2012年3月5日月曜日

鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)

鶴城(つるじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城
●別名 田結庄城
●築城期 室町時代(永享年間1429~41)
●築城者 山名氏
●城主 田結庄(たいのしょう)氏、垣屋氏など
●形態 山城
●高さ 112m(比高110m)
●遺構 郭・堀切・土塁等
●指定 豊岡市指定文化財
●登城日 2011年5月28日

◆解説
 鶴城は兵庫県豊岡市を流れる円山川の東岸愛宕山にあって、城域の真下を北近畿タンゴ鉄道宮津線が走る。
【写真左】鶴城遠望・その1
 北西麓の豊岡大橋東の交差点付近から見たもの。


 登城日は雨天のため、写真の出来が今一つとなった。
【写真左】鶴城遠望・その2
 赤穂浪士で有名な大石内蔵助良雄(よしたか)の妻・理玖(りく)の墓がある正福寺から見たもの。
 撮影日 2015年3月28日



現地の説明板より

“豊岡市指定文化財
 史跡 鶴城跡
城史
 鶴城は南北朝期から戦国期にかけて円山川下流域に勢力を振るい、「山名四天王」の一人に数えられた国人・田結庄氏の居城である。


 伝承では、永享年間(1429~41)の但馬守護山名宗全による築城であるという。天正3年(1575)10月に起こった野田合戦で垣屋豊継らに攻められ城主・田結庄是義は、菩提寺の(旧)正福寺で自害した。その後、天正8年(1580)まで豊継の支配するところとなった。
【写真左】案内図
 登山口に設置されているもので、これを見ると登城口は5か所あるようだ。この日は左下の現在地という船町天満宮近くの箇所から向かった。








縄張り
 鶴の後尾部にあたる主郭Ⅰの背後を2段の堀切で切断して城域を確保し、北西方向には土塁を多用した曲輪を配置し、南方向には大きい曲輪(Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ)を配している。


 愛宕神社南側の尾根には小曲輪を多用し、曲輪Ⅵのあたりは土塁と竪堀で防御している。特徴的なのは、主郭Ⅰの北側と東側斜面には戦国期特有の畝状竪堀を設けて防御を堅固なものにしていることである。
 城域は、南北660m、東西460mを図る大規模なもので、国人・田結庄氏にふさわしい規模と縄張りを有し、但馬でも有数の城郭である。
【写真上】縄張図
 説明板にもあるように、鶴城の特徴は東側に夥しい数の畝状竪堀群が配置されていることである。


愛宕神社・宝城寺跡
 元和5年(1619)、城跡に愛宕大権現を勧請、別当寺として宝城寺が置かれ、豊岡城下の辰巳にあって歴代領主家の祈願所となった。明治以降、宝城寺は廃され、代わって愛宕神社が置かれた。
    平成7年3月 豊岡市教育委員会”


室町幕府の衰退

 室町幕府の安定期は3代・義満の時代である。しかし、4代目の義持は父とは違う執政を布いた。 三管領(斯波・細川・畠山)と、四職山名赤松・京極・一色)という有力守護の合議制による幕政は、当初から各々の主導権争いの種をまき、さらには義持自身が後継者を決めぬまま亡くなると、6代将軍は石清水八幡宮の「くじ」によって義教が選ばれた。

【写真左】足利義教の墓(首塚)がある安国寺
 所在地 兵庫県加東市新定851








 その義教は、父義満にならって幕府・将軍権力の再強化をすべく、独裁専制政治を強行した。

 このために嘉吉元年(1441)6月24日、四職の一人・赤松満祐は京都の私邸において、義教を謀殺(嘉吉の変)、これをきっかけに、以後、次期将軍争い、幕府内の権力闘争、畠山氏の後継者争い、斯波氏の後継者争いなどが重層的連鎖となって続き、ついに応仁の乱という未曽有の大乱へと向かうことになる。
【写真左】足利義教の墓
 加東市指定文化財の宝篋印塔。


 謀殺した赤松満祐は、義教の首級を奉じて播磨の堀殿城に帰参した。
 そして、そこから大行列を伴って当院まで運び、播磨の禅僧を多数集め、盛大な法要を営んで葬ったという。
 堀殿城は別名河合城とも呼ばれ、小野市新部町字構にあったとされるが、現地はすでに田圃となっている。『城郭放浪記』氏が紹介しているので、ご覧いただきたい。

山名氏の但馬支配

 これまで度々紹介してきたように、山名氏は南北朝期の貞治3年(正平19:1364)、時氏(山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)参照)の代に丹波・但馬・美作・因幡・伯耆の各国を領有し、第一期の隆盛を迎える。その後、明徳2年(1391)に起こった明徳の乱において、一敗地にまみれ、但馬・因幡・伯耆の三国に縮小された。

 時氏が没したのは応安4年(1371)だが、彼には多くの嫡男がいた。このうち、5男・時義の孫(時煕(ときひろ)の子)・持豊(宗全)(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照)の代になると、嘉吉の乱が勃発し、宗全はこの功により備後・安芸・石見・備前・美作・但馬・播磨等を領有、再び山名氏の第二期黄金時代を迎える。
【写真左】愛宕神社の鳥居
 妙見堂を抜けてしばらく行くと、この鳥居が見える。江戸期に入った元和5年に建立されたという。
 戦国期まではこの削平地は郭としての機能を持っていたものと思われる。


応仁の乱

 そして前述したように、応仁の乱(1467~77)が起こると、宗全は西軍の総大将となり、出石の此隅山城(兵庫県豊岡市出石町宮内)に各国の諸将を集結させ、京都に向かった。
【写真左】此隅山城遠望
 所在地 豊岡市出石町 H:140m
 応安5年(1372)山名時義築城。応仁元年(1467)山名氏の軍勢26,000余騎が当城に馳せ参じ、京に向かった。





 結局この応仁の乱は約10年にも及び、宗全は東軍方の細川勝元と同じく、乱が収束する前の文明5年(1473)に亡くなる。

 鶴城は説明板にもあるように、築城者はこの山名宗全とされている。応仁の乱は後に室町幕府瓦解のきっかけとなる乱だが、幕府内における権力闘争において、事実上三管領家の細川勝元と、四職家の山名宗全の主導権争いが対立軸となっていった。
【写真左】宝城寺跡
 Ⅳの郭跡で、宝城寺という寺院跡でもある。当城の郭群の中では幅がもっとも大きい。






山名四天王

 山名宗全は幕府の四職、すなわち侍所所司という京都の警護・争い調停(裁判)を務めていたため、ほとんど在京を余儀なくされていた。このため、多くの領国を所有していた山名氏は、それぞれの国に守護代をおきその権限を委任していた。

 山名四天王については、桐山城(鳥取県岩美郡岩美町浦富)でも少し紹介しているが、室町後期における山名氏の領有する国のうち、但馬国では垣屋氏がもっとも有名である。これら垣屋氏と並んで、山名氏を支えたのは、田結庄氏、八木氏、そして太田垣の四氏である。四氏は戦国期に至ると「山名四天王」と呼ばれた。
【写真左】南西方向に豊岡城を見る。
 豊岡市街地の独立丘陵・神武山(H50m)の丘城で、築城者は山名宗全といわれているが、別説では、戦国期に宮部継潤が築城したともいわれている。


 手前に見える川は、円山川で左側が上流部。上から見ると、現在の豊岡市街地のGLは円山川の川底とあまり変わらないように見える。

 丁度この辺りは、主流の円山川と、支流の六万川が合流する地点で、中世には度々洪水を起こしていたと思われる。


 当初各氏が治めていた地域は次の通りである。
  • 垣屋氏    初期は豊岡市西気谷という現在の神鍋高原付近で、その後東方の竹野谷という現豊岡市竹野町周辺まで拡大。東の境は円山川まで。
  • 田結庄氏   出自はおそらく円山川の河口東岸にある田結(たい)という丹後と接する地区の出と思われるが、支配地は垣屋氏との境となる円山川を挟んだ東方の地区で出石辺りまで。
  • 太田垣氏    朝来郡竹田(居城・但馬竹田城
  • 八木氏     養父郡八木(居城・八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木)
戦国期但馬国の守護は、山名祐豊で前任者誠豊の死去によって大永8年(1528)に家督を継いだ。この祐豊のとき、家臣であった田結庄是義は愛宕山に鶴城を築いた(改築とも)ともいわれ、当城を居城とした。
【写真左】Ⅲ郭
 宝城寺跡(愛宕神社)の郭から先に進むと、一旦2m程度下がってⅢの郭が控える。
 写真にもあるように、Ⅲ郭の東側には小規模な腰郭が付随され、さらにその先の斜面から当城の特徴である畝状竪堀群が見えてくる。


 説明板にもあるように、山名氏を主君として仕えた四天王とはいうものの、世は下剋上の時代である。

 筆頭家老であった垣屋氏と、田結庄氏は領有地が円山川を挟んで接することから、度々軋轢を生じ、さらには垣屋氏は主君であった山名氏をも追いやるなど、但馬国における山名氏の統制は衰退していった。

 尼子氏が滅び、西国の雄となった毛利氏と、畿内を制圧してきた織田氏が台頭すると、これら四天王といわれた四氏は、それぞれ独自の道を選び、関ヶ原の戦い後、筆頭格であった垣屋氏は西軍であったため没落した。
【写真左】土塁跡
 Ⅰ郭付近のものだが、全体に鶴城は東側の防御に重点が置かれ、畝状竪堀群と併せ土塁もすべてこの方向に配置されている。
【写真左】主郭付近
 この日は次第に雨脚が強くなり、主郭手前で戻らざるを得なかった。
【写真左】井戸跡か
 復路は東側の帯郭側を通ったが、その途中にみえた窪地。
 おそらく井戸跡だったと思われる。


なお、主郭から先は西方向に曲がって、4段の郭群がつながり、さらにその先に尾根を分断する堀切・竪堀があるようだ。
 また、これとは別に西方の貴布祢神社後背に独立した出城のような城砦もあるようだが、天候があまりにも悪くなったため、踏査していない。 

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