2019年12月24日火曜日

高天神城(静岡県掛川市上土方・下土方)・その2

高天神城(たかてんじんじょう)・その2

●所在地 静岡県掛川市上土方・下土方
●別名 鶴舞城
●指定 国指定史跡
●高さ 132m(比高100m)
●築城期 治承4年(1180)~建久2年(1191)ごろ又は、文安3年(1446)ごろ。
●築城者 渭伊隼人直孝・土方次郎義政
●城主 福島佐渡介基正、小笠原右京進春儀・弾正忠氏清・与八郎長忠等
●遺構 郭・堀切・土塁等
●備考 掛川三城
●登城日 2016年11月5日

解説(参考資料 『文学で読む日本の歴史 戦国社会篇』五味文彦著 山川出版、掛川市HP等)
 前稿に続いて高天神城をとり上げる。
【写真左】高天神城の看板
 麓に設置されているもので、高天神城はこの写真の左側にある。






今稿では、本丸などがある東峰側の遺構などを紹介したい。
 初めに前稿で添付した配置図を最初に掲げておきたい。
【上図】配置図
 下方が北を示す。
【写真左】鐘曲輪
 西の丸から再び戻り、中間点の鐘曲輪付近に向かう。
写真左】的場曲輪
 中間点を過ぎてそのまま中心部に向かえば本丸に繋がるが、一旦左に向うと的場曲輪がある。

 南北に細長い郭で、文字通り弓矢などの訓練をしていた場所であるが、現地の説明板によれば、数年前の発掘調査時砂利が敷き詰められていたことが確認されている。

 これは物を置いても沈まないようにするため、あるは鉄砲の弾薬を置いた場所で、湿気を防止するためではなかったかと考えられている。

 このあと、その脇から本丸の外周部を回り込み、大河内石窟に向かう。
【写真左】大河内石窟へ向かう道
 写真では分かりづらいが、左側は極めて険峻な崖となっている。








大河内幽閉の石風呂(石窟)


現地の説明板より

❝大河内幽閉の石風呂(石窟)
 
 天正2年6月、武田勝頼来政包囲、28日激戦酣となった。城主小笠原長忠遂に叶わず、武田方に降り城兵東西に離散退去したが、軍監大河内源三郎政局独り留まり、勝頼の命に服さず、勝頼怒って政局を幽閉した。武田方城番横田尹松、政局の義に感じ密かに厚く持て成した。

 天正9年3月、徳川家康城奪還23日入城し、城南検視の際、牢内の政局を救出した。足掛8ヶ年、節を全うしたが歩行困難であった。家康過分の恩賞を与え、労をねぎらい津島の温泉にて療養せしめた。
 政局無為にして在牢是武士道の穢れと思い、剃髪して皆空と称した。後年家康に召されて長久手に戦い討死した。”


 大河内源三郎政局(正局(まさもと))は家康の家臣であるが、8年もの間、この石窟で耐え忍んだとは驚くばかりである。

 当時高天神城の城主は岡部丹後丹後守(前稿参照)で、盛んに武田勝頼に援軍を要請しているが、勝頼自身も北条氏や、上杉の「御館の乱」などで身動きが取れず、このため岡部丹後守は後に止む無く、牢中の政局を使って、落城の際、家康に城兵の命を助けてもらうよう要請している。

 しかし、政局は「長い牢暮らしのため、足は立たず役に立ち申さぬ」と断った。これに激怒した丹後守は、さらに拷問にかけたという。武田方城番横田尹松が密かに支えていたとはいえ、不屈の忍耐力が彼をそうさせたのだろう。

【写真左】大河内政局石窟・その1
 中世城郭でこうした石窟という牢獄の遺構が残っているのは全国的にも稀である。
【写真左】大河内政局石窟・その2
 御覧のように現在は木製の柵が設置され、中を見ることはできないが、開口部はおよそ1.5m四方の規模。

 本丸を囲む犬走りの一角に造られている。
【写真左】本丸入口付近
 再び元に戻り本丸に向かう。写真は入口付近で、左右に土塁が残る。

 おそらく当時は虎口としての遺構も残っていたのだろう。
【写真左】土塁
 本丸入口の左側に残るもので、絵図ではこの個所しか描かれていないが、当時は奥の土塁までつながっていたものと思われる。
【写真左】本丸中心部
 現地の説明板より












‟本丸址

 元亀2年3月、武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠二千騎を以て籠城。本丸には軍監大河内政局武者奉公渥美勝吉以下五百と遊軍百七十騎が詰めた。

 天正2年5月、武田勝頼当城包囲猛攻、6月28日激戦、7月2日休戦、9日開城。城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去。武田方武将横田尹松城番として軍兵一千騎を率いて入城した。

 天正7年8月城兵交代、武田方猛将岡部丹後守真幸(元信)城代として一千騎を率いて入城した。

 天正9年3月徳川家康来攻、包囲10か月、城中飢に瀕し22日夜半、大将岡部真幸、軍監江馬直盛以下残兵八百、二手に分かれて城外に総突し激闘全滅した。23日家康入城検視、武者奉行孕石元秦誅せられた。
 城郭焼滅廃城となる。”
【写真左】石碑
 本丸には高天神城の石碑などが建立されている。
【写真左】元天神社
 本丸の中には元天神社が祀られている。その隣は土塁が付随している。

 元天神社は、前稿高天神城・その1で述べた「 延喜2年(913)の藤原鶴翁山頂に宮柱を建つ」とされたときのものだろう。

 因みに、この高天神(鶴翁山)を中心として、遠江及び駿河地域には天神を祀る社が多い。
【写真左】御前曲輪
 元天神から少し北に向かうと御前曲輪がある。

 現地には城主・小笠原与八郎長忠と奥方二人の人形が設置されている。

 このあと、三の丸方面に向かう。
【写真左】三の丸に向かう道
 本丸から南東方向に少し下る坂道となっている。

 また、この道は途中で大手門から直接向かう道と合流している。
【写真左】三の丸・その1
 高天神城の中でもっとも東端部に当たる箇所にあり、三の丸の南側すなわち大手門との間の斜面にも3段程度の腰郭が配置されている。

 写真には南から東にかけて伸びる土塁も見える。
【写真左】三の丸・その2
 中央部には休憩小屋が建っている。
【写真左】土塁
 同じく三の丸のものだが、先ほどの土塁とは反対側、すなわち北側に築かれた土塁で、こちらの方は2m近くも高く築かれている。
【写真左】切岸
 高天神城の特徴の一つとして挙げられるのが、高さ・比高(132/100m)の割に外周部が極めて険峻なことである。

 また、複雑な尾根構造であることや、巧みな縄張りを用いているため、攻める側にとって大きなハンディが伴ったことだろう。
【写真左】富士山を遠望
 三の丸はもっとも解放された箇所であることから、この日(2016年11月5日)御覧の通り北東方向にうっすらと富士山を見ることができた。



高天神城周辺城郭合戦記録

 ところで、現地には高天神城周辺に残る武田氏・徳川氏双方の拠点となった城郭や、合戦場となった案内図も掲示されている。
 彩色などがだいぶ薄くなっていたので、管理人によって修正している。
【写真左】城郭及び合戦場の案内図
 










 文字が小さくて分りにくいが、中央左に高天神城があり、徳川・武田双方の拠点となった城郭及び、合戦場が図示されている。

城郭 
 《徳川方
  1. 馬伏塚城 永正年間今川臣小笠原長高築城
  2. 横須賀城 天正6年家康築城
  3. 掛川城 文明年間今川義忠築城
 《武田方
  1. 相良城 元亀2年2月信玄築城
  2. 小山城 元亀元年2月信玄築城
  3. 諏訪原城 永禄12年6月信玄築城
などが描かれている。

2019年12月19日木曜日

高天神城(静岡県掛川市上土方・下土方)・その1

高天神城(たかてんじんじょう)・その1

●所在地 静岡県掛川市上土方・下土方
●別名 鶴舞城
●指定 国指定史跡
●高さ 132m(比高100m)
●築城期 治承4年(1180)~建久2年(1191)ごろ又は、文安3年(1446)ごろ。
●築城者 渭伊隼人直孝・土方次郎義政
●城主 福島佐渡介基正、小笠原右京進春儀・弾正忠氏清・与八郎長忠等
●遺構 郭・堀切・土塁等
●備考 掛川三城
●登城日 2016年11月5日

解説(参考資料 『文学で読む日本の歴史 戦国社会篇』五味文彦著 山川出版、掛川市HP等)
 高天神城については、足助城(愛知県豊田市足助町 真弓山) や、三河・野田城(愛知県新城市豊島字本城) で少し触れているが、遠江国(静岡県)の中南部にあって、特に武田氏と徳川氏が深くかかわった城郭である。
【写真左】高天神城遠望
 東から見たもの。
 中央部の丸い形の箇所に本丸がある。








鶴翁山高天神城

 別名鶴舞城または、鶴翁山高天神城ともいう。現地にある略年表によれば、当城(当山)の記録が初めて現れるのは、延喜12年(913)で、「藤原鶴翁山頂に宮柱を建つ」とある。

 このことから、このころはまだ城郭としての形は形成されていないと思われるが、治承4年(1180)、源頼政や頼朝が挙兵したこの年、渭伊隼人直孝が山砦を築いたと記録されている。

 渭伊(いい)隼人直孝は、後の井伊直政の系譜につながる一族で、以仁王と共に平氏討伐の先鋒を切った源頼政(源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)参照)の家臣で、この年(治承4年)5月26日、宇治川で頼政らが戦死すると、平家の追手から逃れるべく、地元遠江の鶴翁山(高天神城)に隠棲したといわれる。
上図】案内図
 この日は搦手門側から向かったが、左図にもあるように大手門から向かう道の二つがあるようだ。

 上図はかなり簡略された絵図だが、東峰に本丸(東の丸)を置き、西峰に西の丸を設け、その間は井戸郭が連絡している。

 詳細については下段の配置図を参照されたい。


 その後鎌倉幕府が樹立すると、建久2年(1191)頼朝の右大将であった土方次郎義政が改めて砦として手を加えている。この後、室町時代まで当城の記録はないようだが、南北朝時代も何らかの形で当城が関わったものとみられる。

 その後、文安3年(1446)福島佐渡守基正が城主となった。この福島基正は、当時の駿河国守護であった第5代当主今川範忠の家臣とされ、基正はこのとき当城と併せて、丸子城の城主も兼任していたといわれるが、伝承の域を出ない。
 記録もさることながら、この丸子城は現在の静岡市駿河区丸子にあって、高天神城から50キロ以上も離れているため、同時期に両城の城主であったというのは無理があるだろう。
【写真左】登城口
 前記したようにこの個所は搦手側に当たるが、本丸に祀られている高天神社の参道でもある。
 因みに当社は、祭神を天皇産霊神・天菩毘命・菅原道真公として祀る。



小笠原氏

 ところで、応仁・文明の乱の時代になると、遠江国も他国と同じく乱世の時代を迎えた。その後、今川氏が駿河国平定をはじめたころから遠江国も同氏の支配下に圧された。特に、今川義元の代になる天文5年(1536)になると、小笠原右京進春儀(春義)が高天神城の城主となった。

 この小笠原氏は、遠江小笠原氏ともいわれるが、もとは信濃守護であった小笠原氏の出で、当時府中といわれた現在の松本市井川付近に本拠を持った府中小笠原氏を出自とする。その後、小笠原弾正忠氏、同与八郎長忠と続くが、この間、主君今川義元が桶狭間の戦いで信長に討たれると、永禄11年(1568)、高天神城は徳川氏に属した。
【写真左】登城道
 登城道はほとんどこうした階段が敷設され、幅も余裕を持ったものになっているが、写真はかなり高い切岸状の側面がある場所。
 近世になってこうした景観になったのであろうが、当時もこの搦手から登ると、両側の高い位置から攻められる可能性が高かったのだろう。


 なお、前記した長忠は、軍記物に書かれた武将名で、史料からは、信興と記されている。この信興は上述したように、今川義元が亡くなると、その跡を継いだ氏真に一時的には使えるが、家康が遠江を支配に置くと、信興は家康に従った。そして、大井川を挟んで東の駿河国を支配した武田氏と対峙するいわゆる境目の城の城主としてその責務を担わされることになる。
【写真左】三日月井戸
 登城道の途中には「三日月井戸」といわれる遺構が残る。
 現在では井戸というより、水溜まりのような形態だが、当時はこの位置から湧水が出ていたのだろう。



高天神城の戦い1回目(天正2年)

 信興が城主となってからは、度々武田氏との攻防が行われ、のちに「高天神城の戦い」として語り継がれることなる。この戦いは武田信玄が亡くなり、その跡を継いだ勝頼と家康の戦いであるが、大きな戦いは二度行われた。

 1回目は、天正2年(1574)5月に行われたもので、このとき武田軍は2万5千余騎を率いて、遠江へ入った。勝頼が最初に入ったのが大井川西岸にあった小山城である。当城は信玄時代に築かれた城郭で、勝頼の代になると、さらに東海道の金谷原(島田市)に諏訪原城も築き、高天神城攻めの拠点としていた。
【上図】配置図
 上掲した案内図と重複するが、現地に設置してあったものを管理人によって少し加工修正している。
  なお、案内図は上方が南を示しているが、この配置図は上方が北を示す。
 右側に本丸を置き、左側には高天神社兼ねた西の丸が配置されている。


 
 高天神城には信興(長忠)はじめ僅か1千余騎が籠っていた。武田軍が大軍を率いて当城に向かうという報を知った信興は、当然ながら家康に援軍を求めた。しかし、その家康も信州から南下する武田軍の別部隊に対処しなけらばならず、自軍の勢力が1万前後ではとても高天神城へ援軍を送る余裕もなかった。
【写真左】鐘曲輪
 大手から登って行くと、最初にこの鐘曲輪にたどり着く。本丸と西の丸の間にある郭で、西の丸側へ向かうと、途中から井戸郭になる。
 最初に西方の西の丸方面に向かうことにする。


 このため、家康は当時京都の葵祭を楽しんでいた信長に急ぎ救援を求めた。信長が京から岐阜に戻ったのが5月28日のことである。そして信長が岐阜を出立したのが6月14日とされる。このように家康からの要請にもかかわらず、なぜか信長の動きは極めて緩慢である。

 同月17日に信長はやっと三河の吉田城(現在の豊橋市)に着陣した。しかし、高天神城はすでに西の丸を落とされ、兵糧は欠乏していた。武田軍の攻防の前に、本間氏清や、丸尾義清などの勇将が討死、18日、ついに信興は武田軍に降伏した。
【写真左】かな井戸・井戸曲輪
 左側には井戸跡があり、その奥には、高天神城合戦の石碑が祀られている。





高天神城の戦い2回目(天正9年)

 2回目の戦いは、天正9年(1581)である。1回目の戦いで高天神城を手中にした武田勝頼であったが、その後天正3年(1575)の長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内)及び設楽原の戦い( 織田信長戦地本陣(愛知県新城市牛倉城山)参照)で大敗を喫した。 有力な家臣を多数失った勝頼は、この段階から防戦の態勢をとらざるを得なくなる。

 徳川家康は次第に武田軍が押さえていた支城を次々と落とし、高天神城の補給路を断って行った。当時武田軍が高天神城の支城としていたものは、諏訪原城(島田市金谷)、小山城(吉田町)、相良城(牧之原市)などである。
【写真左】堂尾曲輪
 井戸曲輪から北に細長く伸びた先端部の郭で、その先にも2段の郭が北に延び、先端部の郭は井楼郭と呼ばれる。
 また、堂尾曲輪の南側には後ほど紹介する二の丸が控えている。

 なお、西の丸を含めた西峰の城域は、武田氏が支配した天正2年(1574)以降に大改修がなされた箇所といわれている。

 

 徳川勢が本陣としていたのが、同国城東郡横須賀(現 掛川市西大渕)の横須賀城(松尾城・両頭城)である。この横須賀城から高天神城までの距離は、直線距離でわずか6キロほどである。しかし、陸路で見てみると、横須賀城から東へ海岸部を通り、大浜辺りで北上していくルートとすれば、10キロほどになる。しかも、途中には西大谷川、東大谷川があり、お互いにとってこの二つの川が進路を阻む効果があったのだろう。
【写真左】堀切
 堂尾曲輪の手前に見えたもので、下の郭との境に配置されている。






 ところで、この横須賀城の当時の様子を推考してみたい。地名である「須賀」は砂地を意味し、この付近は海岸部とさほど変わらぬ低地であったようだ。このため、正保年間(1645~48)に描かれた国絵図を見ると、横須賀城の南側には横須賀湊が描かれていることから横須賀城は海城の形態であったと考えられる。
【写真左】「本間八郎三郎氏清・丸尾修理亮義清 戦死の址」
 堀切の近くには上述した兄弟の墓が建立されている。
 説明板より

‟天正2年6月、堂の尾曲輪を守備していた本間・丸尾兄弟は、武田軍の銃弾に当たり討死した。”


 
 さて、2回目の戦いのときの高天神城の城将は、今川旧臣といわれる岡部元信といわれる。徳川方による補給路を閉ざされた高天神城は、次第に苦境に陥ることになる。当然、勝頼は当城救援に向かわざるを得ないが、しかし、結果として彼はその行動を起こしていない。一説には、このころ相模の北条氏との同盟が破綻し、このため北条氏による攻撃を恐れたため動かなかったともいわれている。また、織田信長が背後で常に勝頼をけん制していたこともあり、勝頼はかなり悩んでいたとされる。
【写真左】堀切
 当城の見どころの一つである長大な横堀と並行して走る堂尾曲輪伝いに見えたもので、見事な堀切。




 信長の指示もあって、結局高天神城の城兵は「降伏」は許されず、多くの者が餓死し、わずかの生存者による城兵が最後の戦いを挑んだが、城将・岡部元信はじめ688名は討死、直後家康方は城内に突入して掃討し、ここに高天神城は落城した。
【写真左】横堀と土塁・その1
 高天神城の見どころの一つである横堀と土塁である。

 現地の案内図では、当城の西側に設置され、北端部は井楼郭から南端部は西の丸・高天神社の西側まで描かれているが、実際には二の丸直下までが残る。
 長さは150m前後あるだろう。
【写真左】横堀と土塁・その2 北側から見た横堀と土塁で、左側斜面を登って行くと井楼郭などがある。
 なお、横堀は北に進むにつれて整備されていないため、先端部までは踏査していない。
 先端部との合流地点には井楼郭の下にある腰郭がある。
【写真左】二の丸
 横堀から再び元に戻り、西の丸の北隣にある二の丸に向かう。
【写真左】二の丸から南の西の丸を見上げる。
 二の丸から西の丸までの比高は8m前後ある。
【写真左】西の丸と高天神社
 西の丸から南に回り込んでいくと西の丸と高天神社がある。
 元々高天神社は、次稿で紹介する東峰の本丸側にあったものだが、後に(武田氏領有時か)西峰の西の丸側に移された。
 西の丸は高天神社境内がその位置のようだが、当社も西の丸と一体となっている。

 なお、西の丸は岡部丹波守真幸が守備していた時期があり、別名「丹波曲輪」とも呼ばれる。
【写真左】天神社(社務所)裏の土塁
 社務所側の裏側には土塁が囲繞しているが、その奥には下段で示す竪堀状の堀切がある。
【写真左】堀切
 左側が天神社(西の丸)側で、堀切を介して右に下段で紹介する馬場平がある。
【写真左】馬場平
 南西方向に伸びる尾根に築かれているもので、武田軍得意の騎馬隊が待機していたのだろう。
【写真左】甚五郎抜け道
 馬場平からさらに西の方へ向かう小さな道があるが、これを「甚五郎抜け道」と呼ぶ。
 説明板より

‟甚五郎抜け道
 
 天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は、本国の武田勝頼に落城の模様を報告するため、馬を馳せて、是より西方約一千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った。

この難所を別名
 犬戻り猿戻りとも言う。

      大東町(掛川市)教育委員会”
【写真左】馬場平からの眺望・その1
 馬場平に設置されている看板で、奥が南方で、手前が北方を示し、小笹山の標識が建っている。
 小笹山は、高天神城を含む丘陵地の最高所で265m。
【写真左】馬場平から御前崎方面を遠望する。
 御前崎は西麓を流れる菊川を挟んで西にある牧ノ原台地の先端部の岬。
 戦国期は高天神城の東南麓まで遠州灘が迫っていた。



次稿に続く。

 当城は一回では紹介しきれないので、東峰を中心とする東の丸(本丸側)については、次稿で紹介したい。

2019年11月26日火曜日

織田信長戦地本陣(愛知県新城市牛倉城山)

織田信長戦地本陣(おだのぶなが せんちほんじん)

●所在地 愛知県新城市牛倉城山
●築城期 天正3年(1575)
●築城者 織田信長
●高さ 150m(比高50m)
●遺構 郭等
●備考 茶臼山
●登城日 2016年11月6日

解説
 織田信長戦地本陣は、長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) から西へおよそ4キロほど向かった茶臼山に築かれた(以下「茶臼山本陣」とする。)城砦である。
【写真左】「織田信長戦地本陣跡」と書かれた看板。
 現在は最近できた新東名高速道路が東西を横断しているため、本陣とされる茶臼山は南北500m×東西250mほどの独立峰に見えるが、当時は北西側から延びる尾根の先端部だったと考えられる。









現地の説明板より

織田信長戦地本陣跡

 天正3年(1575)、長篠・設楽原の戦いに臨んだ織田信長は、設楽原の決戦を控えて上平井の極楽寺で軍議を開き、武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練った。
 そして、自らはこの茶臼山に進撃し、本陣をおいて指揮をとった。
 このすぐ北側には、側近羽柴秀吉を従え、徳川家康を最前線の弾正山に配置した。
 布陣は、当時の信長の権力の絶大さを示しているといえよう。

 ここには、珍しい信長の歌碑がある。
「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」

   昭和57年3月30日 新城市教育委員会″
【写真左】長篠設楽原PAから遠望・その1
 新東名高速道路のPAから直接歩いて向かうことができる。

 因みに、近距離で向かうには「下り線」のPAに駐車したほうがいいが、「上り線」のPAからでも距離は長くなるもの向かうことができるようだ。



信長本陣

 信長が最初に軍議を開いた場所が上平井の極楽寺といわれ、本稿の茶臼山本陣から南西へおよそ1.3キロほど向かったに位置になる。因みに、当時この極楽寺は廃寺となっており、その南にある平井神社付近も含めた箇所となる。

 この辺りの地勢は北西から伸びてきた舌状丘陵の先端部に当たり、当初この位置から東方に武田軍の動きを見ることができると考えたのだろう。
 その後、この茶臼山本陣に移ることになる。
【写真左】長篠設楽原合戦城鳥瞰図
 現地に設置されている大変に詳細な図だが、全図を添付すると文字が小さくなるため、主要な箇所のみを載せている。
 赤字で示した武将は信長・家康軍、青字のものは武田軍。

 参考までにこの戦い(設楽原の戦い)で参戦している主だった武将は次の通り。
《信長・家康軍》
 佐久間信盛、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、石川数正、徳川家康、本多忠勝、大久保忠世、榊原康政、大須賀康高

《武田軍》
 真田信綱、穴山信君、馬場信房、土屋昌続、武田信豊、武田勝頼、小幡信貞、武田信康、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景
【写真左】長篠設楽原PAから遠望・その2

下りPAの展望台から見たもので、左隅の道が下りPAからの道で、中央左の道が上りPAからの道のようだ。


現地の説明板より

‟解説
 天正3年(1575)旧暦5月、長篠城を取り囲んでいた武田勝頼軍は包囲を解き、茶臼山に布陣する織田・徳川連合軍に連吾川を挟み対峙します。
 21日早朝、織田・徳川連合軍3万8千人に対し、武田軍1万5千人は雨もよいの中進軍を試みますが、三段に設けられた馬防柵、土塁、火縄銃に行く手を遮られ、一部が馬防柵を突破するも、時間と共に信玄以来の武将の相次ぐ討死等損害を積み重ね、遂には撤退を余儀なくされました。
 武田軍は1万2千を失い撤退する中で、追撃する織田・徳川連合軍も5千を失う激しい戦いでありました。”
【写真左】登城用階段付近
 おそらく、新東名高速道路敷設に伴う周辺整備工事に併せて設置されたものだろうが、それまでは茶臼山の南麓から登って行く道が使われていた。
 両脇に「奉納 茶臼山稲荷祭」と書かれた赤いのぼりが立てられている。


鉄砲隊の威力

 長篠・設楽原の戦いで画期となったのは、大量の鉄砲隊が動員されたことである。織田・徳川連合軍、及び武田軍のそれぞれの兵力は、諸説あり確定されていないが、説明板にもあるように、武田軍の兵力に対し、織田・徳川連合軍はおよそ2.5~3.0倍とされている。

 さらに、この戦いで織田・徳川連合軍は2,500もの鉄砲隊を活用した。対する武田軍は「馬一筋」といわれる騎馬隊である。武田軍が信長らの鉄砲隊に関する情報はある程度知っていたものと思われるが、このときはそれほどの威力はないものと踏んでいたのだろう。

 果せるかな、武田軍はこの戦いで信玄以来の勇将といわれた山縣昌景・馬場信春・内藤昌豊など討死し、数千の兵力がこの合戦で散った。
【写真左】茶臼山稲荷の参道
 階段を登り、道なりに進むと、途中で南から登ってくる参道と合流する。
【写真左】茶臼山稲荷(神社)
 奥の高台に本殿が祀られ、その下が境内になっている。信長軍は主としてこの場所を軍議を行う際使っていたのだろう。

 なお、茶臼山には斜面に横穴式古墳2基があり、茶臼山の北側では平安末期といわれる経筒が出土している。また茶臼山稲荷とは別に山住稲荷という社もあったようだ。
【写真左】茶臼稲荷社の本殿
 当社本殿の建築様式は宮大工が建てたような神社形式のものでなく、現代風の建物で小規模なものだが、昔から氏子よって鎮守してきたものだろう。
【写真左】神社裏
 信長軍はこの茶臼山の東側を主な陣所とし、家康軍は茶臼山南麓に陣を構えたといわれている。
【写真左】織田信長歌碑が刻まれた石碑
 上掲した珍しい信長の歌碑が刻まれている。
【写真左】PAから鈴木金七誕生の地を遠望する。

 鈴木金七は、前々稿長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内) で紹介した鳥居強右衛門と共に長篠城を脱出し、岡崎に向かったが、かれはそのまま岡崎に留まったという。

 このため、強右衛門はその後英雄扱いされたが、金七は武士を捨て帰農した。
【写真左】新東名高速道路の長篠設楽原PA
 写真は下りのPAで、奥の林を超えると上りのPAがある。上下とも道路の南側に設置してある。