2011年3月23日水曜日

園部城(京都府南丹市園部町小桜町)

園部城(そのべじょう)

●所在地 京都府南丹市園部町小桜町●形態 平山城
●築城期 元和5年(1619)
●築城者 小出吉親
●城主 小出氏
●遺構 石垣、堀、巽櫓、櫓門、番所
●指定 京都府指定文化財
●登城日 2010年7月27日

◆解説(参考文献「ウィキベディア」「別冊歴史読本新選日本の名城」等)
 前稿「篠山城」から再び戻って京都府の園部にある園部城を取り上げる。
 所在地である南丹市は2006年の合併によってできた市であるが、出雲の田舎から訪れたものにとって、新しい市名は、今一つなじみを感じない。
【写真左】園部城本丸大手門前の石碑












 南丹市の地図を見てみると、京都府下では京都市に次ぐ面積となり、しかも隣接県は、福井県・滋賀県・兵庫県と3県にもなる。

 園部町は合併前にも2,3度訪れているため、「南丹市」と表示されていても、元の園部町のイメージが強いため、違和感を感ずる。
 
 冒頭から脱線してしまった。
 さて、園部城については、丹波・篠山城(兵庫県篠山市北新町2-3)と同じく近世城郭で、元和5年(1619)の築城となっている。この年は、徳川家康が没して3年後にあたり、2代将軍秀忠の時代である。

 現地の説明板より

園部城址
 元和5年(1619)、但馬の出石から移封となった初代園部藩主小出吉親公は、約2年を費やしてこの地に園部陣屋を築きました。
 歳月を経て、おりしも伐辰戦争のさなか最後の園部藩主(第10代)小出英尚公は、明治新政府から園部陣屋をより堅固な園部城として整備する許可を受け、明治元年(1868)から2年(1869)にかけて、櫓門・巽櫓の他、小麦山山頂に3層の櫓などを築きました。

 しかし、新たな時代の潮流の中、園部城は明治5年(1872)そのほとんどが取り壊され、今は残った巽櫓などが往時を偲ばせます。
 激動の時代に再整備されるという例のない歴史を持つ園部城も、現在はその跡地に園部公園や、京都府立園部高等学校が設置され、憩いの場・教育の場として住民から親しまれています。
 園部町
 園部高校”
【写真左】園部公園の案内図
 この写真では右下に本丸跡が記されているが、園部高校の場所になる。










 初代城主小出吉親の妻は、秀吉の母の妹である。吉親の兄吉英は、出石藩や岸和田藩主を務めた。

 説明板にもあるように、幕末期園部城(陣屋)をより強固なものとした理由は、新政府側が万が一の事態を想定し、園部城を明治天皇の避難場所(行在所)として計画したものらしく、まさに突貫工事であったようだ。

【写真左】本丸大手門その1
 現在は園部高校の校門を兼ねているようだ。
【写真左】本丸大手門その2
 内側から見たもの
【写真左】巽櫓
 大手門をくぐると左手に建っている。
【写真左】園部高校・その1
 跡地が高校となっているため、ほとんど遺構は消滅しているが、高低差の残るところは少しその面影を想像することができる。
【写真左】園部高校・その2

【写真左】綾部国際交流会館
 天守閣風の建物で、予備知識のない人ならこの建物が園部城跡と思うかもしれないが、まったく別の建物である。

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