小浜城(おばまじょう)
●所在地 福井県小浜市城内1丁目
◆解説
前稿小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)探訪後、琵琶湖の北を回り、西近江路(161号線)から若狭街道(303号線)に進み若狭の国に入った。このルートを車中から眺めると、中世・戦国期、多くの武将がこの街道筋を走駆していたかと思うと、感慨深い。
【写真左】小浜城跡
現在残っているのは、本丸跡のみで、周囲の二ノ丸・三の丸・西の丸・北の丸付近はほとんど消滅している。
小浜城は山城でなく、平城でしかも近世城郭である。
小浜は中世(永享13年:1441ごろ)に安芸武田氏が若狭守護として入部し、京都から近いこともあって多くの公家が来ている。このため、京都の文化が色濃く残っている。
京極高次・忠高
小浜城の着工は慶長6年(1601)とされている。築城者は京極高次である。
高次は、永禄6年(1563)、前稿「小谷城」の京極丸という場所で、京極高吉と浅井久政の娘(長政の姉)との間に生まれた。
高次の人生も波乱にとんだもので、幼年期は美濃へ人質として、また成人してからは信長に従うも、本能寺の変で信長が討たれた際、明智光秀に属していたこともあり、秀吉から追われ、美濃や、若狭の武田領などへ逃れていた。
【写真左】小浜城縄張
当城は二つの川に挟まれていたことから、水堀を施工する際はそのまま両川を利用できたと思われる。ただ、非常に低地に築城しているので、大雨などの洪水対策にはかなり意を用いたと思われる。
その後、高次の妹・竜子が秀吉の側室となったことから、彼女の努力によって秀吉に仕える。天正12年(1584)には、若狭の南隣近江高島郡を宛がわれ、その後浅井長政の次女・初を正室とする。
つまり、高次は、いとこであった初を娶ることになる(おそらくこのあたりは、現在放映されているNHK・TV大河ドラマ「お江」で、近日紹介されると思われる)。
蛍大名
そして、高次は次第に出世していくことになるが、このことを周囲のものが妬み「蛍大名」と揶揄される。高次自身の能力よりも、身内の力を借りて出世するという風評から来たものらしいが、豊臣秀吉としては、むしろ浅井氏の残像を消し、元々当地の領主であった名門・京極氏をより利用したいという思惑もあったようだ。
さて、高次が最も苦悩したのが、他の諸大名と同じく、関ヶ原の戦いである。彼もまた、東軍(家康)及び西軍(三成)双方から勧誘され、どちらに与するか大いに迷うことになる。
【写真左】旧西の丸付近
現在、周囲は写真のように空地や住宅が立ち並び、遠くから当城を遠望するような配置にはなっていない。
最終的には、東軍に与することになるが、西軍にも担保をすべく、嫡子・忠高を人質として送っている。
当時高次は大津城を本拠としていたが、当城を出立する際は西軍方として向かったものの、途中で引き返し、大津城に戻り、当城に籠り東軍方として戦うことに決めた。
そして西軍方の東上(関ヶ原)を阻止することになるが、最後は降伏する。
しかし、このことが後に、西軍方の援軍(毛利元康や立花宗茂など)を大津城において引き付け、結果、関ヶ原に参陣させなかったことから、その武勲が家康の目にとまり、一時高野山に出家していた高次は、若狭国8万5,000石を受けることになる。
当初は、武田氏(元光)が築いた後瀬山城(小浜市伏原)に入ったが、慶長6年(1601)に小浜湾に面した位置に、新たに海城形式の小浜城築城を開始した。しかし、途中で高次が慶長14年(1609)5月に47歳で亡くなり、当時江戸詰めだった忠高が急遽若狭に戻り、家督を継ぐことになる。忠高17歳の時である。
【写真左】天守閣跡付近
写真のように、天守閣のあった石垣が現在も残っているが、三層三階の構成であったことから、規模は小規模といえる。
解説と重複するが、現地の説明板を転載する。
“小浜城跡
関ヶ原合戦の戦功によって若狭の領主となった京極高次が慶長6年(1601)、北川、南川を天然の濠とし、小浜の海を背に難攻不落を誇る水城として築城を始めた。
別名を雲浜城とも呼ばれる。寛永11年(1634)京極忠高が出雲に移封となり、酒井忠勝が武州・川越(埼玉県川越市)より若狭11万3500石の藩主となり、天守閣の造立に着手、寛永19年(1641)40余年の歳月をかけて小浜城は完成を見た。
【写真左】小浜神社
酒井忠勝を祀る。
以来、酒井家14代、237年間の居城となり、廃藩置県を迎える。
明治4年(1871)12月、大坂鎮台分営設置の改修中に本丸櫓より出火、城櫓の大部分を焼失して、現在は本丸の石垣を残すのみとなった。
城地総面積 62,492㎡
本丸面積 10,347㎡
昭和31年3月12日、福井県史跡として指定を受け、城地に藩祖・酒井忠勝公を祀る小浜神社がある。
小浜市”
若狭小浜に戻ってみると、高次の筆頭家老であった熊谷主水など老臣らの専横が障害となり、忠高はこうした勢力との狭間でしばらく苦労することになる。
しかも、父から受け継いだ城普請が続行しているうえに、幕府からは他国の城普請や、朝廷の施設普請(禁裏・仙洞)なども命ぜられ、自国の事業は遅延を重ね、しかも藩の財政も困窮していった。
こうした状況は他の領国でも多々あり、例えば以前紹介した豊後・佐伯城(大分県佐伯市城山)なども、他国の城普請で多額の支出を生じ、佐伯藩は初期から莫大な赤字を背負うことになる。
【写真左】天守閣跡から小浜の街を見る
海や川が近いせいか、霞んでいる日が多いようだ。
京極忠高の松江藩移封
このように京極氏や豊後毛利氏など外様系は、幕府の意図的な政策によって力を削がれ監視されていく。
忠高にとっては、天守の完成も見ず、代々住み続けた京極家の地である近江・若狭の国を去らねばならなかったことは口惜しいものがあったのだろう。
忠高が松江に入部したのは同年(寛永11年)8月7日である。入部した忠高は、翌嘉永12年1月、老臣・多賀越中守に施政方針を示し、永年の懸案であった斐伊川の川違いを開始するなど、積極的な事業を展開するが、入部してわずか3年後の寛永14年(1637)6月12日、江戸にて亡くなった。享年45歳。
城の完成と藩主酒井氏
●所在地 福井県小浜市城内1丁目
●築城期 慶長6年(1601)着工、寛永11年(1634)~15年天守閣竣工
●築城者 京極高次・忠高、酒井忠勝
●遺構 本丸、二ノ丸、三ノ丸、北の丸、西の丸、内堀等
●形態 平城(水城)
●別名 雲浜城
●登城日 2008年3月19日●別名 雲浜城
◆解説
前稿小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)探訪後、琵琶湖の北を回り、西近江路(161号線)から若狭街道(303号線)に進み若狭の国に入った。このルートを車中から眺めると、中世・戦国期、多くの武将がこの街道筋を走駆していたかと思うと、感慨深い。
【写真左】小浜城跡
現在残っているのは、本丸跡のみで、周囲の二ノ丸・三の丸・西の丸・北の丸付近はほとんど消滅している。
小浜城は山城でなく、平城でしかも近世城郭である。
小浜は中世(永享13年:1441ごろ)に安芸武田氏が若狭守護として入部し、京都から近いこともあって多くの公家が来ている。このため、京都の文化が色濃く残っている。
京極高次・忠高
小浜城の着工は慶長6年(1601)とされている。築城者は京極高次である。
高次は、永禄6年(1563)、前稿「小谷城」の京極丸という場所で、京極高吉と浅井久政の娘(長政の姉)との間に生まれた。
高次の人生も波乱にとんだもので、幼年期は美濃へ人質として、また成人してからは信長に従うも、本能寺の変で信長が討たれた際、明智光秀に属していたこともあり、秀吉から追われ、美濃や、若狭の武田領などへ逃れていた。
【写真左】小浜城縄張
当城は二つの川に挟まれていたことから、水堀を施工する際はそのまま両川を利用できたと思われる。ただ、非常に低地に築城しているので、大雨などの洪水対策にはかなり意を用いたと思われる。
その後、高次の妹・竜子が秀吉の側室となったことから、彼女の努力によって秀吉に仕える。天正12年(1584)には、若狭の南隣近江高島郡を宛がわれ、その後浅井長政の次女・初を正室とする。
つまり、高次は、いとこであった初を娶ることになる(おそらくこのあたりは、現在放映されているNHK・TV大河ドラマ「お江」で、近日紹介されると思われる)。
蛍大名
そして、高次は次第に出世していくことになるが、このことを周囲のものが妬み「蛍大名」と揶揄される。高次自身の能力よりも、身内の力を借りて出世するという風評から来たものらしいが、豊臣秀吉としては、むしろ浅井氏の残像を消し、元々当地の領主であった名門・京極氏をより利用したいという思惑もあったようだ。
さて、高次が最も苦悩したのが、他の諸大名と同じく、関ヶ原の戦いである。彼もまた、東軍(家康)及び西軍(三成)双方から勧誘され、どちらに与するか大いに迷うことになる。
【写真左】旧西の丸付近
現在、周囲は写真のように空地や住宅が立ち並び、遠くから当城を遠望するような配置にはなっていない。
最終的には、東軍に与することになるが、西軍にも担保をすべく、嫡子・忠高を人質として送っている。
当時高次は大津城を本拠としていたが、当城を出立する際は西軍方として向かったものの、途中で引き返し、大津城に戻り、当城に籠り東軍方として戦うことに決めた。
そして西軍方の東上(関ヶ原)を阻止することになるが、最後は降伏する。
しかし、このことが後に、西軍方の援軍(毛利元康や立花宗茂など)を大津城において引き付け、結果、関ヶ原に参陣させなかったことから、その武勲が家康の目にとまり、一時高野山に出家していた高次は、若狭国8万5,000石を受けることになる。
当初は、武田氏(元光)が築いた後瀬山城(小浜市伏原)に入ったが、慶長6年(1601)に小浜湾に面した位置に、新たに海城形式の小浜城築城を開始した。しかし、途中で高次が慶長14年(1609)5月に47歳で亡くなり、当時江戸詰めだった忠高が急遽若狭に戻り、家督を継ぐことになる。忠高17歳の時である。
【写真左】天守閣跡付近
写真のように、天守閣のあった石垣が現在も残っているが、三層三階の構成であったことから、規模は小規模といえる。
解説と重複するが、現地の説明板を転載する。
“小浜城跡
関ヶ原合戦の戦功によって若狭の領主となった京極高次が慶長6年(1601)、北川、南川を天然の濠とし、小浜の海を背に難攻不落を誇る水城として築城を始めた。
別名を雲浜城とも呼ばれる。寛永11年(1634)京極忠高が出雲に移封となり、酒井忠勝が武州・川越(埼玉県川越市)より若狭11万3500石の藩主となり、天守閣の造立に着手、寛永19年(1641)40余年の歳月をかけて小浜城は完成を見た。
【写真左】小浜神社
酒井忠勝を祀る。
以来、酒井家14代、237年間の居城となり、廃藩置県を迎える。
明治4年(1871)12月、大坂鎮台分営設置の改修中に本丸櫓より出火、城櫓の大部分を焼失して、現在は本丸の石垣を残すのみとなった。
城地総面積 62,492㎡
本丸面積 10,347㎡
昭和31年3月12日、福井県史跡として指定を受け、城地に藩祖・酒井忠勝公を祀る小浜神社がある。
小浜市”
若狭小浜に戻ってみると、高次の筆頭家老であった熊谷主水など老臣らの専横が障害となり、忠高はこうした勢力との狭間でしばらく苦労することになる。
しかも、父から受け継いだ城普請が続行しているうえに、幕府からは他国の城普請や、朝廷の施設普請(禁裏・仙洞)なども命ぜられ、自国の事業は遅延を重ね、しかも藩の財政も困窮していった。
こうした状況は他の領国でも多々あり、例えば以前紹介した豊後・佐伯城(大分県佐伯市城山)なども、他国の城普請で多額の支出を生じ、佐伯藩は初期から莫大な赤字を背負うことになる。
【写真左】天守閣跡から小浜の街を見る
海や川が近いせいか、霞んでいる日が多いようだ。
京極忠高の松江藩移封
このように京極氏や豊後毛利氏など外様系は、幕府の意図的な政策によって力を削がれ監視されていく。
結局、京極家・忠高の代になっても小浜城の天守は完成せず、寛永11年(1634)閏7月6日、幕府は忠高に、出雲国・隠岐国に移封を命じ、忠高は若狭国を離れることになる。
これは、その前年(寛永10年)、松江藩主(出雲・隠岐国)堀尾忠晴が亡くなり、嗣子がいなかったため、堀尾家断絶によって生じたためである。
忠高が松江に入部したのは同年(寛永11年)8月7日である。入部した忠高は、翌嘉永12年1月、老臣・多賀越中守に施政方針を示し、永年の懸案であった斐伊川の川違いを開始するなど、積極的な事業を展開するが、入部してわずか3年後の寛永14年(1637)6月12日、江戸にて亡くなった。享年45歳。
城の完成と藩主酒井氏
【写真左】酒井会館
酒井氏関連のものが管理されているようだ。
ところで、京極氏が若狭国を去った後は、譜代の重鎮・酒井忠勝が12万3000石で入封し、当城の工事が引き続き行われ、三重三階の天守を含め、すべてが完了したのは、施工開始したときから40余年も経った寛永19年(1641)だった。
以後、小浜藩は酒井氏が代々受け継ぎ、明治維新まで続くことになる。
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