摂津・山下城(せっつ・やましたじょう)
●所在地 兵庫県川西市山下
●別名 龍尾城・一庫城・塩川城・獅子山城・多田城
●高さ 184m(比高 101m)
●築城期 天禄年間(970~973)、南北朝時代、天正7年(1579)など
●築城者 塩川氏(仲義、仲章、国満のいずれか)
●城主 塩川国満
●遺構 土塁、郭、空堀、井戸
●備考 向山城
●登城日 2017年6月18日
●登城日 2017年6月18日
◆解説(参考資料 HP 『城郭放浪記』、『畿内・近国の戦国合戦』福島克彦著、等)
摂津・山下城は、多田神社が所在する川西市の北部山下に所在する山城で、別称として一庫城、塩川城など5つの名が残る。
当城の西麓を南北に走るのが、国道173号線で、丹州街道または能勢街道とも呼ばれた。現在は、大阪府池田市から北に向かって京都府綾部市まで繋ぐ路線として整備されている。中世は摂津と丹波を結ぶ重要な街道であった。
南側の山下本町付近から見たもので、右側が山下(本城)で、谷を隔てて左側には向山(城)が見える。
塩川氏
さて、当城については、すでに信貴山城の稿で少し触れているが、築城期・築城者については三説もあり、確定していない。
この中で、最も古いものとしては、築城期を天禄年間(970~973)とし、築城者は源満仲の婿・塩川仲義が新田城の支城として築いたという説がある。
源満仲については、源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)の稿で紹介したように、満仲の子・頼光が摂津源氏の祖となり、頼国を経て彼の五男・頼綱が現在の川西市にある多田神社を中心とした多田荘を治めている。
【写真左】登城口 登城口は山下城の南西麓側にある。ただ、明確に登城口と標記されたものはない。写真にある看板の左下に小さな文字で「山下古城山管理員会」と標記された注意書きが目安になる。
満仲の婿・塩川氏については、詳しい史料はないが、代々多田院御家人筆頭の任にあり、多田荘から北隣の能勢郡にまで支配をしていたという。
新田城については、多田神社の東隣新田(しんでん)に築かれていた平城で、因みに現在は住宅地や公園となって遺構は消滅している。
既述した説以外のものについても、いずれも塩川氏が関わっており、戦国期までの500年という長い期間、同氏がこの地を治めていたことになる。
【写真左】登城道 前半は谷の左側を登って行く。次第に谷が狭くなっていく。
合戦の記録
山下城における戦いの記録としては、天文10年(1541)のものが特に有名である。このときの城主は、塩川伯耆守国満といわれるが、史料によって国満の父・政年との説もある。
この年(天文10年)9月、山下城主塩川国満が当城に立て籠った。これはその直前細川晴元(幕府34代管領)が敵対していた細川高国を打ち破り、高国派残党狩りの流からきたものだった。塩川一族が攻められたのは、政年の妻が討死した高国の妹であったことや、摂津国衆が当初から三好一族と対立していたことなどがその背景にある。
左側の道を進んでいくと、一旦谷の窪みは途切れ、その中央部に御覧の社が祀られている。
「正一位 吉秀大神」と記されている。
これに対し、伊丹城(有岡城)の伊丹親興や、三宅城( 大阪府茨木市蔵垣内)の三宅国村が幕府に対し、山下城攻撃の不当性を直訴、時の将軍義輝も晴元とは反目していたこともあり、その訴えを認めた。
また、木沢長政(笠置山城(京都府相楽郡笠置町笠置)参照)が晴元方から突然離脱し、山下城救援に駆け付けた。長政が反旗を翻した理由としては、三好長政との確執や、長政の弟が伊丹氏の婿に入っていることなどが挙げられる。
吉秀大神を過ぎると右側の道を進むが、途中で尾根を越え反対側の南斜面に出る。
その先には御覧の解放された平場があり、川西市の市街地が望める。
伊丹親興、三宅国村並びに木沢長政らが山下城救援に駆け付けることを知った晴元方は、攻囲を解き同年9月29日に越水城(西宮市桜谷町)に退去した。
このほかの記録としては、天文18年(1549)に三好長慶が晴元、三好長政らと敵対したときである。離合集散の典型的な流れだが、長慶に味方したのは、摂津衆の三宅・池田・瓦林ら、また山城西岡の鶏冠井(かいで)・物集女(もずめ)、更に丹波からは内藤国貞、和泉からは松浦氏が合力した。
対する晴元は、政長・政勝父子支援のため、4月26日迂回するように丹波経由で摂津へ入り、塩川氏の持城・山下城へ入った。この時の合戦の詳細な記録は残っていない。
上記の広場側の奥には愛宕神社が祀られている。
由来などは不明だが、この付近(境内)はきれいにしてあるので定期的な祭事が行われているのかもしれない。
また、山下城の郭だった可能性もある。
国満、秀吉の逆鱗に触れ自害
さて、信長の時代になると、天正7年(1579)、山下城主塩川国満は改めて山下城を含む多田領を信長から安堵されている。しかし、その後秀吉時代になると、それまで度々争っていた北隣の能勢郡の能勢氏とさらに関係が悪化する。
ところで、秀吉による九州征伐は一般的には天正15年(1587)に開始されたといわれているが、件の能勢氏はそれより3年前の天正12年(1584)6月に九州征伐の先鋒として向かっているとされている。
出典元が明示されていないため、この時期については、信憑性に疑義がもたれる。しいて言えば、これは九州征伐ではなく、翌天正13年(1585)に始まった長曾我部元親軍討伐の四国征伐ではないだろうか。
愛宕神社の右側を通ってさらに上に進むと、左側に段が見えてきた。
幅はさほどないが奥行がある。
どちらにしても、秀吉の命を受けた能勢氏が当地を留守にした隙を狙って、塩川氏が能勢氏の地黄城(じおうじょう)(大阪府能勢町地黄)や、田尻城(大阪府能勢町下田尻)を攻略した。天正12年10月14日のことである。
このとき、三草山清山砦を守備していた塩川国良も能勢氏の抵抗に遭い討死した。しかし、能勢氏は衆寡敵せず敗北、これを知った当主能勢頼次は急ぎ大阪城に戻り、秀吉に事の次第を報告、その足で地黄城へ戻った。
所在地:大阪府豊能郡能勢町野間中661
日蓮宗霊場能勢妙見山を開基したのが能勢頼次で、当地に建立されている。
2010年7月27日参拝
こうした塩川氏の動きに対し、秀吉は激怒し、すぐさま池田輝政を始めとした軍を山下城へ向かわせた。塩川国満は城を囲まれ、抵抗する術もなく、もはやこれまでと、山下城を開城し、自らは切腹し果てた。国満の頸は山下城の大手門に葬られ、当城はここに廃城となった。
先ほどの段を過ぎると、この個所で大きな切岸が出てくる。
切岸を登りきると果樹園のようなところに出た。
手前にはネットなどが張られ鳥獣対策をしているようだ。植樹されている樹木名は分からない。
右側に道がついており、この個所から上に向かって4段ぐらいありそうだ。
左手に連続する郭段を見ながら上に上がって下を見たもので、4段ぐらいの段になっている。
桜の木なども見えたので、果樹園というより公園に近い状況だ。
それぞれの段の幅はまちまちだが、奥行は40~50m程度前後ある。
連続する段の最高所の段で、この右側に階段が見えるが、この階段を上がると本丸に向かう。
【写真左】本丸 最後の段から5m前後の高低差のある切岸を登ると、本丸が控えている。
なお、この位置における虎口は明瞭でないが、右側の隅に開口部らしきものがあり、その左側から土塁が伸びている。
尾根筋に向かって右側に土塁が構築されている。
本丸(主郭)の長径は尾根軸にとられ、およそ50m前後ある。
土塁に沿って奥に進む。
本丸北側の土塁側から中を見たもので、現況に残る土塁の天端幅から考えると、当時はもっと大きく、高さは3m以上あったと考えられる。
【写真左】本丸の中央部【写真左】井戸跡か 本丸の一角には4m四方の窪みが残る。おそらく井戸跡と思われる。
なお、本丸から左方向(西側)に伸びる尾根筋にも郭段があるようだが、この日は向かっていない。
一旦本丸の虎口まで戻り、上に向かうべく右側の斜面に続く道を進む。
右手に竪堀が見えてくる。
先ほどの竪堀が上まで伸び、この堀切と繋がる。
一条目から次の二条目の堀切との間にあるもので、特徴的なのは尾根幅に対しそれ以上に左右に盛り土を伸ばし、幅を長くとっていることである。
しかも中央部で屈曲した虎口のような道が残っている。
長大な規模なので、この写真では左側半分の箇所しか撮れない。
反対の右側から見たもの。
【写真左】土橋山下城の南麓に建立されているもので、塩川氏所縁の神社。
山下城が所在する川西市には冒頭で紹介した多田神社がある。
主祭神は、清和源氏の祖ともいえる源満仲から始まり、その曾孫・源義家までの5人を祀る。
山下城主・塩川氏の名が具体的に現れるのは鎌倉末期で、この時期同氏の他、既述した能勢氏や渡辺氏の名が出てくる。いずれも多田院(神社)の御家人となっている。
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