2012年3月11日日曜日

津居山城(兵庫県豊岡市津居山)

津居山城(ついやまじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市津居山●築城期 室町時代
●築城者 奈佐氏、または垣屋氏
●城主 奈佐日本助等
●高さ 113m(比高113m)
●遺構 郭、堀切、土塁
●備考 石造九重塔
●登城日 2012年3月7日

◆解説(参考文献「1990年度、兵庫県指定文化財 石造九重塔解体修理工事概要報告書」等)

 前々稿「鶴城」の麓を流れる円山川は、長さにおいては当県(兵庫)では68キロで5番目ながら、流域面積では2番目を誇る。
【写真左】津居山城遠望
 南東麓の瀬戸付近から見たもので、ほぼ中央部が主郭の位置になる。







 現地に足を踏み入れて驚くのが、円山川の水面と、西岸堤防を走る道路(豊岡瀬戸線:県道3号線)面との比高差がほとんどないことである。

 その上、河口から16キロも入った内陸の出石川まで、塩分が入ってくるというから、いかに勾配のない川であるかわかる。このため、下流の各河川には要所に水門が設置され、塩害対策を含めた治水管理をしているという。

 さて、その主流円山川が日本海に注ぐ西岸突端には、津居山という標高100m余りの独立峰が屹立している。
 この津居山は元々本土側と分離した島だったようで、現在でも北から南にかけて幅30m程度の水道(海峡)が残っていることから、「瀬戸」と呼ばれる地区がある。
【写真左】照満寺本堂
 津居山城のある尾根の北側の谷に建立されている浄土真宗本願寺派寺院。
 創建期や津居山城との関係は不明だが、何らかの関わりがあったかもしれない。




 津居山城は、室町期にこの津居山に水軍城として築かれたといわれている。
当城については、詳細な記録は残っていないが、山名氏が但馬国守護となったころと推測できる。

そして、戦国期に至ると、津居山城には奈佐日本助が在城したといわれる。
【写真左】登城口
 港町特有の狭い通りのため、駐車場は皆無である。このため、照満寺の墓地専用駐車場を借りた。


 たまたま、近くに当院檀家総代の御年輩の方お二人がおられ、許可を頂き、さらに当城についての情報を訪ねたが、八幡神社は知っているが、この山が城であることは全く知らない、という。


 むしろ、こちらの質問よりも、我々が出雲から来たことに驚いておられたようで、とりあえず登城道のみの情報を頂いた。
津居山城の尾根筋の東端部に八幡神社が祀られているが、登城口はこの参道を使う。なお、このコースとは別に反対側の瀬戸からもあるようだが、駐車の関係でこちらから向かう。
【写真左】八幡神社
 館城跡ともいわれている場所で、幅約20m×長さ100m弱の規模を持つ。


 先ほどの御年輩の方によると、近年地元の人は参拝していないとのこと。したがって祭礼行事なども行われていないのだろう。
【写真左】亀塚
 本殿の北側に建立されているもので、説明板によると、津居山沖で捕獲された縁起物の亀の供養と、村の繁栄発展、大漁を祈願して建立されたという。


 石碑の横には次のような碑文が詠まれている。


“つきせしな いくよろず代も やすらかに 
 まほもつ舟の 湊をおもへは


 文化9年(1812)壬申2月有3日
  郡宰 藤原 正義
  里正 太良 右衛門
  次長 平蔵
 治郎左衛門 者得え   與三右衛門”

奈佐日本助(なさやまとのすけ)

 奈佐日本助については、前稿但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山)や、出雲の満願寺城(島根県松江市西浜佐田町)・その2でも少し紹介しているが、最期は天正9年(1581)、同じ山陰海岸の西方美方郡浜坂のの城主塩冶周防守と、秀吉の鳥取城攻めの際、毛利方として戦い、丸山城で自決した。

 奈佐氏は、但馬日下部氏の庶流といわれ、室町期の守護であった山名氏の四天王の一人・八木氏の新大夫安高の二男・五郎高重が、城崎郡奈佐谷(現豊岡市奈佐谷)を安堵され、高重嫡男左衛門尉高盛が、初めて当地名から奈佐氏を名乗ったといわれている。
【写真左】南側の帯郭
 大分崩れているが、2,3m程度の幅で東西に延びている。








 奈佐氏が当初安堵された奈佐谷は、八木氏の本貫地から北東へ30キロ近くも離れた円山川支流の奈佐川が開いた谷間である。

 そして、その区域は八木氏よりもむしろ垣屋氏が支配していた竹野や、円山川東岸の田結庄氏領に近接している場所である。戦国期に至って、奈佐氏が本拠としていた内陸の奈佐谷から、日本海に突き出た津居山、すなわち日本海岸側に移った経緯ははっきりしないが、円山川という但馬最大の河川が大きく影響していたのではないかと考えられる。
【写真左】堀切
 館城(八幡神社)の後ろに構築されているもので、堀切独特のV字溝の形状ではなく、ほとんど凹字状のものとなっている。幅・長さとも5m前後の規模。


 この写真では右側が八幡神社で、堀切左を超えて本丸へ向かう。



 というのも、冒頭でも紹介したよう、円山川水系の特徴、すなわち中流域まで海水が入り込む特性を生かして、奈佐谷という内陸にあっても、船で奈佐川から主流円山川向かい、さらには日本海へ容易に移動できるという地の利を生かした水運を活動の足掛かりとしていたのではないかと考えられるからである。

 日本海を使った水運の歴史が産業史として出てくるのは、およそ鎌倉期に至ってからである。もちろんそれまでの平安期から航路の長短はあるものの、本格的な交易としての体系が確立したのは中世とされている。
【写真左】本丸へ向かう途中の道
 津居山城の本丸跡には通信無線基地があるため、道の脇に電柱が並行して走る。
 訪れたこの日は、雪解け跡だったこともあり、伸びきった草や、萱などは押し倒され、歩けたが、夏場などは難渋するだろう。


 ただ、無線基地の管理が定期的に行われているせいか、踏み跡はしっかりと残っている。
 この写真は郭段にも見えるが、電柱を設置するために盛土したようにも見える。


 石見・出雲・伯耆・因幡・但馬辺りに荘園を持つ京都の領主は、運送手段を日本海水運に求め、おおむね若狭小浜まで運び、陸揚げした後は九里半街道-琵琶湖経由で京都に持ち込んだ。

 これにより、山陰沿岸部には多くの湊や津ができ、さらには要所ごとに「海関」が設定されていく。
河川港といわれる津居山港は、そうした意味からも西隣の北前船寄港地とされた竹野港と併せ、但馬海岸の主要な海運基地としての役割を担っていくことになる。
【写真左】本丸跡
 丸みを帯びたなだらかな削平地で、30m四方程度の規模。
 現地にはNHKやaUなどの無線中継基地が設置されている。


 周囲の切崖状況はブッシュ状態のため詳細に確認はできなかったが、南側は天険の要害で、北側は谷筋となっているため、ほとんど城砦遺構はないだろう。


 奈佐氏は海賊衆ともいわれている。俗にいう「海賊」とは少し意味合いが違うが、これは南北朝期に伯耆で活躍した名和長年らと同じく、廻船業を生業としながら、交易上船舶輸送の安全・警固を自警しなければならなかった結果であって、水運上の武装は必然的なものであったと思われる。さらには、但馬守護山名氏配下として、山陰海岸の権益を確実なものとするため、水軍領主として軍船団の組織化が図られていった。
【写真左】本丸跡から西方を見る。
 眺望はあまりよくないが、西方の海岸部が枯れ枝のおかげで見える。






 さて、奈佐日本助の活躍については、前段でも紹介したように戦国に至ると、尼子氏や毛利氏の進出によって、主に西方の因幡・伯耆・出雲方面での戦歴が増えてくる。

「満願寺城」の稿でも紹介したように、山中鹿助が尼子再興軍を従えて出雲国に入ったとき、日本助も彼らに従い、水軍を以て毛利方の拠る満願寺城を攻めている。
【写真左】円山川
 下山途中から見たもので、右岸を登っていくと城崎温泉へ向かい、さらに川を上ると、豊岡市街地へつながる。






 尼子再興が潰えた後、日本助は塩冶高清と同じく、今度は毛利方として織田方羽柴秀吉の鳥取城攻めの際、北方の丸山城に拠って活躍するが、鳥取城主吉川経家の降伏によって敗れ、経家の切腹と併せ、日本助及び、塩冶高清も陣所において自刃を遂げた。
【写真左】鳥取城の支城・丸山城麓にある「奈佐日本助由縁の地」とされた慰霊碑
 鳥取市にある丸山城については、いずれ取り上げたいと思う。






石造九重塔と城砦遺構

 津居山城の東方には現在八幡社が祀られているが、この場所に兵庫県指定文化財とされている「石造九重塔」が建立されている。

 建立時期は、鎌倉中期をあまりくだらない時期と推定されているが、設置個所である八幡神社の境内は、北西に延びる山頂側(詰城)に対する館城跡と推定されている。
【写真左】石造九重塔
 高さはおそらく3m以上はあるだろう。
 若干の破損個所はあるものの、修理保全をされていることもあり、良好な状態で保たれている。








 参考までに、境内付近の遺構としては、社後方に幅10m前後の堀切を置き、北側には土塁、南側と西側には帯郭など小規模ながら密度の高い城砦遺構が残る。

昭和60年代になってこの九重塔が傾き始め、破損する恐れが出たため、復旧修理を行うことになった。そして、この事業に伴い調査も併せて行われたが、基壇石組内、及び下部から九重塔の建立時期や意図、背景などをうかがわせる遺物などは残念ながら出土しなかったという。

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