2019年6月10日月曜日

淡相城(岡山県美作市粟井中字馬形)

淡相城(あわいじょう)

●所在地 岡山県美作市粟井中馬形
●指定 美作市指定史跡
●別名 粟井中村城
●築城期 長和3年(1013)2月、又は応仁年間(1467~68)
●築城者 淡相佐盛・菅原景盛
●城主 淡相氏
●高さ 202m(比高 45m)
●遺構 郭・堀・土塁等
●備考 春日神社
●登城日 2016年9月11日、2019年5月23日

解説
 淡相城は岡山県の旧吉野郡粟井中に所在する丘城で、城域には春日神社が祀られている。旧国名でいえば美作国の北東部に当たり、さらに北東に進めば、因幡と播磨を繋ぐ大原宿へ繋がる。現在の429号線は当時の街道をほぼトレースしているルートのようだ。
【写真左】淡相城遠望
 北側を走る国道429号線から見たもの。
当城北麓には「粟井春日座」という農村歌舞伎専用の小屋が建っている。


現地の説明板より

‟春日神社由緒沿革

 当神社が初めて吉野郡淡相(よしのごおりあわい)の郷(美作市粟井中)に建立されたのは、67代三条天皇の御世、長和2年(1013)3月で平安時代である。備前・美作の国造(くにのみやつこ)(地方官で祭事を行った)和気清麻呂(わけのきよまろ)公5世の孫・相法公(しょうほうこう)によって大和国官幣大社春日大社の御分霊を奉斎した由緒ある古社である。
【写真左】淡相城及び春日神社入口
 国道429号線沿いに「春日神社・春日座」という看板が立っており、その脇の道を進んでいくと、御覧の看板が設置された駐車スペースがある。
 ここに車を停めて、右側の坂を登って行くと春日神社境内に繋がる。
 奥には春日座の建物が見える。



 当時の日本は藤原氏の全盛時代であり、その氏神である春日大神がこの地に勧請された政治的な意味は大きかったと思われる。
 「枕草子」「源氏物語」が書かれたのもこの頃である。この粟井の郷は京の都から播磨国を通って西国へ行く街道筋であり、中央政府から近国の重要地点としての扱いを受けていたものと思われる。
 万葉集(巻11 柿本人麻呂歌集 2424)に小野の双子山が、


(ひも)(かがみ)能登(のと)()の山も()がゆゑか 君来(きみき)ませるに (ひも)()(解)かず寝む(能登香山=双子山)

と詠われており、古の奈良の都の頃から万葉歌人がこの郷を訪れていたのである。
【写真左】春日神社境内
 境内の南側には民家があり、境内と民家の敷地の境がないため、おそらく宮司の家かもしれない


「後醍醐天皇の行幸」元弘2年(1332)隠岐へ配流の途上の3月16日、警護役の近江守護佐々木導誉から『美作国粟井郷に春日大明神と申す古社があり、昔皇位の危機を救った和気清麻呂の子孫が勧請したので行幸なされては』との奏上により参詣された史実がある。
【写真左】後醍醐天皇御腰掛石
 神門を潜ると左側には後醍醐天皇が腰かけたといわれる石が祀られている。





 現地の説明板より

‟元弘2年(1332)3月16日、隠岐の島配流の途上春日大明神に行幸になり、この石に腰をおろされ扈従(身分の高い人のお供)の千草忠顕の出す湯茶を召し上がられた。”



後醍醐天皇隠岐配流・春日神社参詣

 さて、上記の説明板では、後醍醐天皇はこの春日神社に参詣したと記されている。後醍醐天皇が隠岐に配流されたときの経路は、六波羅の南方館を始点とし、摂津、播磨、美作を通り、中国山地を超えて伯耆に入り、出雲の美保関から船で隠岐に向かったとされている。
 この経路で考えると、播磨と美作の国境に当たる杉坂峠を越えたあと、しばらく西進し、江見で吉野川に出て、そこから北へ遡り粟井へ向かったことになる。

 帝の配流警護に当たっては、佐々木導誉(勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)参照) をはじめ、千葉介貞胤らがその任を努めた。導誉が帝の配流警護を担った経緯ははっきりしないが、『増鏡』で帝が京都南郊の淀の渡りで、むかし橋渡しを勤めた導誉の姿を見て懐旧の念を禁じえなかったと記していることから、導誉の奏上にも応じ、粟井の春日神社参詣に赴いたのだろう。
【写真左】粟井・安東の姓名が入った玉垣
 春日神社境内に後醍醐天皇所縁の腰掛岩があったことにも驚いたが、玉垣に筆耕された「安東」姓のものにはさらに驚かされた。
 この安東氏は、藤原道長六男長家から出た備前国安東氏を出自とし、以後美作英田郡山口城主となり、その後織田信長の小姓となったものの、信長が本能寺で横死したため、帰郷し作東町国貞に住み国貞を名乗ったが、のちに同族の安東家の娘婿となっている。おそらく玉垣にある安東氏らはその末孫だろう。


再建
 神社裏山には粟井中村城または、淡相城と呼ばれる城址があり、築城完成は長和3年2月である。

 本丸、東の丸などの跡地が現存している。当時の御社は現在地よりも裏山の少し高いところにあった。室町時代の乱世により、春日神社も淡相城と共に戦火にまみれ焼失した。その後103代後土御門天皇の御世文明18年(1486)丙午の歳、旧9月17日、将軍足利義尚の臣・英田郡司粟井近江守菅原景盛公(淡相城主)により、現在地に再建された。

 北福鉱山(大字粟井中)、瀬戸・大弘(たいこう)鉱山(大字瀬戸)など生野代官支配の銀山の採掘が盛んで、城下町として市が立ち、出雲・津山街道の宿場町として大いに栄えていた。
【写真左】鳥居付近
 左の鳥居を潜ると神門があり、奥には拝殿・本殿が祀られているが、その鳥居の手前から淡相城に向かう道が設置してある。
 写真の右側奥が登城口となっている。


「鎮座地」 岡山県美作市粟井中273番地外 境内地 2,487㎡

「旧社格」 郷社(粟井郷の総社)

「主祭神」   天児屋根命(あめのこやねのみこと) 
        武甕槌命(たけみかつちのみこと) 
        経津主命(ふつぬしみこと) 
        天照大御神(あまてらすおおみかみ) 
        天鈿女神(あめのうずめのかみ) 
        大国主神 菅原道真命 外十三柱の神
「摂社」    
        (小宮)荒神社 稲荷神社 国司(くにし)神社
        水若酢(みずわかす)神社 随身門社
「例祭日」 
 時代により10月17日から10月10日となり、現在は体育の日の前日の土・日曜となった。伝統の春日神楽奉納 御神幸祭 保存会による春日歌舞伎など。

「氏子」 
 粟井中・鷺巣(さぎす)・梶原・小房・小野・馬形・長谷内・宗掛の八か大字の区域。
 境内地は荘厳にして、御社殿の建築、殊に彫刻に至っては、社寺建築の研究家から「近郷に類い稀なる一級品である」と絶賛されたものである。
【写真左】春日神社・本殿
 拝殿の奥には本殿が祀られ、その手前の西側には説明板にもあるように、摂社の国司神社・水若酢神社などが建立されている。


築城期

 淡相城の築城期については、説明板では長和3年(1013)2月、と記されているのでだいぶ古い城郭といえる。その後、室町時代に戦火にまみれ、社は一旦焼失したものの、文明18年(1486)に再興されている。
 時の城主は足利義尚(美作・高田城(岡山県真庭市勝山)参照) の臣で、英田郡司粟井近江守菅原景盛、即ち粟井景盛という武将である。
【写真左】登城開始
 登城口を示す標識などはないが、境内東側に登城道が見えたので、ここから向かう。





 足利義尚が室町幕府9代将軍になったのは文明5年(1473)で、9歳という幼少の時である。
 父・義政と母・富子の間にはしばらく実子がなく、義政の実弟・義視を養子とし、次期将軍と考えていた。しかし、その後実子義尚が生まれたため、突如として将軍の後継者問題が発生した。これを起点として将軍をとりまく実力者などが対立、ついに応仁・文明の乱が勃発することになる。
【写真左】二の丸
 淡相城はさほど大きな城郭ではないため、登城口から少し登るとすぐに遺構が現れる。
 写真は西側に伸びる郭で、二の丸と表示されている。幅10m×奥行20m前後のもの。
 この位置から右に向かうと、「池堀」がある。



 さて、淡相城の築城者である粟井景盛は、足利義尚の臣であるとされているが、その経緯は分からない。ただ、当城及び春日社が再興された文明18年は、それまで形ばかりの将軍であった義尚が初めて、父義政から公式に政務を引き継ぐ年でもあったことから、おそらくこの交代期に臣となった可能性が高い。
【写真左】空堀と池
 二の丸を横に見た後、奥に進むと手前に池があり、その奥には空堀が見え始める。
【写真左】二の丸側の堀切
 空堀を少し進むと、左手に二の丸側から伸びてきた堀切が顔を出している。
【写真左】空堀・その1
 淡相城の見どころの一つである空堀は、規模は大きなものでないが、その精緻さは特筆される。
 この日登城したとき、この箇所だけはきれいに整備されていた。
【写真左】空堀・その2
 空堀の底部に降り、そのまま進んでいくと次第に屈曲した形になり、奥に行くに従って浅くなる。
 最深部にたどり着いた瞬間、見事なツノをつけた大きな一匹の鹿と遭遇した。2秒間ぐらい立ち止まっていたが、すぐに藪の中へ音もなく飛び立つように消えていった。
 
 山城登城をしていると、往々にして野生の動物に遭遇することはあるが、淡相城で見た鹿は、まるで当城の主のような気品と優美さを兼ね備えていた姿に見えた。この後本丸に向かう。
【写真左】本丸遠望
 左側に土塁があり、中央部が空堀、そして右側が本丸に当たる。
【写真左】本丸と土塁
 本丸の外周部には土塁が囲繞している。
 このあと、さらに奥に進む。
【写真左】本丸の奥
 手前の方は整備されていたが、奥の方は雑草が繁茂していて遺構の状態は分かりにくいが、ほぼ削平されている感じだ。
【写真左】本丸下の郭
 登城したこの日、部分的に草刈りなどの整備がされた箇所があるものの、全体に雑草が多く、良好な写真は撮れなかった。
 このあと、歩行が可能な箇所をたどりながら下城する。
【写真左】空堀と池
 最初に登ってきた箇所だが、上から見ると空堀の高さが相当確保されていることが分かる。






現在の御社殿

 再建から241年経過した享保12年(1727)6月29日朝、不測の火災により焼失したため、大小氏子を以て享保21年(1736)正月に再建立された。拝殿の龍の彫刻はその時の作である。
 それから268年を経過し、御社殿の老朽が激しいことから、平成25年に御鎮座一千年を迎えるに当たり、再改築に向けて奉賛会を立ち上げて以来、10年の歳月をかけて竣工したものである。彫刻類は重要文化財同様に慎重に木組みを外し「洗い・繕い」を施した後に組み込んだもので、歴史の継承が図られている。
【写真左】春日神社の神スギ
 美作市指定天然記念物
名称 春日神社の神スギ
推定樹齢 1000年(平安時代中期)
樹高 37m
目通周囲 5.8m


 境内の大杉・檜等の御神木は、皆それぞれ一千年を経過した古木で、ご参拝の方に不思議な生気を授けてくれます。健康な方は気づきにくいですが、精神力の弱まった方などは元気が漲るといわれております。
   平成25年(2013)癸巳10月吉祥日”


徳大寺大納言の墓

 ところで、淡相城の北麓には徳大寺大納言の墓が祀られている。場所は国道429号線から北へおよそ50mほど入った畑の中にあるが、近くには案内標識などがないため分かりにくい。
【写真左】徳大寺大納言の墓・その1
 墓の周りは畑となっているが、西側から赤道(あかみち)を通って向かうことができる。




現地の説明板より


❝作東町指定文化財
 徳大寺大納言の墓
         指定 昭和55年10月20日

 粟井中村の古記に
「当村之内正明寺と申す所石塔あり、高さ八尺斗、此石塔は徳大寺前関白公と申伝候、此太閤当地に左遷有其処を御所垣内と云、碑銘に実名等見不申候。
 年号貞和二年と有慶長之初頃迄は下馬式たり有之由申伝候云々」と。

 これは建武の政変の後、後醍醐帝の勅勘を蒙り徳大寺実孝卿は、粟井の庄に流され、垣内御所に蟄居させられ、貞和3年3月8日薨去(こうきょ)、字正明寺に葬る。
【写真左】徳大寺大納言の墓を遠望する。
 畑の北側から見たもので、後背の山が淡相城の尾根つづきになるが、その手前を国道429号線が走っている。



 正明寺殿耀山清光大居士と諡(おくりな)
し、56才であった。基礎から150㎝の立派な五輪塔がある。御所垣内と墓を結ぶ線と旧街道との交わるところを、古来下馬オドシと云い、17世紀の初めまで国司の定めた下馬のしきたりがあったという。
 ちなみに徳大寺公は、高円の有元祐高の娘を娶り、一子徳千代丸をもうけた。
 後の新免七条少将則重で、新免家の祖である。

作東町教育委員会“

【写真左】徳大寺大納言の墓・その2
 五輪塔形式のもので、脇には小さな墓も並んでいる。
 なお、この付近は「土居」という地区名であることから、この付近一帯が徳大寺氏の居館があった場所と思われる。


 徳大寺家は、藤原氏北家閑院流の公卿で、家祖は徳大寺実能とされる。上掲した説明板では、徳大寺大納言とは、徳大寺実孝すなわち、同家7代当主である。母は、二条良実の娘で、妻は西園寺公相の娘を娶った。
 現地の説明板では、当地(粟井)で亡くなったとされているが、実孝は既に元亨2年(1322)に亡くなっており、建武の政変後の貞和3年(1347)この地に蟄居をされた人物を実孝としている点にはいささか疑義が生じる。
 しいて言えば、実孝の嫡男・公清(きんきよ)が考えられるが、彼は正平15年(1360)に亡くなっているので、これも整合しない。
 このことから、この墓の主は徳大寺氏嫡流でなく、同氏庶流の人物ではないかと思われる。
【写真左】国道429号線
 徳大寺氏の墓と淡相城の間を走る国道429号線で、写真左に行けば徳大寺氏の墓、右に行けば淡相城に繋がる。

 因みに、徳大寺氏と淡相城を直接結び付ける記録は不明だが、徳大寺氏が没し当地を離れたあと、同氏居館跡に淡相氏(粟井氏)が入ったのではないかと想像される。


 新免氏については、淡相城から北東へおよそ15キロほど向かった竹山城(岡山県美作市下町) の城主である。新免氏祖といわれている則重は当時赤松氏の被官として活躍し、その後山名氏などともかかわりながら当地を支配していった。

2019年5月20日月曜日

備中・忍山城(岡山県岡山市北区上高田)

備中・忍山城(びっちゅう・しのぶやまじょう)

●所在地 岡山県岡山市北区上高田
●別名 信夫山城・四畦忍山城・忍ノ城
●高さ H:300m(比高 60m)
●築城期 不明(16世紀前半か)
●築城者 伊賀伊賀守
●城主 伊賀氏・浮田信濃守等
●遺構 郭・堀切・竪堀等
●登城日 2017年2月27日

解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』、HP『城郭放浪記』等)
 備中・忍山城(以下「忍山城」とする。)は、岡山市の北方上高田にあって、以前取り上げた備前の虎倉城(岡山県岡山市北区御津虎倉) から南へ直線距離で5.5キロの足守川支流の日近川源流部に築かれた城郭である。
【写真左】忍山城遠望
 東麓を走る県道71号線(建部大井線)から見たもの。
 右上を走るのは県道72号線(岡山賀陽線)で、橋脚の先には忍山城のほぼ真下を通ることになりトンネルとなっている。

 夕方になったため、逆光のせいか画面に赤い斑点のようなものが残った。カメラ音痴なのでこうした場合の撮影テクニックがあるかもしれないが、なかなか上達しそうにない。


伊賀氏

 忍山城の築城期・築城者についてははっきりしない点があるが、築城者については伊賀伊賀守とあり、忍山城の東の谷を挟んだ鎌倉山城も伊賀氏の支城ともいわれている。

 「日本城郭体系」でも指摘されているように、この伊賀伊賀守が織田信長の下知によって築城したという伝聞があるようだが、当時の状況を考えると整合しない点が多く、まったく違う伊賀伊賀守であろうとしている。
 従って、この伊賀氏とは、虎倉城の稿でも紹介している伊賀氏が、当城の築城にも拘わったものと考えられる。
【写真左】南城方面を見る。
 登城口を示す案内標識のようなものはないが、西麓にある真言宗御室派の観音院という寺院の左側に山道があるので、そこから向かう。



宇喜多と毛利の戦い

 さて、忍山城でもっとも有名な戦いが、備前・備中・美作三国に跨って行われた毛利・宇喜多両氏の争奪戦である。備前浦上氏の家臣であった宇喜多直家(備前・亀山城(岡山県岡山市東区沼)参照) は、戦国の三梟雄の一人といわれているが、西の毛利、東の織田がせめぎあう備前・備中・美作三国の中で、巧みに難局を乗り切ろうとした。
【写真左】登城口
 右側に観音院の本堂がある。
 車は境内脇の駐車場を借りた。







 天正7年(1579)5月、毛利と手を結んでいた直家は、信長に内応したとして三星城(岡山県美作市明見) の城主で、直家の娘を嫁がせていた後藤勝基を攻め滅ぼしたものの、その年の10月、今度は直家自身が毛利と手を切り信長についた。

 因みに、直家は三星城攻めと相前後して、毛利方の手中に入っていた今稿の忍山城を陥れている。さらには美作・高田城(岡山県真庭市勝山)にも兵を差し向けた。そして、美作の拠点として岩屋城(岡山県津山市中北上)も押さえていたが、当城も毛利氏が反撃してくる情勢にあった。
【写真左】削平地
 観音院の裏側から登って行くが、途中から降る坂道となり、御覧の広い場所に出た。
 北城の北端部に当たると思われるが、それにしてもあまりにフラットな削平地なので、この箇所は近年改変されたのかもしれない。
 なお、この写真で言えば右側から北城のエリアになる。


 直家自身、時々刻々と戦況が変わる状勢を常に見定めた上で、毛利よりも織田方が優勢であると踏んだからであろう。もっともこのころ直家自身は身体に腫物ができる難病に苦しんでいて、岡山城の病床から下知を出していた。

 ところで、毛利氏が備中から備前へと進出しようとした際、大きな障害になったのはこの宇喜多直家だけではなかった。伯耆羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石) の南条元続である。
 
 元続も直家とほぼ同じ時期(天正7年)ごろに、毛利氏から離反し織田方についた。このため、毛利氏は羽衣石城攻めは当初吉川元春が担当していたが、侍大将杉原盛重(神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)参照) 及び、宍道隆慶(宍道氏・金山要害山城参照) に任せ、元春は輝元、隆景らの本隊に合流、総勢3万の大軍を率いて、忍山城攻略に向かった。
【写真左】竪堀
 さきほどの北城を目指して一気に尾根に登ればいいのだが、急峻なので西側斜面を南に進んでいく。
 さっそく竪堀が現れる。



毛利氏の忍山城包囲

 そして、この年(天正7年)12月24日、宇喜多勢の立て籠る忍山城を毛利勢が包囲した。この当時忍山城を守城していたのは、浮田信濃守と岡剛介をはじめとするおよそ1千人の城兵である。

 毛利勢の先鋒を務めたのが吉川経言である。すなわち、後の周防・岩国城(山口県岩国市横山3) 主となる吉川広家である。当時18歳の若武者であったが、彼は忍山城に昼夜を分かたず次から次と戦法を駆使して攻め立てた。このため、終始守勢に立たされた信濃守らは、岡山城の直家に援軍を要請した。
【写真左】尾根にたどり着く。
 次第に尾根に向かって登って行き、筋にたどり着いた。
 写真では分かりにくいが、冒頭の写真で見えていた県道72号線の橋脚。
 当然ながら、戦国はこうした道路はなく、深い谷を形成してたままの姿である。



 岡山城に横臥の体を余儀なくされていた直家ではあったが、すぐに岡平内、長船又三郎、片山惣兵衛らに命じ、5千余騎を向かわせ、忍山城東の谷を隔てた鎌倉山城(勝尾山城)に援軍として着陣させた。

 ところが、岡平内らが着陣して態勢を整えようとした矢先、経言は突如この援軍めがけて急襲した。あまりのことに援軍は浮足だし、ひとたまりもなく潰走する羽目になった。おそらく経言は援軍の情報を事前に察知し、前もって待機していたのであろう。
【写真左】北城の郭
 上に登る途中にも小郭があり、さらに上を目指したところやや中規模な郭が現れた。





 忍山城の浮田信濃守らは鎌倉山の援軍と呼応して毛利氏を討つ計画が失敗に終わると、やむなく撃って出た。形勢は不利になっていたが、それでも信濃守や剛勇の岡剛介の奮闘もあり、忍山城での決着は翌天正8年正月まで持ち堪えた。

忍山城落城

 しかし、その月(正月)下旬、城内の陣屋から火が出た。毛利方の内通者によるもの、もしくは夜半外から火を放たれたなど諸説あるが、いずれにしてもこの火は容易に消すことはできず、城内は大混乱となった。この隙をついて毛利方は一気に攻め立てた。
 岡剛介は何とか敵中を突破し、岡山城へ逃げかえったが、浮田信濃守は本丸に追い詰められ自刃、残った城兵530余人が討ちとられたという。

 忍山城における戦いで、勝利を得た毛利氏は当城に桂左衛門大夫、岡宗太衛門を城番として入れ置いた。

 そしてそのあと、毛利氏は余勢をかって忍山城から東方10キロの位置にあった直家の弟・宇喜多春家の居城・金川城(岡山県岡山市北区御津金川) を攻めたが、春家の奮戦もあって落とすことはできなかった。
【写真左】基壇の上に祠が。
 先ほどの郭の南隅には小規模な土塁(基壇)があり、その一角に小さな祠が祀られている。
【写真左】祠の周りに石積
 だいぶ崩れているが、当時はしっかりした基壇の上に祀られていたのだろう。

 このあと、南に向かうが、一旦降りる形となっている。その先には南城が控える。




遺構

 当城の麓には「平城(ひらき)」「土居」などの地名が残り、城域には主だった郭が9か所あり、要所には堀切が数か所認められる。ただ、全体に郭個々の大きさは小規模で、宇喜多氏らが一千余騎当城に拠ったことを考えると、城域以外の周辺部にもかなりの数の陣所を配置していたのではないかと思われる。

  忍山城の縄張図としては、最近登城されたHP『城郭放浪記』氏が詳細な図を紹介されておられるので、ご覧いただきたい。基本的に北側から南に伸びた尾根筋に北城と南城の二つで構成されている。
【写真左】緩やかな堀切
 尾根筋に浅い堀切が出てきた。
【写真左】明確な堀切
 しばらくするとしっかりとした堀切が配置されている。
【写真左】長い郭
 北城と南城を連絡する渡りだが、郭もしくは兵站地としての役目もあったのだろう。
【写真左】大堀切・その1
 当城の中では最大級のもの。
【写真左】大堀切・その2
 西側から見たもので、南城の北端部にあたるが、その手前にも浅い堀切がある。

 この堀切は南城の防御の意味もあるかもしれないが、南城が落とされた際、次の北城への攻撃をできるだけここで踏み止めるための狙いもあったのかもしれない。
 このあとさらに南城頂部を目指して上に登る。
【写真左】郭段
 大堀切から南城頂部へ直登していくと予想以上の傾斜がついている。
 しばらく進むと郭段が出てくる。
【写真左】南城の主郭を見上げる。
 尾根幅は狭いものの、登って行くと結構息が上がる。
 ここで直接主郭へは行かず西、一旦回り込む。
【写真左】西の郭
 腰郭だが西方を俯瞰する物見櫓的な役目をもったものだろう。
【写真左】南城の主郭
 西の郭から上に向かって登ると、南城の主郭に至る。
【写真左】土塁
 南城の一角には小規模な土塁が残る。
なお、この周辺部にはこのほか東西に中小の竪堀も散見される。
【写真左】勝尾山城を遠望する。
 主郭からさらに南に進むと、県道72号線のトンネルが下を横断している。

 そこからしばらく進むと、前段で紹介している勝尾山城が見える。
 なお、勝尾山城は別名鎌倉山城ともいう。
 このあと尾根筋を南に行けるところまで向かうことにする。


【写真左】郭
 この付近から小規模な郭が連続して現れる。
【写真左】石積
 枯葉に覆われていて明瞭でないが、石積の痕跡が認められる。
【写真左】さらに奥に進む。
 南に行くに従って視界がよくなり、先端部近くに来たことが分かる。この辺りの郭は広い。
【写真左】腰郭
 南城の最南端に当たる郭で、西側付近まで回り込んでいる。
【写真左】東方を俯瞰
 毛利方がどの方向から攻めてきたのか詳しいことは分からないが、この当時毛利氏は備中をほぼ制圧していたので、西側から南の谷筋を通って北上したのだろう。

2019年5月10日金曜日

備中・西山城(岡山県新見市哲西町八鳥)

備中・西山城(びっちゅう・にしやまじょう)

●所在地 岡山県新見市哲西町八鳥
●別名 八鳥要害山
●指定 新見市指定史跡
●高さ 510m(110m)
●築城期 文治元年(1185)
●築城者 市川行房
●城主 市川氏・宮隆盛
●遺構 郭、堀切、虎口、土塁等
●登城日 2011年8月5日、2017年3月26日

解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』、HP「城郭放浪記」、HP「哲西の山城」等)
 備中・西山城(以下「西山城」とする。)は、備中国北西部に所在した城郭で、西隣の備後国と接する位置にある。
写真左】西山城遠望
 西麓側から見たもので、手前の道を奥に進むと、北房井倉哲西線(県道50号線)に合流し、東進していくと、途中で以前紹介した阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕) に繋がる。


現地の説明板・その1

‟町指定文化財
 西山城址(八鳥 要害山)

 要害山の頂上には、本丸跡の他に二の丸、三の丸跡が各一つ、出丸跡が七つ、大手、からめ手などがはっきり残っている。
 城は文治元年(1185)源頼朝の重臣市川行房により築かれ、その後、天文2年(1533)毛利氏の家来で備後西城の城主であった宮高盛が築城したとあるが、天正年間(1573~)の尼子と毛利の戦さの際に落城したらしい。”



【写真左】西麓に設置されている説明板
 西麓には野馳小学校という学校があり、その角には当城及び、町恵比須の由来を示した説明板が設置してある。
 後背が西山城。




現地の説明板・その2

‟町指定文化財
 町恵比須(八鳥 町)
 八鳥町区に上恵比須、下恵比須と二つのほこらがある町恵比須としてまつったものであるといわれている。
 鎌倉時代に西山城の城下町として栄え、また江戸時代には宿場の役目を果たしていたところである。
 恵比須は福の神で、商売繁昌を祈ったものと思われる。”
【写真左】登城道
 西山城へ向かう登城道は野馳小学校脇の道を東に進み、北側から向かう道がある。

 ただ、現地には標識らしきものがなかったため、登城口を探し出すのに手間取った。
 写真は登城口からだいぶ進んだ位置で、この辺りから小郭が出てくる。




市川行房

 『日本城郭体系 第13巻』を見ると、西山城の築城者といわれる市川行房は、「文治2年、鶴岡御参詣随兵20人中の烈士。後久代氏等」と記されている。

 市川行房は一般的に市河行房と書かれ、本貫地は甲斐国巨摩郡市河荘(現・山梨県西八代郡市川三郷町)または、甲斐源氏の源義光の子・武田義清の弟である市河別当刑部卿阿闍梨覚義を祖としているが、備中国に赴いたという記録は見えない。
【写真左】堀切
 この日登城したコースは北麓から向かい、西側の尾根に到達後、その尾根の南側沿いを辿って主郭に向かうコースをとったが、この尾根筋には3本程度の堀切が要所に設置されている。
 写真はそのうちの一つ。


 また、築城期が文治元年(1185)とあるが、この年の11月29日、源頼朝は諸国に守護・地頭を置くことになるが、中国地方では備中国をはじめ播磨・備前・美作・備後国の守護職に梶原景時と土肥實平を任命しているので、おそらくこの両者のどちらかの臣従者が当地に下向したと考えられる。
【写真左】要所に地蔵さんが
 しばらく歩いていくと、地蔵さんが祀られている。主郭までに数か所こうした地蔵が道端にある。



宮上総守高盛

 そして、実際に城郭として本格的に築城されたのは戦国期と考えられる。築城者である宮高盛は、備後西城の城主としている。備後西城とは以前紹介した大富山城(広島県庄原市西城町入江字的場) のことである。

 この大富山城が築城されたのが、西山城と同じ天文2年(1533)といわれているので、宮高盛(宮上総守高盛)は、二つの城郭をほぼ同時並行しながら普請していったことになる。
【写真左】堀切と小郭
 まだ主郭までたどり着いていないが、こうした遺構が段々と増えてくる。






 因みに、備後国の大富山城から備中国の西山城まではおよそ30キロほど離れている。
 築城して間もないころ、出雲の尼子詮久(後の晴久)の命を受けた備中内群集と呼ばれた新見国経や、丹治部・伊達・石蟹(いしが)の諸氏が宮高盛の居城・西山城と、小奴可宮氏居城の亀山城(広島県庄原市東城町小奴可) が攻められ、占拠されたという。

 その後、天文12年(1543)から翌13年ごろには大内方となっていた高盛は、当時尼子方となっていた三村家親(鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原) 参照)・楢崎(楢崎城(広島県府中市久佐町字城山) 参照)・草刈(美作・矢筈城(岡山県津山市加茂町山下下矢筈山)参照)諸氏に再び攻め込まれ、当地八鳥・二本松合戦の舞台となったといわれている。
【写真左】整備された郭が見えてきた。
 先ほどの段からさらに登って行くと、もう1か所郭があり、そのあと熊笹で道を遮られそうな箇所を潜り抜けるとやっと頂上部に至る。
 写真は南北に伸びる郭群の中央部にあるもので、下から見上げたもの。



 こうしたことから、宮氏の本居城であった大富山城が高盛以後5代にわたって継承したのに比べ、備中の西山城の場合は、同氏の思惑通りにいかなかった状況が見えてくる。
 これは、当時の備中国には絶対的な領主が存在しておらず、このことから出雲の尼子氏などが当地に触手を伸ばしてきた背景があるからである。
【写真左】南側の郭に向かう。
 手前の道は北側の郭の脇にも繋がっており犬走りとなっている。





縄張概要

 当城の主だった遺構概要は次の通り。
  1. 郭1 長径40m×短径29m 北東側に幅2m×高さ1mの土塁、東側に12m、南側に8mのL字状の土塁
  2. 郭2 長径47m×短径20m
  3. 郭3 南北18m×東西14m
  4. 郭4 南北14m×東西18m
  5. 郭5 郭3と4の下段に全長140m、南端部に虎口
  6. 郭6 郭2の南と西側に2m低く東西43m×幅7mのコの字型
 なお、縄張図としてはHP 『城郭放浪記』氏が詳細な図を紹介されているのでご覧いただきたい。
【写真左】南端部の郭
 西山城は全体に南北に長軸をとっているが、南側で西(左)に少し折れる。

 写真はその折れ部分にある郭と下の郭。
【写真左】東側先端部
【写真左】中央の郭から南の郭を見る。
 
【写真左】南側の郭・その1
 北側を最高所として南側に3つの郭群が連続しているが、そのうち南側の郭
【写真左】南側の郭・その2

 この郭が最も長い規模を持つもので、南端部の下には腰郭が西側まで囲繞する形で補完している。

【写真左】南側から北方向を見る。
 これも上記の郭で、奥に祠が見える。
【写真左】祠
 おそらくこの祠があるところが主郭とおもわれる。
【写真左】北隣の郭
 先ほどの郭の北側に隣接するもの。
【写真左】虎口か
 上記の郭の右側(東側)には下から伸びてくる道がある。
 おそらく当時はこの位置に虎口を設けていたと思われる。
 このあとさらに北に向かう。
【写真左】北側の郭
 ここにも地蔵が二体祀ってある。
 ただ、ここから先は御覧のように熊笹に覆われ、遺構の確認が困難になってくる。
【写真左】直径2m前後の穴
 笹をかき分けて進むと、突然大きな穴に遭遇。
 狼煙台もしくは井戸跡と思われるが、だいぶ埋まっている。
【写真左】土塁
 写真では分かりづらいが、この郭の北東隅に高さ50㎝程度の土塁が確認できる。

 なお、この位置から下に向かうと、小郭があり、その下には二条の堀切が配置されている。
【写真左】もう一度振り返って見る。
【写真左】屋敷跡か
 登城途中に気になった箇所で、下山した折、再度注視してみると、2,3段で構成された平坦地が確認できる。

 場所は北麓側に位置する。