虎口付近
少し傾斜のある階段を登ると、すぐに主郭入口の虎口が待っている。
波川清宗
波川清宗は、説明板にもあるように長宗我部元親の妹を妻として迎えている。これは、元親の父国親の時代から側近として仕えていたことからである。国親の時代、一条兼定を下した功績によって国親の娘を迎え長宗我部一族の家臣となった。
ところで、毛利氏が伊予国に進出し始めたのは、永禄10年(1567)頃である。これは長年の敵であった山陰の雄・尼子氏の居城月山富田城が、その前年の永禄9年11月ついに落城し、一応の目途が立ったことから動き出したものである。
【写真左】石碑と説明板
主郭の脇に設置されている。このあたりが丁度三角点になる。
毛利氏の四国における動きが始まる前、四国では南予地域を巡って、伊予の河野通宣と、土佐の一乗兼定が激しく争い、これに地元宇和郡の西園寺氏や、喜多郡の宇都宮氏らが絡んでいった。
一条氏はもともと長門・周防の大内氏と強いつながりを持っていたが、大内氏が滅ぶと、九州豊後の大友氏と結ぶようになった。
そうした情況の中、河野氏や一条氏のどちらにも積極的に与していなかった西園寺氏や、宇都宮氏らは両者から盛んに牽制をうけることになり、永禄10年頃から伊予河野氏の重臣来島通康(宮島・勝山城と塔の岡(広島県廿日市市宮島町)参照)や、平岡房実(荏原城(愛媛県松山市恵原町)参照)らが南下してきた。
【写真左】土塁で囲繞された主郭
主郭はご覧のような高さ3m前後の土塁で囲まれている。
横10m×縦15m程度のもので、比較的小規模な主郭である。
中央には現在電波塔のような施設が建っている。
ところで、河野氏の重臣来島通康の妻は小早川隆景の養女(宍戸隆家の娘)で、毛利氏が弘治元年の厳島合戦において陶晴賢を破った際、通康の水軍に負うところが大であった。
そして、通康らが南予支配(対一条氏の前線基地)の拠点として宇和・喜多両郡の境目の城・鳥坂城(愛媛県西予市宇和町久保)を築いて間もない頃、通康は急病に罹り、その後道後に帰陣するも死去してしまった。
主郭から再び降りて、北側の郭に向かう。帯郭状の遺構で、二の丸の一部とも思える。
河野氏の中心人物でもあった通康の急死は同氏一族にとって大きな痛手となり、果たせるかな、この虚をついて土佐一条氏の一雄津野定勝が幡多衆を率いて伊予に攻め込んだ。
このころ、出雲の尼子氏を降して間もなかった毛利氏だが、一方では北九州において大友方との抗戦も続き、同氏にとっては伊予にもまとまった援軍を直ぐに送ることができない状態であり、これに対処する毛利方の方針もすぐにはまとまらなかった。
【写真左】波川玄蕃城から東方を望む。
当城の北側から東にかけては、四国三大河川の一つ仁淀川が大きく迂回している。
手前の谷には後段で紹介している波川氏菩提寺の本願寺があり、前方には、清宗亡き後、残った一族が、長宗我部元親と戦い討死した鎌田城が見える(未登城)。
毛利氏の伊予出兵
このため、小早川隆景は先ずは重臣の乃美宗勝(賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)参照)を先発隊として伊予に送り込んだ。そのころ最大の窮地に陥っていた来島一族の村上吉継が守備する鳥坂城では、津野定勝や菅田(大野)直之ら一条氏軍の猛攻を受けていた。
【写真左】北方を見る。
玄蕃城の北方約1キロの位置には、麓城という小規模な城塞が見える。当城については詳細は不明だが、玄蕃城の支城と思われる。
波川氏の出自については諸説あるが、蘇我氏の後裔・蘇我国光が建久年間に当地に下向し、その後当地名である波川氏を名乗ったといわれている。このため、近くには蘇我神社が祀られている。
宗勝が支援に入るや、忽ち形勢は逆転、その後吉川元春・小早川隆景らが伊予に南下していくと、瞬く間に宇都宮氏の本拠(地蔵嶽城・後の大洲城)を含め、主だった一条氏の西予方面における支配地が毛利方に奪取された。永禄11年(1568)4月のことである。
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【写真左】波川玄蕃菩提寺・本願寺
玄蕃城の東麓に建立されている寺院で、同氏の菩提寺といわれる。
現在は無住のようだ。
伊予の梟雄・菅田(大野)直之
さて、この毛利氏による伊予国支援の動きに際し、鳥坂城攻めで一条氏に属していた菅田(大野)直之については、戦国時代の伊予国における梟雄(きょうゆう)の代表格といえるだろう。
元々大洲に本拠を持つ宇都宮氏の家臣であったが、後に主君(舅)を暗殺(別説あり)し、宇都宮氏の居城地蔵ヶ嶽城(後の大洲城)を手中にした。その後、河野氏の猛攻に遭うと早々と降伏し、当時河野氏の筆頭家老であった直之の実兄・直昌(なおしげ)を頼り、河野氏の配下となることを条件に自刃を免れた。しかし、もともと一条氏(後に長宗我部氏)に属していたこともあって、その後再び長宗我部氏に寝返った。
【写真左】墓石
波川家一族が滅んだものの、地元の方によって供物や花などが手向けられている。
清宗に対する元親の処置
このとき、波川清宗は長宗我部氏に帰順しようとした直之を無視したらしく、さらに毛利方が伊予国境を越え、土佐国へ進攻しないことを条件とした和睦を小早川隆景と結んだという。しかし、清宗がとったこの行為は、元親の逆鱗に触れ蟄居させられた。
梟雄・直之の度重なる寝返りや、それまでの行動は清宗の耳目に当然入っており、許容できる範囲を超えていたのだろう。そのため、救いの手を差し出すことを憚ったと推測される。
しかし、毛利方と結んだ和睦は独断であったため、元親にとっては看過できないものとなり、厳しい処置を取らざるを得なかった。
【写真左】五輪塔群
石積みと五輪塔が混在したような光景だが、どちらにしても夥しい数である。
鎌田城で討死した波川一族のものと思われる。
この処置に不満を抱いた清宗は、その後の天正7年(1579)、謀反を企てたるも露見し、逃れて当時阿波国海部にあった元親の実弟香宗我部親泰を頼ったが、望み叶わず自害を遂げた。
なお、清宗亡き後、残った一族は鎌田城(いの町波川フルオチ・写真参照)において籠城し、長宗我部軍と交戦したが衆寡敵せず、ほとんどが討死したという。
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