2014年1月10日金曜日

安徳天皇西市陵墓(山口県下関市豊田町地吉)

安徳天皇西市陵墓(あんとくてんのう にしいちりょうぼ)

●所在地 山口県下関市豊田町地吉
●指定 天皇陵墓参考地(昭和3年指定)
●探訪日 2007年3月14日


◆解説
 前稿に続いて、今稿も山口県にある安徳天皇の陵墓参考地(以下「西市陵墓」とする)、並びに追加として、但馬(兵庫県)に残る平家落人伝説地を紹介したい。


阿弥陀寺御陵安徳天皇陵墓)

 ところで、前稿も含めて取り上げているのはいずれも「参考地」という注釈がついた墓所である。これに対し、「参考地」と付記されていない、いわば公式に安徳天皇の陵墓とされているのが、壇ノ浦の近くにある阿弥陀寺御陵である。

 残念ながら管理人は当地及び、その近くに帝を祀った「赤間神宮」は参拝していない。いずれ機会があったら是非参拝したいと思っている。
【写真左】安徳天皇西市陵墓参考地・その1
 所在地は下関市だが、旧豊田町の北端部にあり、長門市との境界に接している。
 北側に隣接する長門市側から流れてきた木屋川が、下流部の豊田町大河内で堰き止められ、ダム湖(豊田湖)ができている。
 陵墓はその上流部に所在する。

 戦いのあった壇ノ浦からは歩いて北へ約44キロほどの位置に当たる。



 さて、今稿で取り上げた山口県(長門国)にある西市陵墓を訪れたのは7年も前のことで、確か大内義隆の墓がある長門市の大寧寺参拝のあと、時間があったためこちらに寄ったと記憶している。

 この陵墓も参考地とされているものだが、高知県越知町のものとは違い、壇ノ浦で亡くなった直後こちらに埋葬されたというものである。
【写真左】安徳天皇西市陵墓参考地・その2 宮内庁の看板
 他の宮内庁管轄のものと同じく、一般人は中には入れない。




その他の参考地

 参考までに、宮内庁によって指定されている安徳天皇の陵墓(参考地)とされているものは、この二つの他に、
  1. 宇倍野陵墓参考地(鳥取県鳥取市)
  2. 佐須陵墓参考地(長崎県)
  3. 花園陵墓参考地(熊本県)
と合計5ヵ所ある。
 5ヵ所とも天皇陵墓として長い間伝えられてきたことを考えると、安徳帝の有無はともかく、平家一門が関わった場所なのだろう。

 どちらにしても800年以上前のことである。今となってはどれが本当のものか分からない。


安徳帝亡骸の引揚げ
 
 今稿の西市陵墓も、地元に残る伝承では、安徳天皇が入水し戦いが終わったのち、義経らは幼帝(安徳天皇)及び、三種の神器の回収を懸命になって探し、その結果、安徳帝は潮の流れが速かったのか、関門海峡から一旦西の響灘(日本海)へ流れ、その後対馬海流に乗り、大津郡三隅町沢江浦(現在の長門市)の漁師の網に、亡骸が掛かったという。
【写真左】旧沢江浦附近(現山口県長門市)
 詩人・金子みすずで有名な長門市仙崎の東方にあるが、現在の仙崎の湾岸部で引き揚げられたことになる。



 壇ノ浦の戦いは、元暦2年(1185)3月24日に行われている。船戦が始まったのはその日の朝からといわれ、このころ潮の流れは、西から東へと流れ、平氏にとって有利な条件だった。

 しかし後半になると潮の流れが変わり、逆に東から西へと向きを変えた。これに合わせるかのように、源氏方の優位が決定的になった。

【写真左】下関側壇ノ浦PAから関門海峡を望む。
 向いに門司の港が見え、この辺りがもっとも潮の流れが速くなる箇所である。




 参考までに、第七管区海上保安部のHPが紹介している「潮流推算」の推算海域:瀬戸内沿岸で、戦い当時の日時(元暦2年・1185年、3月24日)を入力してみると、確かにこの日は、午前9時すぎまでは西から東へと流れ、10時を過ぎると、潮が変わり東から西へと流れている。

 特に午前11時から13時過ぎの時間帯は、流速値が最も高く、4.0kn(ノット) overとなっているので、7km/h以上の速さである。そして響灘に入ると、対馬海流が南から北に向かって進んでいるので、喧伝された件の話は強ち虚構とはいえないだろう。

【写真左】安徳天皇西市陵墓参考地・その3
 入口付近には車が4,5台駐車できるスペースが設けられてる。







複数の安徳帝身代わり

 源平合戦の最終戦となる壇ノ浦の戦いの前、平氏方の戦力は、平知盛を大将とし、松浦党、山鹿秀遠らの軍勢を併せ約500艘といわれている。

 これに対し、源氏方は義経を総大将として、水軍では伊予水軍、熊野水軍、阿波水軍、讃岐水軍などが加勢して840艘に及び、さらには陸上の門司海岸に源範頼軍が3万もの大軍を構え布陣していた。

 文字通り平家方にとっては背水の陣であるが、実態はその前の屋島の戦いで制海権を失い、既に勝負は見えていたはずである。この段階で、なおも安徳天皇を奉じて戦いに臨むという平家の思惑はどこにあったのだろう。
【写真左】安徳天皇西市陵墓参考地・その4
 附近には「古刀出土の地」「御衣濯の池 左前方凡30m崖下湖底」とされた石碑が建つ。

 ダムができる昭和55年(1980)ごろまで湖底には70軒の集落があり、「先帝祭り」という神事が行われてきたという。


 穿った見方をすれば、場合によっては、壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇が安徳天皇陵墓参考地・横倉山(高知県高岡郡越知町五味・越知)でも紹介されたように、身代わりとして使われたということも十分考えられる。
 
 さらにはその先に予想される執拗なまでの源氏方による追討の手が伸びることも当然平家方にとって予想できたはずである。とすれば、先ずは壇ノ浦の船上に身代わりの帝を乗せ、一方ではそれが発覚した際に備え、源氏方を混乱させるべく、さらに複数の身代わりを立てていたのではないかとも思える。


才の神奉斎の古址
 ところで、安徳天皇とは別に、平家一門が全国に四散し、各地に落人伝説があるが、その中の一つ、但馬(兵庫県)の日本海岸部にあるものを紹介しておきたい。
【写真左】才の神奉斎の古址・その1
所在地:兵庫県豊岡市竹野町田久日

 








現地の説明版より

“才の神奉斎の古址

  田久日部落は日本海岸に点在する○○地にある平家部人の集落の一つと伝えられている。
 古くから種々の伝承が残されているが、このあたりを才の神といって現在は立詞も残っていないが、立木だけを目印として里人等は才の神についていろいろの云い伝えをしている。

 才の神は塞神と云って八街(やちまた)彦神・八街姫神・久那戸(くなと)神の三神を云い、道の要衝に祭って道行く人馬の安全を祈る道路の守護神である。此所に才の神を奉斎した。
 古址は田久日部落と海上を一望に見はらかし平家の落人等が外部との一切の折衝を断って、陸の孤島と呼ばれた。
【写真左】才の神奉斎の古址・その2
 切り立った断崖が複雑に絡み、いまでこそ道路が整備されているが、当時はさすがに人も寄せ付けないような場所だったと思われる。


 この地に住みつき外来の者を警戒し、その侵入を防ぎ止めるために塞神を鎭斉したものと考えられる。

 外来の者を警戒する行事として、今も村の入口の高所から見張り「合図を互いにかわす呼び合い」の行事が正月に行われているが、これとも深い関係があると考えられる。
 昭和22年北但開発海岸道路が開発されることになり、この一帯を陸上自衛隊によって掘り拓された際、地中より多数の祭具と思われる土器の破片を発掘したところである。
        竹野町”

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