豊前・長野城(ぶぜん・ながのじょう)
●所在地 福岡県北九州市小倉南区大字長野
●高さ H:233m(比高200m)
●築城期 保元2年(1157)又は、それ以前か
●築城者 平康盛又は中原系長野氏
●城主 長野豊前守助氏、長野氏等
●遺構 畝状竪堀群・郭・土塁等
●登城日 2015年10月10日
◆解説(参考資料 HP「北九州のあれこれ」、HP「福岡県の城址」等)
豊前・長野城(以下「長野城」とする)は、北九州市小倉南区大字長野にあって、城域の北側を現在の東九州自動車道のトンネルが斜めに横断している。当城から東方へおよそ7キロ隔てたところには、豊前・松山城(福岡県京都郡苅田町松山)が所在する。
【写真左】長野城
二の丸から本丸にかけて設置された堀切の一つ。
長野氏
築城者の一人とされる長野氏の出自についてははっきりしない点が多い。その中でも保元2年(1157)平時盛の子・康盛が豊前国司として下向し、長野に築城し長野氏を名乗ったという説があり、築城者の特定は困難としても築城期はおそらくこの頃と思われる。
室町時代に至ると、この長野氏は長野城の所在する長野を拠点とし、東谷・中谷・西谷を手中に収め、さらに蒲生・徳力まで勢力を拡大し、小倉南区辻三の大三岳(おおみつがたけ)城、小三岳(こみつがたけ)城、稗畑山城などを築いた。
【写真左】登城開始
登城口は北麓から続く「林道長野線」の起点から始まるが、後段でも紹介するように災害によって車両の通行止めとなっており、手前の空き地に車を停め、歩いて向かう。
気を付けなくてはならないのは、「マムシ注意」や「イノシシ注意」の看板が設置されているので、特に夏場は避けた方がいいだろう。
ところで、豊前国及び筑前国(現在の北九州地区)の戦国初期における版図は、北に大内氏、東南に大友氏、西南に少弐氏という大きな勢力に挟まれ、その中に長野氏をはじめ、麻生氏・門司氏といった国人領主たちがいた。
特に大内氏による支配が強く、天文20年(1551)の陶晴賢による謀叛によって義隆が自害し、陶晴賢が大友氏から義長を迎えて家督をつなぐ辺りまで名目上は大内氏の支配下にあったと推測される。
【写真左】出丸に向かう
林道を暫く歩いていくと次第に倒木や中小の小石などが崩落した箇所が増えていく。どうりで「通行止め」になるはずだ。
当城に関するマップなど殆どもっていないため、どのあたりからが城域に入るところなのかまったくわからない。それでも、歩いていくと右側斜面に黄色い札のようなものが木に掛かっていたのでここから登る。すると目の前に大きな岩が見えた。
前述したように、長野氏は当城(長野城)以外の大三岳城や小三岳城などを領有していたこともあり、大内氏没落後、大友氏と毛利氏との抗争の中で一族がそれぞれ分散していった。さらに秀吉による九州征伐の際はほとんどその名を残していないので、おそらくこの段階で長野氏による長野城は廃城となったと思われる。
【写真左】出丸
西側の尾根筋に設置された郭段で、出丸とされている。ほとんど整備されていないので、一見すると自然地形にみえるが、尾根の上部まで郭段が構成されていることが分かる。
長野城の概要
当城の特徴として挙げられるのは、夥しい畝状竪堀群である。
本丸を持つ頂上部から南に下る二つの尾根筋に郭段を設け、それぞれの尖端部には、二の丸、出丸が配置されている。またこれらの尾根に併せて100本前後の堀切を配置し、二の丸及び本丸の周囲に多くの竪堀を残す。一説にはその数200余りという。
【写真左】郭段
訪れた時期が悪いことや、標示されたものがほとんどないことから、写真では分かりにくい。
【写真左】「出丸」と書かれた標識
資料によってはこの出丸を「三の丸」と記しているものもあるが、南から北に向って連続する郭段の最高所に位置している。
【写真左】堀切
出丸から南に進むと、2,3条の堀切などがあるようだが、現地は鮮明でない。写真はそのうちの一つの堀切。
なお、そのまま尾根伝いに南に向かうと本丸にたどり着くが、現地は相当荒れているため、ここで一旦元の道に戻る。
【写真左】林道を進む。
林道を進んで行くに従い、段々と荒れた状況になり、ご覧の様に注意喚起のカラーコーンなどが設置されている。
倒木個所や崩落した石など増えてくるため、歩行が困難になるが、間を潜り抜けながら進む。
地面はこの箇所でもアスファルト舗装なのだが、殆ど土砂で埋まっている。
【写真左】再び登り口を示す標示が
出丸(三の丸)から下山した後、常に道路の右側斜面を見ながら登っていくと、ご覧の様な小さな看板とロープを発見。
以前は木に掛けてあったのだろう、「二の丸」と書かれた標識が斜面に横たわっている。これを頼りにこの斜面を登る。
【写真左】竪堀
長野城の特徴の一つである竪堀である。ロープを伝って登っていくと、途中からこの道が竪堀の中を通っていることに気付く。
【写真左】隣の竪堀
この辺りには多くの竪堀が配置されている。途中から左側にも中規模の竪堀が覗きはじめた。
【写真左】空堀
竪堀終点地点で小郭が介在し、そのあと右側に空堀が見えてきた。
左側の上を進むと二の丸の頂部にたどり着く。
【写真左】帯郭
傾斜のある竪堀を過ぎると、窪みは無くなり細長い帯郭となった。
【写真左】二の丸
帯郭から上を目指すと不揃いな削平地がある。この場所が二ノ丸の中心部。
【写真左】堀切
二の丸の一画には土塁状のものが残り、その下にはご覧の堀切がある。
樹木が相当生い茂っているため明瞭な遺構写真を撮ることはやや難があるが、このあたりが一番遺構密度が高い。
【写真左】堀切
上の堀切とは別のもので、中には堀切の延長線上に竪堀があるものもある。
【写真左】堀切脇の奇木
二の丸から本丸に向かう途中にも堀切があるが、その脇に佇んでいた奇木。
名前は分からないが、それぞれに伸びた枝はまるで筋肉隆々の人間の腕にも見える。
【写真左】土塁
本丸に向かう間には写真のように左側に土塁が奥に向かって伸びている。
右側はそれぞれ小郭となった段(郭)が階層的に繋がっている。
【写真左】堀切
本丸直前に設置されたもので、この辺りから傾斜がきつくなっているため、効果は大きい。
【写真左】本丸
何段かの郭を過ぎるとやがて本丸が見えてくる。
この付近でも左側に土塁が残っている。東方からの攻めを大分意識しているようだ。
【写真左】基壇
本丸の一画にのこるもので、高さ2m弱のもの。
【写真左】石仏
低くなった削平地の一画には大きな石の上に小さな仏像が鎮座している。
当時は祠などもあったのかもしれない。
【写真左】「本丸跡」の標識
本丸の中心部にはご覧の標識が木に取り付けられている。
なお、本丸の規模は不定型な三角形で東側と南側に伸びた形をしているようだが、笹や樹木に覆われていてはっきりしない。
【写真左】三角点
標高233m余の位置。
【写真左】畝状竪堀群
写真では不鮮明だが、本丸の南斜面にも多くの畝状竪堀群が散見される。
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●遺構 畝状竪堀群・郭・土塁等
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◆解説(参考資料 HP「北九州のあれこれ」、HP「福岡県の城址」等)
豊前・長野城(以下「長野城」とする)は、北九州市小倉南区大字長野にあって、城域の北側を現在の東九州自動車道のトンネルが斜めに横断している。当城から東方へおよそ7キロ隔てたところには、豊前・松山城(福岡県京都郡苅田町松山)が所在する。
【写真左】長野城
二の丸から本丸にかけて設置された堀切の一つ。
長野氏
築城者の一人とされる長野氏の出自についてははっきりしない点が多い。その中でも保元2年(1157)平時盛の子・康盛が豊前国司として下向し、長野に築城し長野氏を名乗ったという説があり、築城者の特定は困難としても築城期はおそらくこの頃と思われる。
室町時代に至ると、この長野氏は長野城の所在する長野を拠点とし、東谷・中谷・西谷を手中に収め、さらに蒲生・徳力まで勢力を拡大し、小倉南区辻三の大三岳(おおみつがたけ)城、小三岳(こみつがたけ)城、稗畑山城などを築いた。
【写真左】登城開始
登城口は北麓から続く「林道長野線」の起点から始まるが、後段でも紹介するように災害によって車両の通行止めとなっており、手前の空き地に車を停め、歩いて向かう。
気を付けなくてはならないのは、「マムシ注意」や「イノシシ注意」の看板が設置されているので、特に夏場は避けた方がいいだろう。
ところで、豊前国及び筑前国(現在の北九州地区)の戦国初期における版図は、北に大内氏、東南に大友氏、西南に少弐氏という大きな勢力に挟まれ、その中に長野氏をはじめ、麻生氏・門司氏といった国人領主たちがいた。
特に大内氏による支配が強く、天文20年(1551)の陶晴賢による謀叛によって義隆が自害し、陶晴賢が大友氏から義長を迎えて家督をつなぐ辺りまで名目上は大内氏の支配下にあったと推測される。
【写真左】出丸に向かう
林道を暫く歩いていくと次第に倒木や中小の小石などが崩落した箇所が増えていく。どうりで「通行止め」になるはずだ。
当城に関するマップなど殆どもっていないため、どのあたりからが城域に入るところなのかまったくわからない。それでも、歩いていくと右側斜面に黄色い札のようなものが木に掛かっていたのでここから登る。すると目の前に大きな岩が見えた。
前述したように、長野氏は当城(長野城)以外の大三岳城や小三岳城などを領有していたこともあり、大内氏没落後、大友氏と毛利氏との抗争の中で一族がそれぞれ分散していった。さらに秀吉による九州征伐の際はほとんどその名を残していないので、おそらくこの段階で長野氏による長野城は廃城となったと思われる。
【写真左】出丸
西側の尾根筋に設置された郭段で、出丸とされている。ほとんど整備されていないので、一見すると自然地形にみえるが、尾根の上部まで郭段が構成されていることが分かる。
長野城の概要
当城の特徴として挙げられるのは、夥しい畝状竪堀群である。
本丸を持つ頂上部から南に下る二つの尾根筋に郭段を設け、それぞれの尖端部には、二の丸、出丸が配置されている。またこれらの尾根に併せて100本前後の堀切を配置し、二の丸及び本丸の周囲に多くの竪堀を残す。一説にはその数200余りという。
【写真左】郭段
訪れた時期が悪いことや、標示されたものがほとんどないことから、写真では分かりにくい。
【写真左】「出丸」と書かれた標識
資料によってはこの出丸を「三の丸」と記しているものもあるが、南から北に向って連続する郭段の最高所に位置している。
【写真左】堀切
出丸から南に進むと、2,3条の堀切などがあるようだが、現地は鮮明でない。写真はそのうちの一つの堀切。
なお、そのまま尾根伝いに南に向かうと本丸にたどり着くが、現地は相当荒れているため、ここで一旦元の道に戻る。
【写真左】林道を進む。
林道を進んで行くに従い、段々と荒れた状況になり、ご覧の様に注意喚起のカラーコーンなどが設置されている。
倒木個所や崩落した石など増えてくるため、歩行が困難になるが、間を潜り抜けながら進む。
地面はこの箇所でもアスファルト舗装なのだが、殆ど土砂で埋まっている。
【写真左】再び登り口を示す標示が
出丸(三の丸)から下山した後、常に道路の右側斜面を見ながら登っていくと、ご覧の様な小さな看板とロープを発見。
以前は木に掛けてあったのだろう、「二の丸」と書かれた標識が斜面に横たわっている。これを頼りにこの斜面を登る。
【写真左】竪堀
長野城の特徴の一つである竪堀である。ロープを伝って登っていくと、途中からこの道が竪堀の中を通っていることに気付く。
【写真左】隣の竪堀
この辺りには多くの竪堀が配置されている。途中から左側にも中規模の竪堀が覗きはじめた。
【写真左】空堀
竪堀終点地点で小郭が介在し、そのあと右側に空堀が見えてきた。
左側の上を進むと二の丸の頂部にたどり着く。
【写真左】帯郭
傾斜のある竪堀を過ぎると、窪みは無くなり細長い帯郭となった。
【写真左】二の丸
帯郭から上を目指すと不揃いな削平地がある。この場所が二ノ丸の中心部。
【写真左】堀切
二の丸の一画には土塁状のものが残り、その下にはご覧の堀切がある。
樹木が相当生い茂っているため明瞭な遺構写真を撮ることはやや難があるが、このあたりが一番遺構密度が高い。
【写真左】堀切
上の堀切とは別のもので、中には堀切の延長線上に竪堀があるものもある。
【写真左】堀切脇の奇木
二の丸から本丸に向かう途中にも堀切があるが、その脇に佇んでいた奇木。
名前は分からないが、それぞれに伸びた枝はまるで筋肉隆々の人間の腕にも見える。
【写真左】土塁
本丸に向かう間には写真のように左側に土塁が奥に向かって伸びている。
右側はそれぞれ小郭となった段(郭)が階層的に繋がっている。
【写真左】堀切
本丸直前に設置されたもので、この辺りから傾斜がきつくなっているため、効果は大きい。
【写真左】本丸
何段かの郭を過ぎるとやがて本丸が見えてくる。
この付近でも左側に土塁が残っている。東方からの攻めを大分意識しているようだ。
【写真左】基壇
本丸の一画にのこるもので、高さ2m弱のもの。
【写真左】石仏
低くなった削平地の一画には大きな石の上に小さな仏像が鎮座している。
当時は祠などもあったのかもしれない。
【写真左】「本丸跡」の標識
本丸の中心部にはご覧の標識が木に取り付けられている。
なお、本丸の規模は不定型な三角形で東側と南側に伸びた形をしているようだが、笹や樹木に覆われていてはっきりしない。
【写真左】三角点
標高233m余の位置。
【写真左】畝状竪堀群
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