2015年11月26日木曜日

阿用城(島根県雲南市大東町東阿用宮内)

阿用城(あようじょう)

●所在地 島根県雲南市大東町東阿用宮内
●別名 磨石城・蓮花(寺)城
●築城期 南北朝期
●築城者 土屋氏(桜井氏)
●城主 桜井(阿用)宗的
●高さ 309m
●遺構 郭・堀切・土塁・帯郭・虎口
●備考 明峰山 蓮花寺
●登城日 2014年10月24日

◆解説(参考文献 『日本城郭体系第14巻』『石見町誌』等)
 前稿まで九州地区の山城を取り上げてきたが、今稿は久しぶりに管理人の地元・出雲の山城を取り上げたい。
【写真左】阿用城遠望
 西側から見たもので、北(左)側には蓮花寺が所在する。









 阿用城は別名磨石城(とぎしじょう)とも呼ばれ、現在の雲南市大東町阿用地区に築かれた城砦で、この近くには以前取り上げたものとしては、丸子山城(まるこやまじょう)跡・島根県雲南市大東町大東や、佐世城(島根県雲南市大東町下佐世)などがある。

現地説明板より

“阿用城由来記

 阿用城は、14世紀から16世紀、南北朝時代から室町時代にかけて阿用を支配していた土豪桜井氏の居城跡である。桜井氏は京極氏の家臣であったが、15世紀の終わりに京極氏に代わって出雲の覇者になった尼子氏に従わなかったため滅ぼされたと伝えられている。
【写真左】登城口始点
 蓮花寺に向かう道の途中で道が分岐し、右に向かうと阿用城(とぎし城)へ、左に向かうと蓮花寺にたどり着く。

 車はこの付近の空き地に1台程度は留めることができる。


 城跡は、標高309mの通称磨石山(とぎしさん)の頂部から延びる尾根上や、枝尾根上に延600mにわたり大小60余りの郭(平に加工された区画、曲輪)が配置された大きな山城跡である。
 しかし、郭面は自然地形のままのところも多く、土塁も明確なものは山頂の主郭の一部のみである。また斜面に竪堀(敵の移動を防ぐための竪状の堀)は見当たらず、城の縄張り(構造)としてはややまとまりを欠く。
【写真左】登城道
 林道として使われているせいか、しばらく歩きやすい道となっている。

 また要所ごとにこうした案内標識が立っているので分かりやすい。


 城主の居館跡については、平成元年多量の埋納銭貨(せんか)が発見された南西側東上集落の山麓区域が考えられる。また下方の福富集落東側低丘陵上には、福富城跡があり、阿用城の支城跡の一つと考えられる。

 阿用城の城攻めについては、軍記物の『雲陽軍実記』及び『陰徳太平記』に独特の文学的表現で劇的に語られている。即ち寄せ手の大将尼子政久(経久の嫡男)が夜、向城の櫓上で笛を吹いていたところ、阿用城主桜井宗的に向いの竹やぶから矢を射掛けられるという奇襲攻撃を受けて殺された。この事件の後、阿用城は尼子軍の総攻撃を受け落城したと記されている。
【写真左】ここから急坂となる。
 幅員が結構あるので、おそらくここまで軽トラックで登れるかもしれない。
 ここまで遺構らしきものは見いだせない。


 また『佐々木系図』(佐々木寅介蔵原本・県立図書館写本蔵)には、政久の死について次のように記している。
 「政久 又四郎 民部少輔 永承十年(1513)癸酉九月六日於雲州阿與城当流矢卒歳廿六 法名 華屋常心」。

 落城の時期については、雲陽軍実記は1508年(永正5年)、陰徳太平記は1518年(永正15年)とする。これら三資料から阿用城落城は1510年前後と考えられるが、あるいは佐々木系図の1513年が当たっているかもしれない。

 平成22年10月 阿用地区振興協議会”
【写真左】土塁
 登城途中の右側に土塁が見える。
この辺りから郭群が散見されるが、いずれも小規模なものや、劣化のため自然地形に近いものが多い。


蓮花寺(曹洞宗 明峰山)

 阿用城の所在する磨石山に向かうには、北側の谷を挟ん隣接する尾根に建立された古刹・蓮花寺を目指す。先ずはこの寺院について先に紹介しておきたい。

 『島根の寺院 第3巻』(有賀書房)によると、寺伝によれば、奈良時代後期の天平年間(749~766)、行基菩薩又は延暦年間(782~805)、伝教大師の開基ともいわれる。また、出雲観音霊場第14番の札所でもある。
【写真左】蓮花寺
 参拝日 2007年12月26日











 南北朝時代の正平年間、大東庄南北を領していた土屋氏の一族・土屋四郎左衛門尉、及び伊藤弾正左衛門尉が、伯耆の名和氏と呼応し、蓮花城に拠って勤王の兵を挙げたと伝えられている。

 元は天台宗であったが、応永年間(1394~1428)に本院開山融山大祝禅師が再興し、以来曹洞宗として法灯絶えることなく今日に至っている。
【写真左】「くのじ展望台」から阿用城を遠望する。
 蓮花寺側から東に少し登っていくと、「くのじ展望台」があるが、ここから南方向を眺望すると、阿用城が見える。

 なお、「くのじ展望台」については下段の方で紹介している。




土屋氏

 さて、上掲した説明板には、阿用城を居城としたのは、土豪桜井氏とあり、元は京極氏の家臣であったとしている。これに対し、「蓮花寺」の項では、土屋氏としている。

 土屋氏と桜井氏、この両氏がどういう経緯で当地に入ったのか、詳細な記録はない。
【写真左】このあたりから左右に小郭の段。
 説明板にもあるように、中小60前後の郭が点在していると書かれているが、ほとんど明瞭でない。





 そこで、まずは土屋氏という姓名を一つの手がかりとして推考してみたい。出雲国という西国における当時の国人領主や土豪といった一族の出自を思い浮かべるとき、一般には東国御家人が考えられる。土屋氏もその例外でなく、やはり鎌倉期における地頭補任がもっとも可能性が高いだろう。
 
 出雲国において最初に土屋氏の名が出てくるのは、土肥実平の弟・土屋宗遠(むねとお)が大原郡福田荘に補任されたという記録がある。もっとも、この地頭記録はその後代官の濫妨行為によって、文治2年(1186)に停止されている。
【写真左】主郭・その1
 尾根の最初のピークを過ぎるとその後は平坦な道となるが、そのまま北に進んで行くとご覧のように伐採整備された主郭が見えてくる。



 福田荘というのは阿用城の所在する大東町の西隣加茂町にあった荘園で(下段写真参照)、文治2年の地頭停止の際、土屋氏は福田荘から大東町阿用に移った可能性もある。また、少し時代は下るが、天福元年(1233)ごろ、宍道湖の北岸にあった秋鹿郷には土屋氏が地頭となっている。
【写真左】主郭から北西に旧福田荘などを見る。
 主郭から眺望が利くのは、北西方向だが、ここから旧福田荘があった加茂町や、以前取り上げた高瀬城(島根県斐川町)や、葛西氏・城平山城(島根県斐川町上阿宮)その1などが見える。

 また、斐川町を挟んでその奥には、通称北山に聳える旅伏山城(島根県出雲市美談町旅伏山)も眺望できる。


 ところで、土屋宗遠の兄・土肥実平はこれまで何度も登場してきているが、安芸・高山城の城主沼田小早川氏の始祖である。実平の弟とされる土屋宗遠は、兄実平と同じく相模国の出で、現在の神奈川県平塚市土屋を本拠とした。頼朝の鎌倉開幕に貢献し有力御家人となった人物であるが、晩年は承元3年(1209)梶原景時の孫を殺害した咎などで歴史の表舞台から姿を消すことになる。
【写真左】主郭の北側切崖
 主郭の北西側は全体に急傾斜となっているが、その上段部には高さ3m前後の切崖があり、一段ほどの腰郭状のものが付随している。



南北朝期

 上掲した蓮花寺の寺伝にもあるように、南北朝期におそらく阿用城と思われる蓮花城があり、時の城主が土屋四郎左衛門尉(以下「土屋四郎」とする)などとなっている。このことから、鎌倉期に当地に下向して以来、同氏はその地に根を張っていったのだろう。
【写真左】竪堀
 本丸の西側斜面に残るもので、大分劣化した遺構だがこの箇所の竪堀は比較的分かりやすい。





 土屋四郎が伯耆の名和氏と呼応し、当城に拠って勤皇の兵を挙げたというのは、後醍醐派に与したことでいわゆる南朝方(宮方)として戦ったということである。
 当然、これに対する北朝方の攻防もあったわけで、これを示したのが、諏訪部扶貞(貞扶)の軍忠による文書である(『三刀屋文書』)。
【写真左】腰郭
 主郭から北東に延びる尾根を少し進んで行くと、細長い腰郭がある。
 当城の北端部に当たる個所で、この付近には櫓に使われたと思わる巨石が2,3点在していた。


 このことについては、すでに瀬戸山城で紹介しているが、出雲部における戦いは、正平5年・観応元年(1350)が最も激しい。この年の8月下旬、諏訪部扶貞は下記の場所での軍忠を書き上げ、高師直の証判を受けた。
  1. 7月8日、阿用荘蓮花城
  2. 7月12日、来島荘由木城(由来城) 飯南町頓原
  3. 7月13日、来島荘野萱・下小城(下古城か)
  4. 8月8日、安来津
  5. 8月13日、富田関所
  6. 8月14日、平浜八幡宮
丁度この頃、畿内では北朝方の足利直義と高師直両者の対立が生じ始め、京の都は騒擾し始めていた。そして、師直は直義を討つため、尊氏の館(直義がこの館に逃げ込んだ)を囲んだ。

 またこれとは別に、正平4年(1349)の9月10日、足利尊氏は中国探題として備後にあった直冬を討伐することを決意、直冬は四国に奔り、さらには九州へ一旦逃れた。その後直冬は石見国へ向かうことになる。
【写真左】蓮花寺本堂の屋根
 主郭から尾根を更に進んで行くと、北東方向には蓮花寺の屋根が見える。
 当院との間に登城道(参拝道)があり、当城とは谷を介している。



 翌正平5年:観応元年(1350)6月21日、尊氏が担ぎ出した北朝方天皇・光厳上皇は、院宣によって足利直冬の追討を命じ、高師泰が石見国へ向かった。

 これに対し、直冬は鰐淵寺に祈祷を命じ(「鰐淵寺文書:7月20日条」)、8月13日には出雲国の佐々木信濃五郎左衛門尉らが直冬に応じて挙兵した。おそらく、阿用城(蓮花城)にあった土屋四郎左衛門尉、及び伊藤弾正左衛門尉らもこれらに与していたものと思われる。また、同月19日には小境元智(檜ヶ仙城(島根県出雲市多久町)参照)が直冬方として挙兵し、翌20日には多久中太郎入道らも参戦して、白潟橋で終日戦闘している(『萩閥66』)。
 こうしたことから、阿用城における両者も含めこのころの反北朝方は、宮方というよりも直冬に集結していたと考えられる。
【写真左】主郭・その2
 探訪したこの日、幸いにも主郭付近はきれいに伐採され、ここから麓の大東の街並みをはじめ、西隣の加茂町、斐伊川沿いの山並みや宍道湖を挟んで北側の北山連山などが俯瞰できた。
 なお、この位置からこれまで取り上げてきた山城数か所も確認できる(下段写真参照)。



石見土屋氏桜井氏

 さて、次に桜井氏だが、土屋氏と桜井氏両名の姓名を調べていくと、意外なことに、この二つの姓名を名乗る一族が実は隣の石見国に記録されている。

 特に土屋氏は平安末期ごろより、江の川の中流域にあった桜井郷に居住し、海外貿易を盛んに行っていた一族で、桜井郷を苗字にとって桜井氏とも名乗っている。そして桜井郷というのは、現在の江津市桜江町地域である。従って、桜井氏とは土屋氏のことである。
【写真左】主郭から岩熊城を見る。
 岩熊城(いわくまじょう)で、すでに紹介しているが、阿用城主桜井氏は経久によって攻略されたものの、同氏庶流及び、馬田氏はその後忠山城(島根県松江市美保関町森山)でも紹介したように、山中鹿助らと共に永禄年間尼子氏再興をめざし奮闘している。


桜井宗直宗信

 応永13年(1406)、周布兼宗の所領であった邇摩郡井尻村を桜井宗直が横領するという事件が起こった。兼宗は幕府に訴えたが、驚くことに幕府はそれを退け、宗直の領有と認めた。そして兼宗にはその替え地として同郡福光上村の土地を与えた。その理由は桜井氏(土屋氏)が海外貿易で蓄えた莫大な財力を背景に、幕府にいわば賄賂的なものを提供して了承を得たものであろうとしている。
【写真左】主郭から北方に丸倉山城・大平山城・八重山(城)を遠望する。
 阿用城のある磨石山から北方に目を転ずると、幡屋三連山とわれる三山が見える。
 これらも既に、丸倉山城跡大平山城跡八重山城跡で紹介済みである。



都治騒動

 その後桜井宗直の嫡男宗信の代になると、那賀郡都治の都治家(佐々木)から娘を貰い受けるが、かねてから日本海側の領地取得を画策していたのか、宗信は妻の実家都治家の乗っ取りを図った。応永20年(1413)、「泊り狩り」に都治家八人衆を謀殺、翌21年正月には年賀に出かけた義兄都治弘行及び妻を殺害した。
【写真左】主郭から高麻城を遠望する。
 高麻城跡(島根県雲南市加茂町大西)ですでに紹介しているが、旧福田荘(加茂町)に所在する山城である。



 幕府は当然ながら宗信の不法を責めたが命に従わないため、山名氏明に命じて宗信討伐に向かわせた。このとき、氏明が率いた軍勢は、但馬・因幡・伯耆・出雲から参陣したもののほか、当地石見からは吉見・益田・三隅・周布・福屋・小笠原・佐波・河上(かわのぼり)など中小の国衆も集まったという。

 桜井一族の討伐のためこれだけ大勢の軍勢が向かったのは驚きだが、逆に言えば、桜井氏が財力と併せそれだけ強大なものだったのだろう。また、山名氏明側は当時石見守護であった山名教清(在職期間 1406~29)の威光も働いたのかもしれない。

 この戦いでは宗信の拠る要害堅固な鏑腰城(かぶらこしじょう(写真参照)の攻略はせず、氏明らは向城として市山江尾の小城、日和の金比羅山城(日和城)、谷住の宮山城に陣を構え、氏明自身は波積に本陣を構えた。戦いはいわば持久戦によって氏明らが勝利し、桜井(土屋)氏の領地は次の諸族に預けられた。また、氏明はこの戦いで石見守守護職に補せられたという。
【写真左】鏑腰城遠望
 所在地:島根県江津市桜江町川戸

 江の川を挟んで北側を走る国道261号線から見たもの。

 右に向かうと江の川河口(日本海)へ出る。
 当城の北麓直下はJR三江線が走っているが、麓からは見上げるような絶壁となっている。
 まさに難攻不落の山城といった感じで、現在も登城は不可能に近い。



●川戸・有福・波積   山名氏明
   ※桜井地方史によれば、敗れた土屋宗信はその後氏明の領地のうち、川戸と波積は再び手に入れている)

●市山・日貫   福屋(氏兼)

●日和・川越池内大貫   小笠原(長教)

●谷住郷・松川地内上津井  某(周布兼宗か)

●上都治・下都治  烏丸豊光
   ※桜井地方史によれば、これに河上を加えている。

 桜井宗直はこの結果ほとんどの領地を失ったが、対外貿易で莫大な富財を手にしていたことや、縁戚関係にあった周布氏の協力も得て、その後失地回復を図ることになる。戦いの2年後の応永23年(1416)7月、京都の後小松上皇の御所が火災に遭った。幕府はその修理費として諸国へ一郡100貫ずつの郡銭徴収を命じた。石見については幕府は宗直に対し、当地六郡分の郡銭600貫を納入させ、一定の免罪と併せ、一部領地を回復させたという。
【写真左】「くのじ展望台」
 蓮花寺から370m程北東部の尾根頂部に向かったところに設置されている。
 永正年間に尼子経久の攻略によって落城するが、おそらくこの展望台が尼子氏の向城として使われた可能性が高い。


阿用城桜井氏石見桜井氏

 さて、長々と土屋氏並びに桜井氏について述べてきたが、出雲阿用城の桜井氏と石見の桜井氏の接点は資料上いまのところ見出し得ない。しかし、冒頭でも紹介した戦国期尼子氏に討ち取られた桜井宗的という名前からいえば、「宗的」の「宗」は土屋氏時代の祖・宗遠からすでに、「宗」を名乗り、石見の桜井氏もまた、宗直・宗信と継承されている。
【写真左】尼子政久の墓
所在地 松江市八雲町熊野 常栄寺

 阿用城の落城期については諸説あるが、陰徳太平記によれば、経久嫡男の政久が亡くなったのは永正10年(1513)9月6日とある。
 政久の墓は、松江市八雲町の常栄寺に建立されている。



 そして、阿用城の初期は土屋氏を名乗り、戦国期に至って桜井の姓を名乗ったということから考えると、この石見の桜井氏が当地出雲に下向してきた可能性が十分に考えられる。逆にいえば、石見桜井氏が下向しなければ、阿用城の城主はそのまま「土屋」氏を永代名乗ったはずである。

 想像だが、石見桜井氏が都治騒動後、何らかの理由で当地を離れざるを得なくなり、また同族の大東阿用城主土屋氏も、継嗣上の都合が生じ、石見桜井氏を招聘したのではないだろうか。

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