丹波・八上城(たんば・やがみじょう)
●所在地 兵庫県篠山市八上内字高城山
●築城期 室町朝後期(永正12年:1515年)
●築城者 波多野秀長・稙通(たねみち)
●城主 波多野清秀・元清・秀忠・元秀・秀治等
●遺構 本丸・二ノ丸・三ノ丸・大堀切・曲輪等
●標高 460m
●廃城年 慶長13年(1608)
●指定 国指定史跡
●登城日 2009年5月5日
◆解説
前稿「亀山城」でも少し触れた波多野氏の居城である。所在地は亀山城のある亀岡市から西方約40キロほど向かった国道372号線の南方に聳える高城山に築かれている。
【写真左】八上城遠望・その1
丹波・篠山城から見たもの。
【写真左】八上城遠望・その2
篠山ホロンピアホテルから遠望。
撮影 2015年6月8日、午後8時
【写真左】八上城絵図
国道372号線、通称「デカンショ街道」の南を並行して走る旧道「丹波篠山五十三次(篠山街道)」脇に設置されているもので、これを見ると4カ所から登るコースが描かれている。
当日は、絵図が設置されている春日神社付近から登った。
現地の説明板より
“国史跡八上城跡 指定年月日 平成17年3月2日
八上城跡は、戦国時代に多紀郡(現笹山市)を支配した波多野氏の5代にわたる居城である。初代清秀は、応仁の乱(1467~77)の戦功によって、室町幕府管領細川政元から多紀郡を与えられ、八上へ入る。
その後、波多野氏累代は、戦国時代を通して勢力を蓄え、大永7年(1527)に管領細川高国を放逐、天文7年(1538)に丹波守護代内藤氏を攻略、永禄年間(1558~69)には、三好長慶や松永秀久と戦いを繰り広げる。
【写真左】春日神社
登城口脇に建立された社で、高城市松稲荷神社が祀られている。
石垣土塀を残し、傷んではいるが非常に雰囲気のある社である。登城道はこの社を左手に見ながら登って行く。
波多野氏は、先ず奥谷城(蕪丸)を、続いて本城の八上城、さらに殿町にあった城下町を守るため、支城の法光寺城を築き、一帯を一大要塞化し、大規模な戦乱に対応した城造りを進める。
天下布武を目指す織田信長が上洛すると、5代の秀治はそれに従わず、信長が派遣した明智光秀の攻勢を受ける。光秀は、八上城の周囲に付城を巡らし、八上城を徹底包囲する。
天正7年(1579)6月、1年にわたる籠城戦の末、八上城は落城し、秀治ら兄弟3人は安土城下に移され落命する。
落城後の八上城は、前田茂勝ら豊臣氏に縁する大名の城として使われる。しかし、関ヶ原の戦い(1600)によって、徳川家康が天下を押さえると、豊臣秀頼の拠る大阪城を包囲するため、慶長13年(1608)に、江戸幕府から篠山城築城の命令が出され、八上城は100年余りにわたる歴史を終える。
篠山市教育委員会”
【写真左】主膳屋敷跡
八上城主であった前田主膳が構えていた屋敷跡で、付近には供養塔が建立されている。
規模は長径50m、短径30m程度はあったと記憶している。
前田主膳(茂勝)は前稿「丹波・亀山城」の城主だった前田玄以(豊臣氏の五奉行の一人)の次男(又は三男)で、玄以が亡くなると、相続したものの、この八上城に転封された。
しかし、キリシタンに信仰していたことや、八上藩主として施政に熱心でなく、しかも家臣を殺害するなど尋常でない所業から改易となった。
【写真左】登城途中からみた八上城遠望
この日の登城ルートは西側の稜線から東に向かって進むコースだったが、この位置に来るまでには、「鷹の巣」という砦や、「下の茶屋丸」「上の茶屋丸」といった陣跡が残っている。
波多野氏
波多野氏の出自については、平安時代末期から相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)を本領とした豪族で、後に河村郷、松田郷、大友郷などにその支流を配したといわれている。
松田郷から出た一族としては松田氏がおり、備前・松田氏や、出雲国を支配した尼子氏が入国する前の出雲・松田氏(十神山城(島根県安来市安来町)参照)などがその分流となった。
【写真左】「中の壇」
西側から向かう稜線にはこうした平坦な場所が数カ所あるが、段差を設けない郭の機能として活用されたのだろう。
丹後・波多野氏が当地に土着した経緯については、諸説があり、はっきりしないが、説明板にもあるように、細川勝元に属した秀長(波多野)がその祖といわれている。
ちなみに、以前紹介した石見国の黒谷横山城(島根県益田市柏原)の城主であった、波多野彦次郎・彦三郎・彦六郎、及び菖蒲五郎真盛なども、元は石見吉見氏の一族とされ、細川勝元に仕えたとき、一時母方の波多野姓を名乗ったりしているので、系譜的には相模波多野荘の波多野氏に繋がると思われる。
築城者は丹後国に入国した秀長が基礎を造り、その嫡男稙通が本格的な城砦を完成させたといわれている。稙通から家督を受け継いだ晴通の代になると、三好氏の攻勢が強まり、一旦衰退する。
【写真左】堀切
登城後半付近からこうした遺構が点在してくる。
三好長慶の下剋上
説明板にもあるように、大永7年(1527)、管領細川高国が権力を失うと、細川晴元がそれに代わった。ところが天文元年(1532)、今度は晴元の重臣三好元長が、三好政長らによって謀殺された。その後元長の子・長慶が晴元政権時代から頭角を現し、次第に晴元と対立していく。
そして天文18年(1549)6月24日、三好政長は、摂津国江口で三好長慶と戦い討死。4日後の28日、細川春元は、足利義晴・義藤とともに東坂本に奔った。
これがいわゆる三好長慶の下剋上による京都制圧の顛末で、足利義輝を傀儡政権とし、しばらく三好長慶の政権が続くことになる。
【写真左】右衛門丸
本丸手前にある郭で、説明板によると、波多野秀治在城のときの屋敷跡という。
幅は10m程度で、奥行きは30m弱だったと記憶している。
丹後・波多野氏はこうした三好長慶の下剋上の動きの中で、摂津・京都に隣接した丹後国にあって概ね自立性の高い一族であったようだ。
信長時代以降の流れについては、説明板の通り。
【写真左】三の丸跡
「石垣を持った広場に建物があり、南方谷間に対する重要防備陣地かと思われる」と記されている。
この辺りから郭の規模が大きくなり、帯郭が付随してくる。
【写真左】二ノ丸跡
三の丸から5,6mの段差を設け、幅が広くなってくる。
【写真左】本丸跡その1
二ノ丸を過ぎるとすぐに本丸区域に入るが、郭構成が最も広大な場所である。
【写真左】八上城縄張図
この日の登城では向かっていないが、本丸から南東部に降りると、二つの尾根にそれぞれ数段の郭と最下段には大堀切が構築されている。
縄張図に描かれている城砦の規模は、東西約400~500m、南北400m前後になる。
【写真左】八上城跡周辺の中世城郭
この図では分かりずらいが、左端には丹波・篠山城があり、その北東に沢田城がある。また八上城の北方には勝山城、般若城、大上西ノ山城などがあり、南方から東方にかけては法光寺城、奥谷城、曽地城などが配置されている。
周辺部のものは、当城の支城もしくは向城だったと思われる。
【写真左】本丸跡その2
【写真左】本丸跡その3
【写真左】岡田丸跡
「重臣岡田某の館跡とされ、眺望よく、東・北方に対する防備に当たったところと伝えられる」と記されている。
【写真左】本丸跡付近から北西方向を見る
八上城本丸からは現在のところ全周囲を眺望することはできない。
特に南方は全く見えず、北方の一部である。
●所在地 兵庫県篠山市八上内字高城山
●築城期 室町朝後期(永正12年:1515年)
●築城者 波多野秀長・稙通(たねみち)
●城主 波多野清秀・元清・秀忠・元秀・秀治等
●遺構 本丸・二ノ丸・三ノ丸・大堀切・曲輪等
●標高 460m
●廃城年 慶長13年(1608)
●指定 国指定史跡
●登城日 2009年5月5日
◆解説
前稿「亀山城」でも少し触れた波多野氏の居城である。所在地は亀山城のある亀岡市から西方約40キロほど向かった国道372号線の南方に聳える高城山に築かれている。
【写真左】八上城遠望・その1
丹波・篠山城から見たもの。
【写真左】八上城遠望・その2
篠山ホロンピアホテルから遠望。
撮影 2015年6月8日、午後8時
【写真左】八上城絵図
国道372号線、通称「デカンショ街道」の南を並行して走る旧道「丹波篠山五十三次(篠山街道)」脇に設置されているもので、これを見ると4カ所から登るコースが描かれている。
当日は、絵図が設置されている春日神社付近から登った。
現地の説明板より
“国史跡八上城跡 指定年月日 平成17年3月2日
八上城跡は、戦国時代に多紀郡(現笹山市)を支配した波多野氏の5代にわたる居城である。初代清秀は、応仁の乱(1467~77)の戦功によって、室町幕府管領細川政元から多紀郡を与えられ、八上へ入る。
その後、波多野氏累代は、戦国時代を通して勢力を蓄え、大永7年(1527)に管領細川高国を放逐、天文7年(1538)に丹波守護代内藤氏を攻略、永禄年間(1558~69)には、三好長慶や松永秀久と戦いを繰り広げる。
【写真左】春日神社
登城口脇に建立された社で、高城市松稲荷神社が祀られている。
石垣土塀を残し、傷んではいるが非常に雰囲気のある社である。登城道はこの社を左手に見ながら登って行く。
波多野氏は、先ず奥谷城(蕪丸)を、続いて本城の八上城、さらに殿町にあった城下町を守るため、支城の法光寺城を築き、一帯を一大要塞化し、大規模な戦乱に対応した城造りを進める。
天下布武を目指す織田信長が上洛すると、5代の秀治はそれに従わず、信長が派遣した明智光秀の攻勢を受ける。光秀は、八上城の周囲に付城を巡らし、八上城を徹底包囲する。
天正7年(1579)6月、1年にわたる籠城戦の末、八上城は落城し、秀治ら兄弟3人は安土城下に移され落命する。
落城後の八上城は、前田茂勝ら豊臣氏に縁する大名の城として使われる。しかし、関ヶ原の戦い(1600)によって、徳川家康が天下を押さえると、豊臣秀頼の拠る大阪城を包囲するため、慶長13年(1608)に、江戸幕府から篠山城築城の命令が出され、八上城は100年余りにわたる歴史を終える。
篠山市教育委員会”
【写真左】主膳屋敷跡
八上城主であった前田主膳が構えていた屋敷跡で、付近には供養塔が建立されている。
規模は長径50m、短径30m程度はあったと記憶している。
前田主膳(茂勝)は前稿「丹波・亀山城」の城主だった前田玄以(豊臣氏の五奉行の一人)の次男(又は三男)で、玄以が亡くなると、相続したものの、この八上城に転封された。
しかし、キリシタンに信仰していたことや、八上藩主として施政に熱心でなく、しかも家臣を殺害するなど尋常でない所業から改易となった。
【写真左】登城途中からみた八上城遠望
この日の登城ルートは西側の稜線から東に向かって進むコースだったが、この位置に来るまでには、「鷹の巣」という砦や、「下の茶屋丸」「上の茶屋丸」といった陣跡が残っている。
波多野氏
波多野氏の出自については、平安時代末期から相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)を本領とした豪族で、後に河村郷、松田郷、大友郷などにその支流を配したといわれている。
松田郷から出た一族としては松田氏がおり、備前・松田氏や、出雲国を支配した尼子氏が入国する前の出雲・松田氏(十神山城(島根県安来市安来町)参照)などがその分流となった。
【写真左】「中の壇」
西側から向かう稜線にはこうした平坦な場所が数カ所あるが、段差を設けない郭の機能として活用されたのだろう。
丹後・波多野氏が当地に土着した経緯については、諸説があり、はっきりしないが、説明板にもあるように、細川勝元に属した秀長(波多野)がその祖といわれている。
ちなみに、以前紹介した石見国の黒谷横山城(島根県益田市柏原)の城主であった、波多野彦次郎・彦三郎・彦六郎、及び菖蒲五郎真盛なども、元は石見吉見氏の一族とされ、細川勝元に仕えたとき、一時母方の波多野姓を名乗ったりしているので、系譜的には相模波多野荘の波多野氏に繋がると思われる。
築城者は丹後国に入国した秀長が基礎を造り、その嫡男稙通が本格的な城砦を完成させたといわれている。稙通から家督を受け継いだ晴通の代になると、三好氏の攻勢が強まり、一旦衰退する。
【写真左】堀切
登城後半付近からこうした遺構が点在してくる。
三好長慶の下剋上
説明板にもあるように、大永7年(1527)、管領細川高国が権力を失うと、細川晴元がそれに代わった。ところが天文元年(1532)、今度は晴元の重臣三好元長が、三好政長らによって謀殺された。その後元長の子・長慶が晴元政権時代から頭角を現し、次第に晴元と対立していく。
そして天文18年(1549)6月24日、三好政長は、摂津国江口で三好長慶と戦い討死。4日後の28日、細川春元は、足利義晴・義藤とともに東坂本に奔った。
これがいわゆる三好長慶の下剋上による京都制圧の顛末で、足利義輝を傀儡政権とし、しばらく三好長慶の政権が続くことになる。
【写真左】右衛門丸
本丸手前にある郭で、説明板によると、波多野秀治在城のときの屋敷跡という。
幅は10m程度で、奥行きは30m弱だったと記憶している。
丹後・波多野氏はこうした三好長慶の下剋上の動きの中で、摂津・京都に隣接した丹後国にあって概ね自立性の高い一族であったようだ。
信長時代以降の流れについては、説明板の通り。
【写真左】三の丸跡
「石垣を持った広場に建物があり、南方谷間に対する重要防備陣地かと思われる」と記されている。
この辺りから郭の規模が大きくなり、帯郭が付随してくる。
【写真左】二ノ丸跡
三の丸から5,6mの段差を設け、幅が広くなってくる。
【写真左】本丸跡その1
二ノ丸を過ぎるとすぐに本丸区域に入るが、郭構成が最も広大な場所である。
【写真左】八上城縄張図
この日の登城では向かっていないが、本丸から南東部に降りると、二つの尾根にそれぞれ数段の郭と最下段には大堀切が構築されている。
縄張図に描かれている城砦の規模は、東西約400~500m、南北400m前後になる。
【写真左】八上城跡周辺の中世城郭
この図では分かりずらいが、左端には丹波・篠山城があり、その北東に沢田城がある。また八上城の北方には勝山城、般若城、大上西ノ山城などがあり、南方から東方にかけては法光寺城、奥谷城、曽地城などが配置されている。
周辺部のものは、当城の支城もしくは向城だったと思われる。
【写真左】本丸跡その2
【写真左】本丸跡その3
【写真左】岡田丸跡
「重臣岡田某の館跡とされ、眺望よく、東・北方に対する防備に当たったところと伝えられる」と記されている。
【写真左】本丸跡付近から北西方向を見る
八上城本丸からは現在のところ全周囲を眺望することはできない。
特に南方は全く見えず、北方の一部である。
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