2018年3月10日土曜日

高八山城(広島県三次市三和町上壱)

高八山城(たかはちやまじょう)

●所在地 広島県三次市三和町上壱
●別名 山光寺山城
●指定 三次市指定史跡
●高さ H:430m(比高80m)
●築城期 不明(永正年間 1504~21年ごろか)
●築城者 上山氏
●城主 上山加賀守実広
●遺構 郭・井戸・堀切等
●登城日 2015年11月28日

◆解説(参考文献 『日本城郭体系 第13巻』、HP『城郭放浪記』等)
 広島県の呉市を起点とし、北に向かって三次市に向かう国道375号線は、管理人がよく利用していた道路で、近年尾道道ができたことにより最近はあまり利用していないが、高八山城はその375号線沿いの東側に築かれた連郭式の山城である。
【写真左】高八山城遠望
 西麓を走る国道375号線を挟んで西側に建立されている了安寺から見たもの。

 当城の尾根伝いを南に進むと、最初に築こうとしていた城山城がある。



現地の説明板より

“高八山城址
 この山城は、もと南側の城山にあったが、水の便が悪いため下手の山(山光寺山)に移ったと伝えられている。
 築城の時期は、永正年間(1504~1530(ママ))には築かれていたものと思われ、実戦的な山城である。城主上山氏は、大江流の長井氏の一族が上山郷の地頭職に補され上山氏を名乗ったものという。
 はじめは山内氏に属していたが、永正年間以前より毛利氏に属し、掃部助広信は、天文13年備後布野の合戦で討死している。城主上山元忠の備中高松における奮戦後、天正19年毛利氏に従って広島に移り廃城となる。
   三和町教育委員会”
【写真左】高八山城鳥瞰図
 現地に設置されていたものだが、大分劣化していたため、管理人によって加筆修正を加えている。
 当城はご覧の通り単純な連郭式山城で、規模もさほど大きくはない。


長井氏(ながいし)

 高八山城の城主上山氏(うえのやまし)は、大江広元の孫で備後国守護を務めた長井泰重の弟泰経から出ている。従って、毛利元就を輩出した安芸毛利氏の始祖・毛利時親の曽祖父が大江広元であるので、長井氏(上山氏)も同族になる(吉田郡山城・その1(広島県安芸高田市吉田町吉田)参照)。

 大江広元は元々朝廷につかえる官吏だったが、後に鎌倉幕府が開かれると幕府政所初代別当を務め、頼朝を補佐した。広元の正室は多田仁綱(源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)参照)の娘といわれている。
【写真左】登城口付近
 国道375号線から狭い農道を東に進むと、ご覧の「高八山城」と書かれた標柱が立っている。
 車1台分のスペースが確保されているので、ここに停める。


 広元の子には、長子として親広がおり、その実弟とされるのが長井時広である。兄の親広は承久の乱において倒幕方すなわち、後鳥羽上皇に与したため失脚、このため弟時宏が大江氏の惣領となった。

 時宏が大江姓から長井姓に変えたのは、出羽国置賜郡の長井荘を所領としたことから、在地名である長井氏を名乗っている。因みに、出羽国置賜郡の長井荘とは、現在の山形県置賜郡を中心とした場所であるが、近接の米沢市に所在し、のちの伊達政宗が深くかかわることになる出羽・米沢城は、大江時宏が暦仁元年(1238)に築いたといわれる。
【写真左】ここから登る。
 谷に沿って南に向かうと、途中で小さな五輪塔が一基建立されている。さらに進むと正面に砂防ダムが見えてくる。
 この手前に説明板や案内図などが設置されており、その脇の登り坂が入口となる。


 さて、この時広の子に泰秀、泰重がおり、その弟達の一人に泰経がいたとされる。

 時宏の次男・泰重が備後国守護に補任された時期ははっきりしないが、元々六波羅探題の評定衆を務め、建長4年(1252)周防国守護を皮切りに、備前国および、父時広の代から守護職として補任されていた備後国も受け継いでいるので、建長4年をすこし下った時期だろう。そして、備後守護職となった泰重は、弟泰経には高八山城を中心とするこの飯田川流域一帯を地頭職として統治するよう命じたものと思われる。
【写真左】登城道
 左わきには、上掲した鳥瞰図及び、搦手入口  九十九折の道(幾重にも曲がりくねった道)140mと書かれた説明板が建っている。

 従って、大手道は西側、すなわち国道375号線側にあったものだろう。




上山氏(うえのやまし)

 泰経は当地(上山郷)に下向した段階で、長井氏から上山氏を名乗ったものと思われるが、所領範囲は下向したころから殆ど変らず、室町期に至ると当時の備後守護職であった山名俊豊から西隣を本拠としていた毛利弘元(多治比・猿掛城(広島県安芸高田市吉田町多治比)参照)は、明応2年(1493)、伊多岐(三和町上板木・下板木・羽出庭)・則光壱分(三和町上壱)・黒河郷・津田郷・重永領家・小国等(世羅郡世羅西町)の安堵を受け、その3年後の明応6年にも敷名郷(三和町敷名)伊多岐などを山名氏から与えられている。
【写真左】三の丸・その1
 登城道は三の丸に繋がれており、この下には北の丸がある。
 北の丸及び、その下に堀切があるようだが、現地は整備されておらず踏査していない(下段の写真参照)。
 


 これらの版図は、上山氏領地(上山郷)をほぼ囲むもので、毛利弘元がこのころ伸張著しいものがあったことを示す。
 こうしたことから永正年間(1504~1520)になると、時の城主上山加賀守実広は、吉原次良五郎通親・敷名左馬助亮秀らと共に、毛利興元(弘元の子で、元就の兄)との間で、お互いに協力することを申し合わせ毛利氏に従った。
【写真左】三の丸・その2
 かなり古い説明板が設置されている。









 ところで、上山氏が毛利氏に属する前は、山内氏の臣下にあったという。この山内氏とは以前紹介した甲山城(広島県庄原市山内町本郷)の山内首藤氏のことで、山内通資が蔀山城(広島県庄原市高野町新市)から、地毘庄の甲山城に移った文和4年(1355)をあまり下らない時期に従属していたものと思われる。

 さて、享禄5年・天文元年(1532)、毛利家総帥となった元就から上山氏は改めて領地を与えられた。これはおそらく同年7月13日、福原広俊以下32名の家臣が、元就に対して3か条の起請文を提出しているが、これと関わるものだろう。
【写真左】土塁
 三の丸の北端部に残るもので、幅0.5m前後、高さ0.5mと小規模なものだが、当時はもう少し大きな規模のものだったのだろう。
【写真左】下の段を見る。
 三の丸の北側には北の丸が控え、その奥には堀切があるようだが、ご覧の状況で確認できない。



 
 32名の中に上山氏の名があるのか分からないが、家臣夫々が所領する領地の管理・維持や、不良債権の担保、被官人・下人などの罪科について、互いに相談することなどが記されている。

 毛利氏が上山氏を福原・坂氏などのように同族(一族)として見ていたのか、それとも粟屋・赤川氏のような譜代家臣として位置づけしていたのかはっきりしないが、いずれにしてもこの年(享禄5年)は、元就が「毛利家中」を曲がりなりにも最初に確立しようとした時期である。なお、この段階では「井上衆誅伐事件」は起きておらず、天文19年まで待たなければならない(阿賀城(広島県安芸高田市八千代町下根)参照)。
【写真左】井戸
 三の丸の南隅に配置されているもので、大分埋まっているが、現在でも水が少し溜っている。

【写真左】表道
 三の丸の南西隅には「表道」と表示された看板がある。いわゆる大手道だったところだが、奥の方は整備されておらず、現在ではあまり使用されていないようだ。



 ところで、説明板にもあるように、上山掃部助広信は、天文13年備後布野の合戦で討死している。
 布野の合戦とは、狐城と千人塚(広島県三次市布野町下布野)でも紹介しているように、天文12年(1543)大内氏が月山富田城攻めで敗北を喫した後、尼子晴久がこの機を狙って逆に備後に打って出た戦いの一つで、別名「布野崩れ」ともいわれた戦いである。この合戦において、上山実広の子広信は討死している。
【写真左】石垣
 三の丸の脇道から二の丸方面に向かう途中に見えたもので、二の丸の切崖の一部として積まれたものだろう。
 なお、帰宅してから分かったのだが、二の丸の写真がなかったことから、おそらく二の丸の方は整備されていなかったため、踏査していないと思われる。
【写真左】本丸
 本丸の北端部は余り整備されていないが、南側は歩きやすくなっている。先に向かっていた連れ合いが、西側にも道を見つけた。恐らく大手道のルートで、連れ合いが立っている箇所は虎口だろう。
【写真左】本丸から西麓を俯瞰する。
 南北に走る国道375号線が見え、その奥には下段で紹介する了安寺が見える。
 この写真では、右に行くと三次市内へ、左に行くと、東広島市へ繋がる。
【写真左】土壇
 本丸の南端部には土壇が控え、一部石積が確認できる。この頂部が当城の最高所となり、物見台として使われたのだろう。
 なお、この土壇の一角には竪堀のような遺構が見えたが、崩落した跡にも見える。
【写真左】堀切
 土壇の上から南側の切崖を見下ろすと、堀切が確認できる。かなり急傾斜で深く、下まで降りていないが、南から続いてきた尾根を完全に遮断するのもので、当城の遺構の中では最大のもの。
【写真左】了安寺から高八山城を望む。
 冒頭でも紹介したように、当城の西麓には浄土真宗本願寺派の了安寺がある。
 当院には縁起などを示すものはなかったため、詳細は不明だが、上山氏が当地を支配していたころ、なんらかの関わりがあったものと思われる。

2018年3月1日木曜日

足助城(愛知県豊田市足助町 真弓山)

足助城(あすけじょう)

●所在地 愛知県豊田市足助町 真弓山
●別名 真弓山城、松山城
●高さ 301m(比高170m)
●築城期 室町時代
●築城者 鈴木氏
●城主 鈴木氏
●遺構 郭・堀切・井戸・高櫓・厩等
●登城日 2015年10月25日

◆解説
 足助城は三河国に所在する城郭である。同国の城郭を紹介するのは足助城が初めてである。当城については、2007年に登城した美濃の苗木城跡・岐阜県中津川市苗木を探訪した折、その存在を知ったのだが、その経緯についてはほとんど記憶がない。ただ、「足助」という変わった名前だけは脳裏に残っていた。
【写真左】足助城
 ご覧のように城跡公園として大変綺麗に整備され、散策しやすくなっている。








現地の説明板より

“足助城
 足助城は、標高301mの真弓山の山頂を本丸として、四方に張り出した尾根を利用した、連郭式の山城です。
 真弓山は、足助の町並みを眼下に見下ろす要害の地です。

 足助城は、「真弓山城」とも呼びますが、「松山城」「足助松山の城」とも呼んだようです。鎌倉時代に足助氏が居城したという、「足助七屋敷(足助七城)」の一つとも伝えられますが、今回の発掘調査では、この時代の遺物は発見されず、現在残された遺構は、15世紀以降に鈴木氏が築城した跡と考えられます。
 なお、足助城は、元亀2年(1571)武田信玄に攻略され、天正元年(1573)まで、武田方の城代が在番しました。”
【写真左】縄張図
 現地に設置されているものだが、一般的な縄張図の描き方とは少し違って、デフォルメされた図である。

 中央部に本丸があり、その左に西ノ丸、右下に南の丸が図示されている。斜線で区画された箇所が城域だが、公園として整備されているのは中央の点線で囲った箇所になる。
【写真左】本丸・南の丸・西の丸配置図
 上記の縄張図では分かりにくいため、本丸など主要な箇所のみを示した要図が設置されていたので、併せて掲載しておく。

足助街道

 足助は古来より「塩の道」として有名な三州街道の宿場町・足助宿として栄えた。

 江戸期の足助街道の始点は、岡崎城下を走る東海道の能見口(能見町)から枝分かれする地点で、最初に5キロほど北上する県道56号線を進み、そのまま県道39号線となっていくルートがほぼ当時の足助街道と重なる。
【左図】足助城・飯盛山城を中心とした支城と当時の街道を示した図
 現地に設置されていたもので、文字などが擦れていたため、管理人によって修正を加えたもの。


 途中から矢作川の支流巴川と並行して北東方向に進み、足助の手前で西から伸びる飯田街道(国道153号線)と合流し、足助街道はここで終点となるが、そのまま飯田街道を上っていくと、信州に入り(三州街道)、伊那の飯田に繋がる。
【写真左】公園入口
 手前に駐車場があり、そこから坂を登っていくと左側に事務所があり、そこで入場料を払って入る。







足助氏鈴木氏

 足助城の築城者及び城主は下段の説明板にもあるように、鈴木氏といわれている。鈴木氏が当地を支配する前に居たとされるのが、平安時代末期に足助城の隣にあった飯盛山城を本拠とした足助氏である。

 足助城を訪れた際、飯盛山城にも登城しようと試みたが、この日は近くにある景勝地・香嵐渓(こうらんけい)に多くの観光客が訪れていたため、駐車場の確保が困難であったことから断念した。

 前述したように、足助氏は飯盛山城を居城とし、その周辺に6ヶ所の支城を配置している(上図参照)。この支城の一つが本稿の足助城(真弓山城)である。因みに、他の5ヵ所は、臼木ヶ峯城、大観音城、城山城、成瀬城、黍生城で、本城・飯盛山城と併せて、「足助七城」と呼ばれた(上図参照)。
【写真左】南の丸を見上げる。
 登城コースは、南の丸の下から西に向かうようになっている。南の丸の切崖はかなり険しく、崩落したのだろう斜面が改修されている。

 なお、この南の丸から下に繋がる尾根筋には、腰郭が2段構成されている。



“鈴木氏

 鈴木氏は、戦国時代に西三河山間部に勢力をもっていた一族です。そのうち、足助の鈴木氏は、忠親→重政→重直→信重→康重と5代続き、初代忠親は、15世紀後半の人といわれます。

 16世紀に入ると、岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返しますが、永禄7年(1564)以降は、松平氏のもとで、高天神城の戦いなどに武勲をあげます。そして、天正18年(1590)康重のとき、徳川家康の関東入国に従って、足助城を去りますが、間もなく家康から離れ、浪人となりました。

 なお、飯盛城の居館(現香積寺(こうじゃくじ)付近)なども、使用したと思われますが、よくわかりません。”
【写真左】井戸
 南の丸腰郭から西ノ丸へ向かう途中にあるもので、石積跡が残る。








  “発掘調査

 平成2年度から4年度まで、足助城の発掘調査を行いました。室町時代から戦国時代の山城の発掘調査は、全国的にも珍しいものです。

 山城は、戦いの時の砦とも考えられますが、足助城では、どの曲輪からも建物跡の柱穴がみられ、多くの日用雑貨や茶道具・文房具・白磁などの渡来品(輸入品)も出土したことから、生活の場であったともいえましょう。

 明確な建物跡がわかったのは、本丸・南の丸・北腰曲輪1・同2・西物見台で、いずれも、掘立柱の建物です。本丸腰曲輪3からは、建物の礎石が見つかっています。また、本丸と南物見台を結ぶ橋・井戸・堀切などもわかりました。”
【写真左】西の丸と、西ノ丸腰郭の分岐点
 右に上ると西ノ丸に直接つながるが、先ずそのまままっすぐ腰郭の方へ向かう。







“整備

 足助城は、400年の歳月を経て、再び姿をあらわしました。変転極まりない戦国時代を生きた足助城は、ふるさと足助の一つの姿です。

 足助町は、愛知のふるさとづくり事業、町制施行100周年記念事業として、足助城を再現しました。工事は発掘調査の結果をもとに、忠実い施工したものです。戦国時代の山城跡の本格的な復元は全国でも初めての試みです。足助城を通して戦国の世を生きた人々の心に、思いを寄せていただけることを願います。”
【写真左】西ノ丸腰郭1
 西ノ丸の下に構築された郭で、半円形のもの。
【写真左】西の丸を見上げる。
 西の丸腰郭1から見上げたもので、高低差は7~8m位か。
 このあと、西の丸に向かう。
【写真左】西の丸
 東西に長軸をとる形状で、15m前後の奥行がある。
【写真左】西の丸から西物見台と本丸を見上げる。
 西の丸の東側には茅葺の西物見台の建物が建っている。
 その右奥に本丸が見える。
 このあと、右側の通路を通って、先ず南の丸に向かい、その後本丸に向かう。
【写真左】南の丸へ向かう。
 西物見台から左手に本丸を見ながら、先ず南の丸へ向かう。
 奥に南の丸の建物が見える。
【写真左】南の丸・その1
【写真左】南の丸・その2
 南の丸には当時二つの建物が建っていたことが分かっている。

 具体的には厨(くりや)などがあるが、いずれも平時の生活が当城で営まれた可能性が高い。
【写真左】物見台
 南の丸と上にある本丸の中間点に設けられたもので、南の丸の段からは確認できない視界を、より高い位置にあるこの物見台で補完していたものだろう。
【写真左】本丸を遠望する。
 南の丸の東側に回り込むと、奥に本丸が見える。
【写真左】本丸に向かう。
 手前に橋が架けられているが、これは物見台に繋がる段の間に堀切があるためである。
【写真左】本丸
 本丸には櫓があったことが知られており、現地には復元された建物が建つ。
【写真左】本丸東面
 本丸の東側にも北郭1、2と二つの腰郭が配置されている。手前の階段を左に降りていくと北腰郭1に繋がり、その下には腰郭2がある。

【写真左】飯盛山城と足助の街並み
 足助城の西麓を流れる巴川は支流足助川と合流しているが、その東岸には飯盛山城が見える。
 また眼下には足助の街並みが見える。
【写真左】足助城遠望
 足助の街並みから見たもので、手前には巴川が流れる。