丹後・田辺城跡(たんご・たなべじょうあと)
●所在地 京都府舞鶴市南田辺●別名 舞鶴城(ぶがくじょう)
●築城期 天正8年(1580)
●築城者 細川藤孝(幽斎)
●城主 細川氏、京極氏、牧野氏
●遺構 石垣、濠、庭園等
●登城日 2008年3月20日
◆解説
前稿「小浜城」を探訪した後、舞鶴市まで行き、その夜は同市のホテルに泊まり、明くる朝田辺城を訪れた。
この日もかなりの雨が降っており、登城するにはいい天候ではなかったが、平城であったともあり、傘をさしながら主だったところを見て回った。
【写真左】田辺城の城門
概要
高さ 12.07m
間口 21.67m
奥行 6.09m
現地の説明板より
“市指定 史跡 田辺(舞鶴)城址
指定年月日 昭和40年5月31日
指定面積 19,800㎡(舞鶴公園)
田辺城は舞鶴城とも称され、その築城は戦国群雄のなかで智将であり歌聖といわれた細川藤孝(幽斎)が、天正8年(1580)8月、織田信長より丹後国をあてがわれ、子忠興ともに縄張したことに始まり、天正10年代に完成したといわれている。
慶長5年(1600)7月、石田三成方1万5千騎の大軍に攻められた幽斎は、わずか500人の兵で田辺城に籠城して50日余を戦った。古今和歌集の秘伝の継承者であった幽斎が、八条宮智仁親王の使者に古今相伝の箱に和歌一首を添えて献上した、世に言う古今伝授は、籠城のさなかのことである。
【写真左】城郭復元図
左側が北方向になるので、南北に長い構成となっている。
その後、忠興は、関ヶ原合戦の功により、豊前中津に加封され、代わって京極高知が入国、元和8年(1622)、高知の遺命により丹後国を三分し、庶子の高三が城主となって3万5千石を領し、田辺藩が成立した。
寛文8年(1668)、京極氏が但馬豊岡に移封のあと、牧野親成がこれに代わり、以後牧野氏が明治2年(1869)の版籍奉還まで代々田辺藩主として在城した。
城は、細川氏の築城後、京極氏、牧野氏が拡張・改修を行い、ほぼ現在の舞鶴公園地にあたる本丸を、二ノ丸・三ノ丸・外曲輪とそれぞれの堀が囲む輪郭形式の平城として整備され、さらに東の伊佐津川、西の高野川、南の低湿田、北の湾海は総堀としての役割をはたした。
なお、舞鶴の地名は、明治2年に藩名が城号をとって舞鶴藩と改称されたことに由来しており、この公園内には築城当時の天守台石垣をはじめ、本丸、二ノ丸、石垣や幽斎ゆかりの心種園などの遺構が今にのこり往時をしのばせている。
平成4年3月 舞鶴市”
【写真左】城門を内側から見る。
登城したのが、午前8時半ごろだったこともあり、資料展示室もあいておらず、公園内を散策しただけに終わった。
丹後・舞鶴城の築城者である細川幽斎は、戦国期の中でも特に教養の高い文化人でもある。
彼の父は室町幕府の奉公衆三淵氏で、母は国学者清原宣賢の娘ということから、幼年期より教養を積み、特に和歌については当代一の碩学でもあった。
生まれたのが天文3年(1534)で、亡くなったのは慶長15年(1610)であるから、77歳という当時としては長寿を全うしたといえるだろう。
幽斎については他の史料でかなり紹介されているようなので、詳細は省くが、天正15年(1587)の秀吉による九州・島津氏討伐の際、日本海を船で向かったときの様子が「九州道の記」という史料に残されている。
これによると、
「同年4月26日、伯耆国御来屋より美保関に上陸する。佐陀神社・杵築社・石見国大浦・仁万港・石見銀山・温泉津宝塔院をめぐる。
5月5日に温泉津を発ち、7日に浜田より長門国へと向かう。」
とある。
【写真左】城門
この記録を見ると、舞鶴から船で山陰海岸を回遊して向かっていることになる。
御来屋というのは、現在の鳥取県西伯郡大山町御来屋のことで、ここから船で島根県の島根半島の東端・美保関まで向い、おそらくそこから中海を使って、松江市鹿島町にある佐陀神社を参拝し、さらに宍道湖に出て、西に向かい杵築社、すなわち現在の出雲大社に向かったものと思われる。
その後、再び船で日本海を西下し、石見国大浦(現大田市五十猛)に寄り、仁万港(邇摩)で上陸し、石見銀山街道を使って石見銀山へ赴く。
銀山を探訪後、銀山街道温泉津沖泊道を使って温泉津に出て、一旦浜田港まで行き、そこからはやや大きめの船に乗り換え長門に向かったものと思われる。
【写真左】公園内
田辺城は天守閣の存在が確認されていないようだが、大手門、中門・南門といった5城門が明らかにされている。
天守閣がなかったとしても、それに類似した中規模な櫓はあったと思われる。
天正15年(1587)の九州島津討伐の際、秀吉自身は同年3月1日に大阪を出発し、最終的に5月8日に島津義久が秀吉に降伏している。
秀吉から命を受けた幽斎は、秀吉自身より1ヶ月以上も遅れて出立し、しかも出雲・石見国で物見遊山のような足取りである。
島津義久が降伏する前日にやっと長門国にたどり着くありさまで、最初から幽斎は、島津討伐には積極的に参画しようという気がなかったのではないかと思われる。
しかも、こうした幽斎の対応に対し、秀吉がなんらかの処分をしたという記録は見えない。よほど秀吉が幽斎に一目置いていたのだろう。特に彼が千利休の高弟であったこともその理由かもしれない。
●築城期 天正8年(1580)
●築城者 細川藤孝(幽斎)
●城主 細川氏、京極氏、牧野氏
●遺構 石垣、濠、庭園等
●登城日 2008年3月20日
◆解説
前稿「小浜城」を探訪した後、舞鶴市まで行き、その夜は同市のホテルに泊まり、明くる朝田辺城を訪れた。
この日もかなりの雨が降っており、登城するにはいい天候ではなかったが、平城であったともあり、傘をさしながら主だったところを見て回った。
【写真左】田辺城の城門
概要
高さ 12.07m
間口 21.67m
奥行 6.09m
現地の説明板より
“市指定 史跡 田辺(舞鶴)城址
指定年月日 昭和40年5月31日
指定面積 19,800㎡(舞鶴公園)
田辺城は舞鶴城とも称され、その築城は戦国群雄のなかで智将であり歌聖といわれた細川藤孝(幽斎)が、天正8年(1580)8月、織田信長より丹後国をあてがわれ、子忠興ともに縄張したことに始まり、天正10年代に完成したといわれている。
慶長5年(1600)7月、石田三成方1万5千騎の大軍に攻められた幽斎は、わずか500人の兵で田辺城に籠城して50日余を戦った。古今和歌集の秘伝の継承者であった幽斎が、八条宮智仁親王の使者に古今相伝の箱に和歌一首を添えて献上した、世に言う古今伝授は、籠城のさなかのことである。
【写真左】城郭復元図
左側が北方向になるので、南北に長い構成となっている。
その後、忠興は、関ヶ原合戦の功により、豊前中津に加封され、代わって京極高知が入国、元和8年(1622)、高知の遺命により丹後国を三分し、庶子の高三が城主となって3万5千石を領し、田辺藩が成立した。
寛文8年(1668)、京極氏が但馬豊岡に移封のあと、牧野親成がこれに代わり、以後牧野氏が明治2年(1869)の版籍奉還まで代々田辺藩主として在城した。
城は、細川氏の築城後、京極氏、牧野氏が拡張・改修を行い、ほぼ現在の舞鶴公園地にあたる本丸を、二ノ丸・三ノ丸・外曲輪とそれぞれの堀が囲む輪郭形式の平城として整備され、さらに東の伊佐津川、西の高野川、南の低湿田、北の湾海は総堀としての役割をはたした。
なお、舞鶴の地名は、明治2年に藩名が城号をとって舞鶴藩と改称されたことに由来しており、この公園内には築城当時の天守台石垣をはじめ、本丸、二ノ丸、石垣や幽斎ゆかりの心種園などの遺構が今にのこり往時をしのばせている。
平成4年3月 舞鶴市”
【写真左】城門を内側から見る。
登城したのが、午前8時半ごろだったこともあり、資料展示室もあいておらず、公園内を散策しただけに終わった。
丹後・舞鶴城の築城者である細川幽斎は、戦国期の中でも特に教養の高い文化人でもある。
彼の父は室町幕府の奉公衆三淵氏で、母は国学者清原宣賢の娘ということから、幼年期より教養を積み、特に和歌については当代一の碩学でもあった。
生まれたのが天文3年(1534)で、亡くなったのは慶長15年(1610)であるから、77歳という当時としては長寿を全うしたといえるだろう。
幽斎については他の史料でかなり紹介されているようなので、詳細は省くが、天正15年(1587)の秀吉による九州・島津氏討伐の際、日本海を船で向かったときの様子が「九州道の記」という史料に残されている。
これによると、
「同年4月26日、伯耆国御来屋より美保関に上陸する。佐陀神社・杵築社・石見国大浦・仁万港・石見銀山・温泉津宝塔院をめぐる。
5月5日に温泉津を発ち、7日に浜田より長門国へと向かう。」
とある。
【写真左】城門
この記録を見ると、舞鶴から船で山陰海岸を回遊して向かっていることになる。
御来屋というのは、現在の鳥取県西伯郡大山町御来屋のことで、ここから船で島根県の島根半島の東端・美保関まで向い、おそらくそこから中海を使って、松江市鹿島町にある佐陀神社を参拝し、さらに宍道湖に出て、西に向かい杵築社、すなわち現在の出雲大社に向かったものと思われる。
その後、再び船で日本海を西下し、石見国大浦(現大田市五十猛)に寄り、仁万港(邇摩)で上陸し、石見銀山街道を使って石見銀山へ赴く。
銀山を探訪後、銀山街道温泉津沖泊道を使って温泉津に出て、一旦浜田港まで行き、そこからはやや大きめの船に乗り換え長門に向かったものと思われる。
【写真左】公園内
田辺城は天守閣の存在が確認されていないようだが、大手門、中門・南門といった5城門が明らかにされている。
天守閣がなかったとしても、それに類似した中規模な櫓はあったと思われる。
天正15年(1587)の九州島津討伐の際、秀吉自身は同年3月1日に大阪を出発し、最終的に5月8日に島津義久が秀吉に降伏している。
秀吉から命を受けた幽斎は、秀吉自身より1ヶ月以上も遅れて出立し、しかも出雲・石見国で物見遊山のような足取りである。
島津義久が降伏する前日にやっと長門国にたどり着くありさまで、最初から幽斎は、島津討伐には積極的に参画しようという気がなかったのではないかと思われる。
しかも、こうした幽斎の対応に対し、秀吉がなんらかの処分をしたという記録は見えない。よほど秀吉が幽斎に一目置いていたのだろう。特に彼が千利休の高弟であったこともその理由かもしれない。
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