2012年3月30日金曜日

備中寺山城(岡山県高梁市川面町)・その1

備中寺山城(びっちゅうてらやまじょう)・その1

●所在地 岡山県高梁市川面町
●築城期 平安後期(1159~67ごろ)
●城主 難波六郎経俊、三好阿波守尊春、毛利氏など
●高さ 310m(比高200m)
●遺構 郭・堀切・竪堀・土塁など
●登城日 2012年3月28日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 今年(2012年)3月20日、四国の神社仏閣・山城探訪を終えて、いつもなら高速道路を使って帰るのだが、ワンパターンとなった岡山・米子自動車道の道中は、いささか食傷気味にもなっていたこともあり、高梁川と並行して走る国道180号線を使って帰ることにした。

 備中松山城(岡山県高梁市内山下)の西麓を過ぎ、鳴門大橋というところを超えた途端、真正面に伐採された3つの頂をもつ連山が現れた。
【写真左】寺山城遠望
 南東麓の川面駅付近から見る。


次稿以降で現地遺構を紹介する予定だが、寺山城は三つの峰と、右側に見える低い尾根筋を使った馬場跡を含め、4つの区域から成り立っている。



気になったので、少し過ぎたところで対岸の旧道を使ってUターンし、JR伯備線の川面(かわも)駅に車を止めた。すると、ホームの奥に四角い立て看板が見える。

【写真左】ホーム側に設置された看板

「川面の町の背後にそびえる 寺山城跡
 製作 平成22年度川面小学校卒業生一同」

とある。



 すでに夕方近くになっていたが、「これは見ておかなくては」と、できるだけ近くに向かうことにした。川面駅からさらに南東に進むと踏切があり、これを超えたところにさらに立派な看板が見えた。

詳細な縄張図を添えた「寺山城跡」の看板である。

“寺山城跡


 川面の町の背後にそびえる寺山城。
 鎌倉時代の難波六郎経俊、室町時代の三好阿波守尊春らの在城を伝える。
 天正の備中兵乱(1574~75)では、毛利軍が陣を張り、備中松山城を攻めたという。


 城域は東西およそ650mに及び、備中でも有数の大規模山城である。
 山上には多数の郭や堀切、土塁などが今も残り、堅固な城の様子を伝えている。
【写真左】寺山城の看板




寺山城の縄張り


 中世の山城は、山頂や尾根上を中心にして、郭と呼ばれる平坦面を造成し、そこに建物を建てたり、兵(あるいは村人)を集めたりして敵に備えた。

 また、敵の侵入を妨げるため、堀切や土塁などを設けて防御を固めた。これらの施設の構成、配置のあり方を「縄張り」と呼んでいる。”



 『日本城郭体系第13巻』によれば、説明板にもあるように、難波六郎経俊という武将が城主であったという。おそらく築城者も彼難波経俊と思われる。

難波六郎経俊

 平治元年(1159)12月9日、源義朝・藤原信頼らは、前年譲位し院政を始めた後白河上皇の院御所を襲い、上皇を内裏に移し天皇とともに幽閉した。熊野参詣にあった平清盛は急ぎ京へ戻り、義朝・信頼を破り、上皇と天皇を救った。これが世にいう平治の乱である。

 このとき、平家方の平重盛に随従していたのが、当時備前を本拠としていた難波二郎経遠・三郎経房兄弟で、隣国備中からは妹尾太郎兼康がいた。
【写真左】撫川城
所在地 岡山県岡山市北区撫川(撫川公園)








 妹尾太郎兼康については、備中・撫川城(岡山県岡山市撫川)でも紹介しているが、最期は木曽義仲に討たれることになる。

 今稿「備中寺山城(以下「寺山城」とする」の城主とされる難波六郎経俊は、名前から考えて、この難波二郎・三郎らの兄弟と思われ、六男だったものと思われる。

 このことから、平治の乱による論功行賞によって、難波兄弟のうち六男・経俊については、この備中川面の地が安堵されたと想像できるが、具体的な事例からいえば、つぎに述べる動きのほうがより信憑性が高い。
【写真左】「かわもの昔 見て歩き」と題された川面町の史跡案内図
 この案内図には、寺山城の他に山城としては、「城平山城」(鴨谷城平山)も記され、築城者は近くに、六郎屋敷・六郎谷などという地名が残っていることから、寺山城と同じく、難波六郎経俊であったといわれている。


 このほか、元亀年間に成羽城主・三村元親に攻められ、千人の死者が出たことから、「千黒塚」といわれる塚が記されている。


 それは、平重盛が仁安2年(1167)に権大納言となってから、東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討の宣旨を受ける(「兵範記」)ことになるが、おそらくこの中の山賊の追討を任されたのが経俊と思われ、備中に移住していくことになったのではないかと考えられるからである。

 次稿では戦国期の様子と併せ、寺山城の遺構を紹介したいと思う。

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