小谷城(おだにじょう)・その1
●所在地 滋賀県長浜市湖北町伊部
●築城期 永正13年(1516)ごろ
●築城者 浅井亮政(すけまさ)
●城主 浅井亮政・久政・長政
●廃城年 天正3年(1575)
●構造 梯郭式山城(二層天守の可能性有)
●遺構 郭・空堀・土塁
●指定 国指定史跡
●登城日 2008年3月19日
◆解説
今稿は、前稿「姉川古戦場」でも少し紹介しているが、近江湖北地方を治めていた浅井氏の小谷城を取り上げる。
訪れたこの日は、関ヶ原古戦場・姉川古戦場と回り、当地に着いたものの、折り悪く雨脚が次第に強くなり、登城口付近までで断念した。
【写真左】小谷城案内図
現地の説明板より
“国指定指定史跡 小谷城跡
戦国時代、「近江を制するものは天下を制する」といわれたほど、近江は天下を左右する重要な位置にあり、数多くの戦乱の場となりました。
このため、多くの城郭が築城され「近江の城郭を語らずして中世は語れず」といわれるほど、近江には中世の城館が数多く見られます。
その中でも、小谷城は、亮政・久政・長政の三代に渡って小谷山全域に築かれたわが国でも屈指の規模を持つ中世城郭で、日本五大山城の一つに数えられています。
小谷城は、織田信長の激しい城攻めにより落城しましたが、その後、城跡は、何ら手を加えられることなく永く埋もれたまま、当時の面影を今に残し、私たちに伝えています。
浅井家は、三代にして50年あまりで滅んでしまいましたが、長政とお市の方(織田信長の妹)との間に生まれた三人の姫は、成人して、長女の茶々は豊臣秀吉の側室-淀君-として、次女の初子は、大津城主京極高次に嫁ぎ、三女の達子は徳川二代将軍秀忠の夫人となって、家光(三代将軍)・忠長・千姫・東福門院(後水尾天皇中宮)等を産み、何れも日本の歴史の一コマを飾ると共に、後世に名を残しました。”
【写真左】小谷城戦国資料館
浅井氏
浅井氏の出自については不明な点も多いが、元々地元である浅井郡丁野(ようの)地域の土豪とされ、当時の守護大名京極氏の被官とされている。
大永3年(1523)、京極氏の相続争い(父・高清からの家督を二男高吉と、長男高延が争う)に乗じて、頭角を現し、京極氏を圧倒。国人領主として京極氏を逆に押さえ、この地の盟主となった。
その後、京極氏と同じ佐々木系六角氏と争い、同時に三代長政のころから越前朝倉氏、及び本願寺勢力とパイプを持ち、最盛期には、坂田・浅井・伊香の湖北3郡のほか、犬上・愛知(えち)・高島までを領有していた。
浅井長政は、現在テレビで放映されている「お江」でも紹介されたように、織田信長によって滅ぼされるが、信長の妹・お市を迎えた永禄11年(1568)8月のころは、当然良好な関係を結んでいた。
そして、その年の9月、六角氏の居城「観音寺城」(2011年2月21日投稿)を落とす際、信長に協力している。
【写真左】金吾丸
この写真にある説明板の後にある郭で、大永5年(1525)、六角定頼の来攻に際し、越前より朝倉孝景が来援し陣所とした、とある。
信長の「朽木越え」
その後知られているように、信長の上洛命令に対し、朝倉義景が拒否、このため信長は越前・朝倉氏を攻めた。元亀元年(1570)4月のことである。
ところが、同月30日、浅井長政や六角承禎(義賢:よしたか)らが近江国で挙兵したとの報が信長の元に届けられ、越前にいた信長は辛くも逃げることができた。
なお、六角承禎は、「観音寺城」でも取り上げたように、永禄11年(1568)の戦いで信長に敗れたが、その後甲賀郡に潜伏していた。
【写真左】番所跡
金吾丸の近くにあり、文字通りこの場所で出入りを監視していたところ。
信長のこのときの逃走経路は、若狭から朽木谷を越え(後に「朽木越え」といわれ、地元・高島の豪族・朽木氏がサポートしたといわれる)、京都にいったん戻った。
そのあと岐阜に向かったが、このとき件の六角承禎が立ちはだかった。
しかし、何とか潜り抜けたものの、鈴鹿山脈を横断する千草峠では、杉谷善住房に鉄砲で狙撃され、信長の体を銃弾がかすめたという。
信長の小谷城攻め
信長が命からがら岐阜に戻ったのは、5月21日だった。すぐに浅井・朝倉を攻めるべく準備にかかる。6月4日付で、鉄砲薬30斤(きん)、焔硝30斤を秀吉が堺の今井宗久に宛てた注文書が残っている。
6月19日、信長は岐阜を出発、21日には小谷城下一帯に火を放ち、前稿「姉川古戦場」でも記したように、6月28日の姉川の合戦で大勝したものの、信長は小谷城に逃げる浅井氏を追跡せず、一旦岐阜に帰る。
そして、この年(元亀元年:1570)12月14日、一旦信長は、朝倉義景・浅井長政と和睦を行う。これは、信長の回りでは石山本願寺の挙兵や、伊勢長島の一向一揆が勃発し、浅井氏のみに集中することができなくなったからである。
【写真左】出丸付近
説明板より
“小谷城最前線の基地、二段に構えた陣所をかこむ土塁は、今なお往時の姿をとどめ、中世山城の特徴を示す極めて貴重な遺構である。
この高所の前方にある。”
信長が小谷城を攻めたのは、和睦した年から3年後の天正元年(1573)8月である。最初に攻め入ったのは、浅井氏と同盟を結ぶ朝倉氏のほうである。
朝倉氏は浅井氏を救援するために小谷城に向かったが、信長はこの間に入って浅井氏との連携を遮断し、そのまま朝倉氏を追撃する。
朝倉義景は結局、本拠地一乗谷に戻ったものの、信長の攻勢に抗しきれず、8月20日、大野郡山田荘の賢松寺(けんしょうじ)にて自害した。享年41歳。
そして、同月27日小谷城下に戻った信長は、猛攻をかけ、浅井久政・長政父子を自刃させた。その後、朝倉義景・浅井久政・長政の首級は京都に送られ、獄門にかけられた。
このとき、知られているように長政の妻で信長の妹・お市と、その娘3人(茶々:淀君、お初、お江)は信長の元に送り届けられた。
小谷城が落城した後、当城及び浅井氏の旧領はすべて秀吉に与えられる。後に秀吉は小谷城から長浜城に移り、信長の最高クラスの家臣として一気に飛躍することになる。
◎関連投稿
近江・小谷城・その2(滋賀県長浜市湖北町伊部・郡山)
近江・小谷城・その3(滋賀県長浜市湖北町伊部・郡山)
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●築城者 浅井亮政(すけまさ)
●城主 浅井亮政・久政・長政
●廃城年 天正3年(1575)
●構造 梯郭式山城(二層天守の可能性有)
●遺構 郭・空堀・土塁
●指定 国指定史跡
●登城日 2008年3月19日
◆解説
今稿は、前稿「姉川古戦場」でも少し紹介しているが、近江湖北地方を治めていた浅井氏の小谷城を取り上げる。
訪れたこの日は、関ヶ原古戦場・姉川古戦場と回り、当地に着いたものの、折り悪く雨脚が次第に強くなり、登城口付近までで断念した。
現地の説明板より
“国指定指定史跡 小谷城跡
戦国時代、「近江を制するものは天下を制する」といわれたほど、近江は天下を左右する重要な位置にあり、数多くの戦乱の場となりました。
このため、多くの城郭が築城され「近江の城郭を語らずして中世は語れず」といわれるほど、近江には中世の城館が数多く見られます。
その中でも、小谷城は、亮政・久政・長政の三代に渡って小谷山全域に築かれたわが国でも屈指の規模を持つ中世城郭で、日本五大山城の一つに数えられています。
小谷城は、織田信長の激しい城攻めにより落城しましたが、その後、城跡は、何ら手を加えられることなく永く埋もれたまま、当時の面影を今に残し、私たちに伝えています。
浅井家は、三代にして50年あまりで滅んでしまいましたが、長政とお市の方(織田信長の妹)との間に生まれた三人の姫は、成人して、長女の茶々は豊臣秀吉の側室-淀君-として、次女の初子は、大津城主京極高次に嫁ぎ、三女の達子は徳川二代将軍秀忠の夫人となって、家光(三代将軍)・忠長・千姫・東福門院(後水尾天皇中宮)等を産み、何れも日本の歴史の一コマを飾ると共に、後世に名を残しました。”
【写真左】小谷城戦国資料館
浅井氏
浅井氏の出自については不明な点も多いが、元々地元である浅井郡丁野(ようの)地域の土豪とされ、当時の守護大名京極氏の被官とされている。
大永3年(1523)、京極氏の相続争い(父・高清からの家督を二男高吉と、長男高延が争う)に乗じて、頭角を現し、京極氏を圧倒。国人領主として京極氏を逆に押さえ、この地の盟主となった。
その後、京極氏と同じ佐々木系六角氏と争い、同時に三代長政のころから越前朝倉氏、及び本願寺勢力とパイプを持ち、最盛期には、坂田・浅井・伊香の湖北3郡のほか、犬上・愛知(えち)・高島までを領有していた。
浅井長政は、現在テレビで放映されている「お江」でも紹介されたように、織田信長によって滅ぼされるが、信長の妹・お市を迎えた永禄11年(1568)8月のころは、当然良好な関係を結んでいた。
そして、その年の9月、六角氏の居城「観音寺城」(2011年2月21日投稿)を落とす際、信長に協力している。
【写真左】金吾丸
この写真にある説明板の後にある郭で、大永5年(1525)、六角定頼の来攻に際し、越前より朝倉孝景が来援し陣所とした、とある。
信長の「朽木越え」
その後知られているように、信長の上洛命令に対し、朝倉義景が拒否、このため信長は越前・朝倉氏を攻めた。元亀元年(1570)4月のことである。
ところが、同月30日、浅井長政や六角承禎(義賢:よしたか)らが近江国で挙兵したとの報が信長の元に届けられ、越前にいた信長は辛くも逃げることができた。
なお、六角承禎は、「観音寺城」でも取り上げたように、永禄11年(1568)の戦いで信長に敗れたが、その後甲賀郡に潜伏していた。
【写真左】番所跡
金吾丸の近くにあり、文字通りこの場所で出入りを監視していたところ。
信長のこのときの逃走経路は、若狭から朽木谷を越え(後に「朽木越え」といわれ、地元・高島の豪族・朽木氏がサポートしたといわれる)、京都にいったん戻った。
そのあと岐阜に向かったが、このとき件の六角承禎が立ちはだかった。
しかし、何とか潜り抜けたものの、鈴鹿山脈を横断する千草峠では、杉谷善住房に鉄砲で狙撃され、信長の体を銃弾がかすめたという。
信長の小谷城攻め
信長が命からがら岐阜に戻ったのは、5月21日だった。すぐに浅井・朝倉を攻めるべく準備にかかる。6月4日付で、鉄砲薬30斤(きん)、焔硝30斤を秀吉が堺の今井宗久に宛てた注文書が残っている。
6月19日、信長は岐阜を出発、21日には小谷城下一帯に火を放ち、前稿「姉川古戦場」でも記したように、6月28日の姉川の合戦で大勝したものの、信長は小谷城に逃げる浅井氏を追跡せず、一旦岐阜に帰る。
そして、この年(元亀元年:1570)12月14日、一旦信長は、朝倉義景・浅井長政と和睦を行う。これは、信長の回りでは石山本願寺の挙兵や、伊勢長島の一向一揆が勃発し、浅井氏のみに集中することができなくなったからである。
【写真左】出丸付近
説明板より
“小谷城最前線の基地、二段に構えた陣所をかこむ土塁は、今なお往時の姿をとどめ、中世山城の特徴を示す極めて貴重な遺構である。
この高所の前方にある。”
信長が小谷城を攻めたのは、和睦した年から3年後の天正元年(1573)8月である。最初に攻め入ったのは、浅井氏と同盟を結ぶ朝倉氏のほうである。
朝倉氏は浅井氏を救援するために小谷城に向かったが、信長はこの間に入って浅井氏との連携を遮断し、そのまま朝倉氏を追撃する。
朝倉義景は結局、本拠地一乗谷に戻ったものの、信長の攻勢に抗しきれず、8月20日、大野郡山田荘の賢松寺(けんしょうじ)にて自害した。享年41歳。
そして、同月27日小谷城下に戻った信長は、猛攻をかけ、浅井久政・長政父子を自刃させた。その後、朝倉義景・浅井久政・長政の首級は京都に送られ、獄門にかけられた。
このとき、知られているように長政の妻で信長の妹・お市と、その娘3人(茶々:淀君、お初、お江)は信長の元に送り届けられた。
小谷城が落城した後、当城及び浅井氏の旧領はすべて秀吉に与えられる。後に秀吉は小谷城から長浜城に移り、信長の最高クラスの家臣として一気に飛躍することになる。
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